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レイナちゃん

午後9時の消灯から9時間はベッドから起き上がることができない。睡眠の確保のために、就寝前にはしこたま睡眠薬を飲まされるから。錠剤だけで腹が膨れそうな量を、ぬるい水で流し込むのだ。

そのあと、「おやすみなさい」といっても夜勤の看護師は挨拶を返すことはなく、「口」とだけいって口を大きく開けるよう促す。きちんと全部の薬を飲んだか確認するためだ。僕がそれに応じると、面倒そうに口内を見た看護師は「はい」とだけいって次の患者の対応に移る。いつものことだ。

ぺたぺたとスリッパで擦り気味に廊下を歩く。薬さえ効いてしまえば、あとは横になって意識を手放すだけだ。余計なことを考えずに済む。プラスチック製のカップにデイルームに置かれた給茶器から水を注いで、ほんの少し唇を湿らせた。年中エアコンがきいているのはいいが、そのせいで乾燥がひどく唇がしょっちゅう割れてしまうのだ。

「おやすみなさい」

こちらにあいさつをしてきたのは、僕よりひとまわり年上と思しき隣の部屋の男性患者だった。

「おやすみなさい」

僕が返事をすると、その男性は嬉しそうに会釈して部屋に戻っていった。見かけない顔だ。入院して間もないのかもしれない。

***

その日の朝も僕は鈍い頭痛とともに目を覚ました。中途覚醒がなくてよかった。追加の睡眠薬の頓服を求めてナースステーションに行ったところで、夜勤で機嫌の悪い看護師から嫌味を言われるか聞こえよがしにため息をつかれるのが関の山だからだ。

食事は朝食が七時半。デイルームのテーブルの席は決められており、食事時だけ名札が置かれる。配膳する看護助手に名前を呼ばれ、一人ひとりがトレーを受け取り、「いただきます」もなく各自黙々と食べ始める。

ブロイラーみたいだ、と僕は内心で自嘲する。何にも迷わず、惑うことも悩むことなく、目の前の栄養バランスの優れた食事を残さずに食べることだけが、この時の患者たちのミッションとなる。

「やだあ、私、これ嫌い!」
「私はこれが嫌」

若い女性患者同士が嫌いなおかずを交換しあうのを見つけた看護師が、「勝手なことをしないで!」と二人を叱責した。一人は子どものように泣きだし、もう一人は怒りのあまりスープをトレーにひっくり返した。

近くにいた看護助手がモップをもってきて床にこぼされた液体を拭き取る。泣いている女性が、「私は、悪くないのよう」としゃくりあげると、スープをぶちまけたもう片方の女性はいよいよ気まずくなり、「あんたが椎茸食べられないっていったからいけないんでしょ!」と怒鳴った。それでなにがしかのスイッチが入ってしまったらしく、その女性は何語かわからない、そもそも言語なのかもわからない金切り声を上げはじめた。

その場の他の患者たちは見て見ぬふりに徹し、自分のトレーにのった皿を空にすることに集中した。そうせざるをえなかった。さもないと——

「はいはい。いい子はあっちに行きましょうねー」

明らかに腕っぷしのいい男性看護師が二名駆けつけて、喚きちらす女性患者の肩と腕をがっしりと掴む。まるで猛獣の捕獲だ。

「放して! 放してよ!」

「みんなの迷惑だからねー、あっちに行こうねー」

「あっち」とは、すなわち保護室という名の独房のことだ。彼女は今からそこで「お仕置き」を受ける。

「あーあ」

誰かがぽつんと呟いた。先ほどまで泣きじゃくっていたほうの女性患者は、椎茸だけを器用に残してあとは全てを食べ切っていた。

「食事は残さないでください」

看護助手にそう言われ、彼女がまた泣きそうになるのを見た看護師長が「もういいわ」と大きくため息をついた。

確か泣いたほうの女性は最近入院してきたはずだ。僕はちらりとそちらを見たが、一瞬彼女の目尻が下がっているように見えたので、すぐに視線を逸らし、ぬるくなった野菜のスープを飲み干した。

他人事としてやり過ごす。ここではそんなことが肝要なのだ。

***

ラジオ体操ののち作業療法の時間になると、曜日によって決められた患者が別部屋に集められる。めいめいに塗り絵や書道、折り紙などをしているのだが、僕は何をするでもなく、窓辺で初夏の日差しを受けて萌える院内の樹々の葉が風にそよぐのを眺めていた。

「これ、見てもらえませんか」

僕に話しかけてきたのは、昨夜就寝前に挨拶を交わした男性だった。男性はぬり絵をしていたのだが、それはいわゆる大人向けの難易度の高いもので、非常に細かい絵柄に緻密かつ丁寧に色が配置されている。

「結城さん、すごいじゃないですか」

返したのは僕ではない。近くにいた作業療法士だった。結城と呼ばれた男性は軽く会釈して、やはり僕にぬり絵の感想を求めた。

僕はその絵をじっと見つめた。それは自傷防止のために先端の丸くされた色鉛筆で仕上げたとは思えないほどタッチが力強く、また洗練されていた。

「どうしたらそんな風に塗れるんですか」

僕が興味を示すと、結城は嬉しそうに答えた。

「塗る前の線たちが、『優しく塗ってくれ』ってリクエストしてくれるんです。だから、それに応えてあげたんです」
「声がしたんです?」
「ええ」

そんなことは、ここではよく話される経験だ。しかし結城のように、嬉しそうに話す患者は珍しいと僕は思った。

「それ、納涼祭で飾りますね。預かります」

作業療法士が結城本人の許諾も得ずにぬり絵を回収し、鍵のかかったキャビネットにしまってしまう。だが結城は終始にこにこしながら、

「また、塗ればいいですから」

と、作業療法士を睨みつける僕をどこか説得するようにいった。

***

売店で欲しいものを買い物伝票に記入し、病棟スタッフに代わりに買いに行ってもらって、その物品を支給される。そこから手数料が引かれるだけではなく、「管理費」の名目で日額数十円をとられる。それを搾取と呼ばずしてなんといおうか。

僕は有名作家の新作小説をお願いしていた。僕のすぐ後ろで順番を待っていたのが結城で、クレヨンを受け取っていた。クレヨンは異食の対象になりやすいため、使用後には必ず看護師に預けるように言われていた。

僕はデイルームに戻り、さっそく読書をはじめた。その隣に座って、結城はチラシの裏にクレヨンで絵を描きはじめた。結城の手つきは慣れたものだった。その軌跡には雑念がない。あっという間に、幼い女の子が柔らかく微笑んでいる絵が描かれた。

「娘です。レイナっていいます」
「かわいいですね」
「髪がくせっ毛なんです。目元は俺に似たってよくいわれます」

絵を見つめる視線は、娘を想う父親のそれだった。

聞けば、結城はサラリーマンとの兼業イラストレーターとして働いていたという。ある日突然、絵がこちらに話しかけてくるようになったのでそれと会話していたところ、その姿を発見した家族に勧められて、少しの間、ここで休養することになったのだと、笑いながら教えてくれた。

***

病院内の納涼祭は職員の福利厚生も兼ねており、リハビリという位置づけで患者たちは出みせでやれ焼きそばだのフライドポテトだのの盛りつけに駆り出される。

ソフトクリームの渦を巻くのに件の泣き虫女性患者が苦戦していると、若い看護師たちがケラケラ笑って「早くしなさいよー」「そんなこと言ったらまた泣いちゃうんじゃなーい?」などとうそぶいていた。

僕と結城は、会場となった駐車場の一番奥に設けられた「みんなの作品展」ブースを担当させられた。そこで日頃の作業療法で作ったぬり絵や工作品を飾っていたのだが、その中に、あの日結城が見せてくれた絵がないことに気がついた。

「あの、見当たらない作品があるんですが」

僕が尋ねても、ブースの監視をしていた作業療法士は「そうですか」と返すだけだった。結城は、それでもにこにこと笑みを浮かべていた。

***

それから一ヶ月ほどして、結城に外泊の許可が下りた。

小ぶりのリュックサックを携え、結城は「ちょっと、行ってきます」と僕にだけ挨拶をした。

「もうすぐ、レイナの誕生日なんです」

それを聞いた僕は正直、嫉妬心を抑えられなかった。結城には、自分と違って帰る場所がある。そのことが、どうにも虚しくてたまらなかった。

僕は会釈する結城を無視した。それでもなお、結城は笑顔でこちらに手を振りながら病棟を去っていった。

——なぜ、あの時僕は、彼に声をかけられなかったのだろう。

この瞬間の己の弱さが、ずっと自分を苛むことになろうとは、このときの僕にはまったく想像できなかった。

ただ、ひたすらに虚しかった。悲しかった。……寂しかった。しかもそれらを口に出すことすらできなかった苦悩から、ひたすら目を背けていた。

しかし、そんなことは、しょせん卑劣な言い訳にすぎないのだ。

それから結城が病棟に戻ってくることはなかった。

外泊期間があまりに長いので、不自然に思って結城の携帯電話に病棟の公衆電話から何度も電話をかけた。個人情報のやりとりは自己責任として放置されていたため、僕たちは互いの携帯電話番号を交換していた。

僕の携帯電話は管理上の理由で没収されていたし、閉鎖病棟は外へ自由に出ることもできないので、ナースステーションの前の公衆電話からかける以外の方法がなかったのだ。

結城の携帯電話は留守電にもならなかった。だから何度もかけた。いつか出てくれると信じていたから。

しかし、それを病棟スタッフたちにひどく咎められた。時として口汚く罵られた。

喉の奥が焼けるような不快感を堪えながら、彼ら彼女らの罵声を背に受けても、毎日公衆電話から結城の番号をプッシュし続けた。しかし、ついに電話が繋がることはなかった。

***

ある時、隣の部屋で男性患者同士の喧嘩が起きた。看護師にいわれて仲裁するために僕はその部屋に入った。それで初めて気がついた。6人部屋のベッドに空きはなかったはずだったが、一番奥の空間に洗濯済みのリネンが畳まれて置きっぱなしになっていたのだ。結城は戻ってくるんだから、他の患者がリハビリと称してシーツ類を敷いておくはずだ。僕は失礼を顧みずに、間仕切りのカーテンの中へ顔を突っ込んだ。

結城が使っていたはずのベッドには、見知らぬ老年男性が直接マットレスの上でオムツをつけて昼寝をしていた。

どういうことかと尋ねても、ここぞとばかりに「個人情報だから」と医師や看護師には取り合ってもらえなかった。

結城はなし崩し的に退院したのかもしれない、と僕はどうにか自分を納得させようと思った。もしかしたらどこかの街で、レイナちゃんに得意のイラストを描いてあげているんだろう。

あの人は、一足先にここから出られたんたって。

***

その後、結城が作業療法の部屋に残していったあのぬり絵が、年末の「大掃除」のプログラム中に出てきた。作業療法士が即座に捨てようとしたので、それをどうにか止めて僕がそれを引き取った。

デイルームに戻ってそれを広げたところ、近くにいた看護師たちが「あっ」と声をあげた。

「やだ、あれってもしかして」
「ああ、あの人の? JRに飛びこんじゃった」

僕は視界が一気にぐにゃりと歪むのを止められなかった。喉の奥から激しい怒りが込み上げてきたことまでは、記憶にある。

それから先のことは、よく覚えていない。気がついたら保護室の中にいて、コンクリートでできた灰色の天井を見上げていた。

この灰色に、結城ならどんな色彩を添えてくれるだろう。そんなことを考える資格すら、僕にはもうないように感じられた。

右腕にじわりと痺れを覚えたので視線をやると、ガーゼがあてられていた。おそらく、きつめの薬を注射されたのだろう。頭の鈍痛はいよいよひどく、僕に整然とした思考を許さなかった。

ここは「心を癒す」場所などではないと身をもって理解していた。疲れ傷つき果てた人々が「正常」とされるものからの逸脱を余儀なくされた結果として、社会から隔離される場所に他ならないと。

散々傷ついてたどり着いた先で、またしてもその傷をえぐられる。そんな不条理が、この社会では「医療」としてまかり通っているのだ。

保護室から一般病室に移動が許可された日、僕はふらつく足をどうにか運んで自分のベッドへ戻った。頼んでもいないのに持ち物が整頓されていた。嫌な予感がして、床頭台の引き出しを開けるとそこには黒のボールペンで全面に「×」をつけられたレイナちゃんの似顔絵が転がっていた。

僕は薬のせいで怒りを抱く気力も奪われていたので、こみ上げる虚しさにどうにか耐えながらその絵を携えて、のろのろとナースステーションへ向かった。

ノートパソコンで日誌を書いていた看護師に向かい、僕はその無残になった一枚をみせた。

「これ、どういうことでしょうか」
「なにが?」

視線も合わせずに看護師がいう。異食や自傷を避けるために病棟内では患者たちにボールペンの所持は認められていない。だが、レイナちゃんの顔を汚したのが誰であれ、この絵を守れなかった僕が悪いことには変わりがない。

「……なんでも、ないです」

僕が踵を返して去ろうとすると、奥の椅子でふんぞり返っていた看護師長が、だるそうに顔を起こした。

「そういうの、もうやめたほうがいいわよ」
「……はい?」
「あの人には娘なんていなかったの。妄想よ妄想。そういうのに、いつまでも付き合ったって、なんか意味ある?」

ここは、心を癒すどころか、自分に尊厳というものがあることを忘れさせるための場所だ。このとき、僕はそれを痛みとして実感した。

僕がうつむいて立ち尽くしていると、看護師長は脅すような口調でこういった。

「なに、保護室がそんなに恋しいの?」

僕はそれから黙りこんだままデイルームにしつらえられたソファに身を沈めていた。するとその隣に、例の泣き虫女性患者がやってきて、唐突に僕にこういった。

「死にたいっていうと『それは生きたい、の裏返しだ』とかイミフなことカウンセラーとかに言われるじゃん。でも死にたいはそのまま死にたいって意味じゃん。でもそれを口にすると薬がガンガン増えていくでしょ? で、死ぬことについてさえ考えられなくなる」
「……そうかもしれませんね」
「その絵、もったいないね」

女性患者が無残になったレイナちゃんの似顔絵を指さした。

「びっくりしたよ、あなたがそんなことする人だなんて。でもまあ、気持ちはわかるけど」
「『そんなこと』?」
「ほら、保護室行きになった時のこと。デイルームにいたみんな見てたよ。あなた近くにいた看護師につかみかかってボールペン奪って、その絵にでっかくバツジルシつけちゃったじゃん。もったいないなって思った」

それだけいって、その女性患者は去っていった。強烈な罪悪感を覚え、何度か頭を横に振った。それだけでひどいめまいに襲われた。このままもう、なにもかも終わってしまえと心の底から思った。

マリーの日記

今日、彼と井の頭公園に行きました。
彼は怯えていました。昔、この公園では花壇から小指が見つかるという事件があったからだそうです。どうも、バラバラ殺人だったみたいです。
せっかくのデートなのに、彼は小指のことを考えていたのです。どうにも私は嫉妬心を止められず、キスをするふりをして彼の小指に噛みつきました。すると、彼は一瞬だけ驚いた顔をしたものの、すぐに手をほどいて私の髪をなぜました。
散歩の途中、ベンチで座ったまま身動きしない男性を見つけました。死んでいるのかしらと冗談を言ったら、彼は首を横にふるふると振りました。その動作が動物園のペンギンに似ていたので、私もよちよちと歩きました。
公園を一周したころ、手先も冷えてきたので喫茶店に入りました。彼はマンデリン、私はアールグレイを注文しました。彼はしなやかな指先でスプーンを持ち、ミルクをかき回していました。私はそのミルクになりたいと言いました。
あなたにかき回されて、そのまま飲み干されたいと。
自分の嫉妬深さに呆れるばかりです。今夜は、私もポインセチアの隣に植わった小指のことを考えようと思います。そうしたならば、きっとよく眠れましょう。

新宿駅のハンバーガーショップで、女子高生が二人、シェークを飲みながらダベっている。

私の隣できゃいのきゃいの、実に楽しそうである。

その日、仕事で嫌なことがあった私はやっかみにも近い感情で、彼女らを疎ましく感じていた。

ふん、楽しいのは今のうちだけさ。

そのうち受験だの就活だのに苦しむんだ、せいぜい貴重な青春を、こんな小汚い都会の隅で消費したまえ。

「電車が寒くて、でも外はめっちゃ暑いでしょ? 困るんだよね」

「わかるー! 制服だけじゃ寒いよね」

そんなどうでもいい話題で盛り上がれるのも、若さゆえ。でも、ちょっとうるさい。私は憂さを晴らすために、ノンビリとアイスコーヒーを飲みたいのだ。

ふと、女子高生たちの話題が途切れた。

「あ、やだぁ、リナ。制服のリボンほつれてるよ」

甲高い声で女子高生の一人がリナと呼ばれた少女の胸元に垂れた糸に手を伸ばす。

「本当だ! 気づかなかったぁ、恥ずかしー。ヤエ、ソーイングセットとか持ってる?」

リナのリボンからはみ出た糸を、ヤエは握りしめたまま、

「あるよ。ちょっと待ってて」

と言った。

リナが「ありがとう」と言い終える前に、ヤエは思いきり糸を引っ張った。

スルスルほどけていく、リボン。

しかし、ほどけていくのは、リボンだけではなかった。

私は自分の目を疑った。

リナが、ほどけていく。ヤエは流麗な手つきで糸をクルクル手繰り寄せてゆく。

あっという間にリナは糸の塊と化した。ヤエは慣れた手つきでカバンからソーイングセットを取り出すと、糸にリナを通した。

「これでもう、寒くないでしょ」

物言わぬ、糸。まさに生の、糸。

青春が甘酸っぱいだなんて誰が決めた。私が想像するよりも、それらはずっと湿っていて、私が経験したよりもずっと、生臭かった。

私の目の前でリナを片付けたヤエは、軽やかな足取りでハンバーガーショップを出ていく。

周囲の人間は気づいていないのか興味がないのか、誰一人として騒がない。

ヤエが、街に消えた。

私は気がつくと走り出していた。人混みをかき分けて走って走って、突如侵された日常を悼むために、ヤエを捕まえてその首を捕らえようと、した。

追いつかれたヤエはニコリと笑った。いざ触れてみると、ヤエの肌は老婆のそれだった。

ヤエは私に向かって、手を伸ばして、言った。

「ワイシャツの袖、ほつれてますよ」

しゃぼん玉

卯月の手前の日曜日、珍しく雪の積もった私たちの住む街は、少し怖いくらいにしんと静まりかえっていた。マンション四階の窓から外を眺めると、はらはらというよりはぼたぼたと雪が落ちて窓に打ちつけていた。

「うわー、季節外れ」

私が声をあげると、きみは文庫本から目を離さずにこういった。

「それって、どういう意味?」
「え?」
「3月の終わりに東京で雪が降るのはおかしいことかな」
「別におかしくはないけど」
「そう」

きみは本を閉じると、洗面所に向かっていった。私はソファに横になってそのままうたた寝を始めようと目を閉じた。

眠りに落ちるより前に、私はもう一度まぶたの裏にぎこちなく舞う白いかけらを思い浮かべた。

ふと、いつかテレビでたくさんの珊瑚礁が白化して死に至るというニュースが流れていたのを思い出した。その時に映像で観た珊瑚の白片は、今日この街に降り注いだそれにそっくりだった。

このとき「なんだか悲しいな」と私はいったのだが、きみは「これはこれで綺麗だね」といったので、本当に悲しくなってしまったのを思い出した。

ほのかな石けんの香りに気づいた私は、はたと瞬きして目を覚ました。時計の針が午後四時過ぎを指した頃、私の視界へ「おかしな」光景が飛び込んできた。

きみが紙コップとストローでしゃぼん玉を作っていたのだ。そのなかでもとびきり大きな一つが、私の目の前までふよふよと遊びにきてくれたのだが、私が手を伸ばすとあっけなくぱちんと弾けて消えた。

「変なの!」

昼寝を邪魔された私が少しだけ不機嫌にいうと、きみはわざと勢いよく息を吹いて、小さなしゃぼん玉をたくさん作った。

「おかしい?」
「うん」

きみは何が嬉しいのか、それからもしばらく洗面所からしゃぼん玉を作り続けていた。そのうちのいくつかはリビングにまで届いて、私のよく見える場所で消えていった。

「おいでよ」

きみがそういっても、私は首を横にふった。

「怖いの?」

なんという挑発をするんだろう。

そんなもの、怖いに決まっている。美しいものほど、すぐに目の前から消えてしまう。しゃぼん玉はいつだって、そのことを教えてくれているじゃないか。

「また作ればいいよ」

私の臆病さをよく知るきみだ。雪もしゃぼん玉も、明日にはすっかり消えてしまうし、消えてしまったことも、きっと私はもう気にしなんてしないのだろう。気にしないうちに忘れてしまって、忘れたことそのものを忘れてしまうのだ。

そう考えたら急に怖くなってしまって、私は考えるより先にソファから起き上がって、すぐにきみの横にぴたりとくっついた。

「どうしたの」
「それは、私のセリフだと思う」
「じゃあ、言ったら?」
「どうしたの」
「どうしたんだろうね」

なんだかおかしくなって、私たちは笑いあった。しゃぼん玉なんて何年ぶりだろう。
ストローを今度は私が吹いて、しゃぼん玉をリビングに飛ばした。そのうち一つが、きみのお気に入りの文庫本の上ではじけた。

「あー」

きみが楽しそうに手を叩く。私も楽しくなってどんどんしゃぼん玉を作っては失った。そのすべてが悲しくて、だから祝福すべきだと私たちはわかりきっていた。

外は暗めの曇天、せっかく満開になった桜もこごえていることだろう。花びらも湿った雪に耐えられずに散っていることだろう。

何もかもが他人事のような気がしていた。けれど、きみとの時間だけが私にとっての本当であれば、それでいいと思う。なにがあっても消えてほしくないと、強く願った。

たとえこのしゃぼん玉みたいに今のこの想いがはじけて消えてしまう時がきても、ふたりで過ごした時間は本当なんだと、いつか「その時」が来ても信じていられますように。

きみは文庫本を手にして、私に窓の外を見るよう促した。私がつま先立ちで窓辺にたたずむと、きみは後ろから腕をまわしてきた。

向かいの一軒家の屋根の上の雪は、すでに溶けかかっている。「なんだか寂しいな」と私がいうと、「これはこれで綺麗だね」ときみがいうから本当に寂しくなってしまったので、私はきみのセーターの袖に噛みついた。ふわりと石けんの香りがした。

変わらないものなんて、何一つ望んでいないよ。何もかもが流転して色彩も体温も変えてゆく。それは私だって同じことなんだ。

だから、いまこうして一緒にいられることも、当たり前だなんて、決して思わないよ。

見えない

目の悪いらしい老婆が眼鏡を上下させながら、見えない、見えないと呟いていたので、何かお探しですかと声をかけたところ、愛はどこかと問われたので困ってしまった。老婆はかつては少女で、その頃から探し続けているのだという。哀れな老婆を助けたい気持ちと、何をしているのだという蔑みの気持ちが同時に沸いた。しかし、愛はどこかと訊かれても、自分には答えることができないという事実に直面し、非常に戸惑っているのも確かだ。

この辺にあったはずだ、と老婆は自らの胸元を指した。だが、見えない、見えないと嘆き続けているのである。段々と憐みのほうが優ってきたので、取り敢えず右手を差し出した。すると、老婆は想像以上の力でそれを握り返してきた。老婆は更には頬に一筋の涙まで流して一言、ください、呟いた。戸惑いつつも、何をですか、と聞いてやると、あの日の歌を、と言う。知りませんと答えると、老婆の表情は一変した。

「無関心は最悪の暴力であり、振るうものは万死に値するので、今すぐ探せ♪」

そう、少女だったその女は老婆になるまでずっと歌ってきたらしかった。突き放すのは簡単だ。憐憫を吐き捨てればいい。しかし、どうにもそれが出来なかった。これは果たして同情か、それともただの好奇心か。どちらでもあって、どちらでもない。兎に角、老婆は愛を探していて、それがとても悲しいことなのだと、それだけは理解できた。

最果てレストラン

世界の終わりのその後に、ふたりは朽ちた一軒家で小さなレストランをはじめた。決してお客さんは来ない。それでもふたりはキッチンに並び、残された時間を丁寧に暮らしている。

「コロッケは意外と、手のかかるメニューだね」

じゃがいもの皮を一つひとつ剥きながら彼女がこぼすと、彼は「死にたい」と漏らしてから

「手のかからない料理なんて、ないんじゃない」

と、憂いを煮詰めたような声をあげて、しばらく笑い続けた。

過日の彼曰く、下ごしらえとは愛の萌芽のことで、盛りつけとはその愛を差し出す行為なのだそうだ。

真っ赤な雪の積もったこごえる朝、くちばしがアマリリスのつぼみのように六つに裂けた極彩色の小鳥が窓辺にやってきた。真綿色の実を運んできてくれたのだ。彼は「おいで」とその小鳥を招き入れ、慣れた動作で左腕にとまらせた。彼女が「わぁ!」と歓声をあげる。

「その実の種を植えたら、甘酸っぱい実がたくさん採れるかな」

「知らない」

小鳥がつぶらな眼を彼に向けてちょこっと首を傾げたので、彼は優しく微笑み返した。

その日のディナーには、彼女が今まで見たことのない色をした唐揚げが藍色の皿に並んだ。

その年三回目になる桜の満開を迎えた霜月のこと、彼の得意なはずのオムライスの卵のドレスが、フライパンから移すときに端から破れた。珍しいことだ。

彼は安いスナック菓子でもつまむような感覚で(あるいは深淵よりこちらを手招く悪魔をどうにか手なずけるために)「死にたい」と呟く。それからくだものナイフでまな板の上の空気をトントンとリズミカルに刻みはじめる。焦燥感に満ちた瞳で鋭利な切っ先を凝視し続けているその姿を見た彼女が、ふうわりと笑った。

「ねぇ、生きるってきっと楽しいよ。苦しみも痛みもコミコミで楽しいんだから、本当に素敵だよね。私、たとえあなたがそうやって狂ったままでも構わない。だってもう誰も、それを咎めたりしないんだから」

柱時計がぴたりと正午を報せる。それを合図にしたかのように、おずおずとした手つきで卵を割るところからやり直す彼。彼女が新しい皿を準備しながらあくびをすると、もう流れないはずの涙が、ぽろりと頬を伝った。

撃ち落とされた星のかけらが、金色に燃えながら紺碧の空を泳いでいく。変わることなく薄紅色をした桜の花びらが舞い踊るキッチンで、彼女は彼の頬に口づけた。

どこかで世界が胎動したことを、ふたりはまだ知らない。

純愛とか笑わせんな

「志望動機は?」

同期の中竹佳樹がタバコ片手にだるそうに聞いてくる。山積みになった捜査資料にゲンナリしていた僕はため息をついた。

「就活生かよ」

「社会の平和を守るため、は嘘だろ」

「なんでだよ」

「志望動機は?」

竹中は容疑者を詰問するような威圧的な口調で質問を繰り返した。

「なんで刑事になんてなろうと思ったんだ」

「別にどうだっていいだろ」

……言えない。

合法的に「こういう」画像を見られるから刑事になっただなんて、とても言えない。

僕は資料ファイルを閉じると、表紙部分に貼り付けられている数枚の写真を一瞥した。そこには今追っている事件の被害者が写っている。

——あらゆる角度から撮影された、惨殺死体が。

きみが生きている限り、僕はきみを愛せない。

「どうせ殺すなら、私にしてくださいね」

警視庁捜査一課きってのじゃじゃ馬事務員、宮川香織は僕のデスクにホットのルイボスティーの入ったマグカップをどんと置いて、トレイをひらひらさせながらそんなことを言い放った。

「いきなり何言ってるんですか」

「だって、そういう目をしてるんですもん」

「目?」

宮川は僕の顔をじっと覗きこんだ。

「私ね、父の職場見学で子どもの頃からたくさんの殺人犯に会ってきたんですけど」

「それ、いいの⁉︎」

「さあ。で、秋山さんって彼らと『おんなじ目』をしてるんですよ」

「はい?」

それだけ言って、宮川は鼻歌まじりに足取りも軽く去っていってしまった。

僕はそれが仕事にもかかわらず、いかがわしい本でも隠すかのような仕草でそそくさと捜査資料を片付け、席を立った。

きみが生きているせいで、僕はきみを愛せない。

きみが、生きているせいで。

金魚

「人魚はね、金魚を食べた人間の成れの果てなんだ。くちゃりと音を立てて食べられた金魚の恨みが、人間を人魚へと料理していく。だから、金魚は食べちゃダメだよ」

その話を祖母から聞いた調律師は、どうしてもその「くちゃり」が聞きたくて、ピアニストの少女を雇いました。調律師は頼みました。

「ショパンを弾いてください。できれば幻想即興曲がいい」

少女はとても素直だったので、幻想即興曲を弾き始めました。しかし、あまりにピアノの調律が整っていないので、途中で手を止めて嘆きました。

「これじゃ、ショパンに失礼です」。

調律師はこみ上げる笑いをかみ殺します。

「それはすみませんでした。今、調律しますね。そこに座って待っていてください」

「ええ。私、こんな朝早くからお呼び出しいただいて、とてもおなかが空いています。テーブルの上の果物をいただいてもよろしいかしら?」

「どうぞ。果物だけではなく、なんでもお召し上がりください」

それから、待てど暮らせど調律は終わりません。

ド、の音がずれると調律師は言い張るのです。

そんなことはないと少女は反論します。リンゴも、バナナも、マンゴーも食べ終わってしまいました。

一刻も早く少女はピアノを弾きたいのに、調律師は時々こちらをちらりと見るばかりで、作業を終える気配がありません。

少女は目を潤ませて懇願しました。

「私、ピアノに謝ります。だから、弾かせてください」

「そんな必要はありません。もしもまだおなかが空いていたなら、なんでも召し上がってください」

「もう私、果物は嫌。なんでもいいのかしら」

「ええ、なんでも」

少女は軽やかに調律師に飛びかかると、調律師の右手首を「くちゃり」と音を立てて食いちぎりました。

「ああ、この音か」

調律師は恍惚とした表情で呟きました。少女はみるみるうちに調律師を平らげ、満腹になった途端に人魚へと戻り、鱗をビチビチ言わせながら遥かなる海へと帰っていきました。

全てを見ていたのは、水槽の中の金魚だけでした。

はじめて

オーケストラの演奏が零時ぴったりに見事にフィニッシュし、拍手と歓声と派手な花火の演出が、2018年の始まりを告げた。
「あけましておめでとう」
私が言うと、彼はあくびをしながら
「うん」
とだけ応じた。それからまもなく、二人して眠りについた。

初日の出をテレビ越しに見た。私は窓辺でスマホ片手に撮影のスタンバイをしていたのだが、彼はテレビ中継される「ダイヤモンド富士」が見たいと言ってリビングのソファから動かない。仕方ないので私も隣に座ることにした。
彼は二人で用意した煮物のサトイモを一口食べ、こう呟いた。
「何をしても『初めて』になるのかな」
「ん?」
「初日の出、書き初め、初詣。なんでも初めて、になるのかな」
「そうじゃない? じゃあ、それは食べ初めだね」
「そう。じゃあ、ちょっとトイレ初め行ってくる」
「いってらっしゃい」
年が明けても別に、あの人の何かが変わるわけではない。今年も相変わらず、仕事をし、ドライブに行き、時折幻影と遊び、共に泣き笑いする大切な人であることに、なんの変わりもない。
テレビでは番組の司会者が「間もなくダイヤモンド富士です!」と高らかに叫んでいる。画面には見事に晴れた空と堂々たる富士山が映っており、もうすぐその「ダイヤモンド富士」とやらが現れるらしかった。
彼は戻ってくるとすぐに、テレビに向かってスマホを向けた。私は思わず、
「それ、意味ある?」
とつっこんだが、彼は涼しい表情だ。
「もちろん。本栖湖の奥の奥まで行かないとこれ、見られないらしいから」
わからない。生の初日の出がベランダに出れば見られるのに、テレビ画面にスマホのカメラを向ける彼のことが、やはり今年もわからない。
「……変なの」
「あ、ボヤき初め」
「うるさいなー」

初詣は、近所の神社へ行った。あまり信心深くない私たちにとっては実質、初詣がラスト詣だが、それはそれで形だけでも大切だよね、と言い訳をしてお参りをした。
手を合わせている間、彼が何を思ったかはわからない。しかし、珍しく真剣な表情でこうべを垂れていた。
その後、おみくじを引いた。二人して大吉だった。
「やったー!」
はしゃぐ私に、しかし彼は、
「大吉か」
少し不機嫌そうに言ったので、私は首をかしげた。
「どうしたの?」
「どうせなら凶を引きたかった」
「なんで⁉︎」
「大吉って、今が一番ってことでしょ。あとは落ちてく一方でしょ」
「あー」
私はニヤッと笑い、彼の肩を小突いた。
「出た、浸り初め」
「えっ」
「いただきましたー、ハイいただきましたー」
「何がさ」
「浸り一丁、いただきましたー」
「からかってるの」
彼がムキになるのが面白かったので、私は
「うん!」
と即答した。彼はムスッとして、
「たかがおみくじ、されどおみくじだよ」
などと言うので私はますますおかしくなって、
「じゃあ、まぁくんの分の大吉も私のものね」
そう言って私は、彼のおみくじからエネルギーを吸い取るような奇妙な仕草をした。
「おぉ、大吉のパワーはうまいのぅ。芳醇な香りがするわい」
「あ、バカ初めだ」
「フォッフォッフォッ」
「ぷっ」
それが、彼の笑い初めになった。

なんだか、今年はいい年になる、そんな確信にも似た予感がしている。

ジグソーパズル

完成したら、終わり。終わってしまえば額縁に飾られて風景画未満になる。

だからふたりのジグソーパズルが完成しないように、私は思い出のひとかけらをポケットにしまった。

「なんだっけ、きみが行きたがってたカフェ」

スーパーマーケットで買った惣菜ととき卵の味噌汁という簡易な夕飯の食卓で、きみはきんぴらごぼうに手を伸ばす。

「なんだっけ」はきみの口ぐせだ。

「並木町のほうのさ、イタリアンの」

「『マルベリー』かな、それとも『ロゼット』かな」

「なんだっけ」

私はそんなきみの口ぐせが好きだ。たとえそれが、病気に所以するものであったとしても。

毎月第三火曜日、きみは精神科に通院をしている。以前は二週間に一度。その前は毎週。さらにその前は通院どころか入院をしていた。

もうずいぶん前の話だし、その頃の話をきみからすることはめったにないので、私からも深く問うことはしない。

別の日、海岸に出かけることになった。どうしても海が見たいときみが言い出したのだ。春先の海なんてのもなかなかオツだねと私が荷物の支度をしていると、きみが困り顔でいった。

「あれがないんだ」

「『あれ』って?」

「なんだっけ」

「なんだろう」

「ほら、あの眩しさを遮るやつ」

「サングラス?」

「そう、それ」

横浜線から乗り換えをして、ガラガラの片瀬江ノ島方面の小田急線に座る。車窓から綻びはじめた桜を眺めている私の肩を、きみが遠慮がちに人差し指でつついた。

「どうしたの?」

「あのさ、これ着けてもいい?」

きみが取り出したのは先刻発見したサングラスだ。まだ西陽の時間ではないけれど、私には着用の理由がよくわかるので「もちろん」と答えた。

「サングラスなんて、好きな時に着ければいいよ。ファッションだと思って」

きみはおずおずとサングラスをかけると、そのままうつむいてしまった。

「疲れちゃった?」

私がそういうと、きみは小さく首を横に振った。

「だって、きっと変でしょう」

「変かもね」

「ごめん」

「別に変だっていいじゃない」

きみが電車のなかでいきなりサングラスをかけたのは、周囲の乗客の視線に恐怖を覚えるからだ。間違っても私はそれを責めたりはしない。

海が見たいときみがいうのだから、私は海を見るきみを見たい。そういうこと。

「あれは、河津桜かな? もう満開だね」

「そうなんだ」

電車の窓から見える鮮やかなピンクは、しかしレンズ越しのきみにはくすんで見えている。茶色いレンズの奥の目が、不安げにこちらを時折見ていた。

藤沢駅でスイッチバックした車両は、一路目的の駅へと向かう。線路のガタンゴトンが、互いの緊張をほどいてくれるようで心地よかった。

鵠沼海岸駅に着くと、時刻は午後2時を少し過ぎていた。

「ここにあるかな」

「何が?」

「なんだっけ」

「ねえ昼ごはん、まだだよね」

「うん」

私がスマホで近辺の食事処を検索していると、きみは「あ、ファミマだ」とつぶやいた。遠くからでも、黄緑と青と白の看板が目についた。喫茶店のホームページを見ていた私に、きみは提案した。

「給料日前だし、おにぎりでよくない?」

「よいよい」

ファミマに入ると、ようやくきみはサングラスを外した。

「もう大丈夫なんだね」

「うん」

鮭と梅のおにぎりをカゴに入れた私は、すぐにきみが隣で硬直しているのに気づいた。私が声をかけるより早く、彼は「なんだっけ……なんだっけ」を連呼する。私はそんなきみの姿がコンビニに溶け込むよう、「うーん、なんだっけ」と相槌を打った。

なんのことはない。きみのほしかった明太子のおにぎりが品切れだったのだ。

ペットボトルのお茶も買って、いよいよ海へと向かった。春独特のうっすらとした光のじゅうたんが、海面いっぱいに広がっている。

「おお、これは見事じゃな」

私がくだけていうと、きみは砂浜の手前のコンクリートの塊に腰かけて、おもむろにおにぎりを食べはじめた。

「なんだっけ」

きみがいう。

「昔さ、千葉のほうでこういう景色を見た気がするんだけど」

「千葉ポートタワー?」

「たぶん、それ」

私はコンビニで買った緑茶をぐいっと飲んだ。

「あの時、ポートタワーの最上階に『恋人たちの鍵』を掛けてきたよね」

「そうだっけ」

「うん」

わかっている。きみがとうにそんなことを忘れてしまっていることは。ハート型の南京錠に、ふたりで相手の名前を書いて設置されていた鎖にかけて誓いを立ててきた。私にとっては忘れられないこと。

きみがそれを思い出せないのは、私がそのピースを隠し持っているからだ。あの思い出が、風景画未満にならないように、私が意地悪をしているからだ。

一羽の海鳥が、甲高い声をあげて私たちの上を横切っていく。

「なんだっけ」

私がきみの口ぐせを真似ると、きみはキョトンとした表情になった。

「え?」

「あの鳥。ウミネコ?」

「……なんだっけ」

おにぎりを食べ終わったきみは、一足先に波打ち際へと歩を進めた。寄せては返す波と無邪気に戯れる姿は、私にとって小さな奇跡のようで。

海を見るきみを見られて、私は満たされてゆくのを感じていた。

梅おむすびの最後の一口を食べ終えると、私もきみのもとに参戦した。

「わっ、押さないでよ!」

よろけるきみに、ケラケラと笑う私。目の前に広がる海面のきらめきの前では、ふたりとも道化になっていい。だから疲れるまで、私たちは白い波しぶきと傾いていく太陽と遊んだ。

「なんかさ、いいね。こういうの」

きみがぽつりという。私はそれがもうどうにも嬉しくて、破顔するのを抑えられなかった。

「なんだっけ!」

私が水平線に向かって叫ぶ。きみも心底楽しそうに、

「なんだっけ!」

と輪唱した。

ふたりの声は、あっけなく波音にかき消されていく。けれど、それでいいのだと思う。

私たちのジグソーパズルは、きっとずっと完成しない。欠けたまんまが、きっといい。

つづれ織り

今どき、パソコンはおろかスマートフォンも携帯電話も持ち込み禁止の病棟に、私の大切な人が入院している。

彼がいるのは精神科の閉鎖病棟だ。通信機器の禁止は外部の刺激を遮断するためという理由らしいが、本当は病棟の内情を隠したいからではないのか、と疑心暗鬼になってしまう。

彼がいる病院のウェブサイトを見てみた。派手なフラッシュを多用したトップページには、

「豊かな自然に囲まれ、患者さまに安らぎと癒しを提供します」

の文字が掲げられている。

要するに、街から隔絶された遥か山中にあるということだろう。

通信手段は手紙だけ。しかも、それも本人に渡る前に看護師などが本人の許可も得ずに中身を見ることもある。

「本人を刺激しないよう、内容の確認が必要だから」。

そんな理由がまかり通るなら、あの場所では何が起きてもおかしくない。

キレイに整ったウェブサイトがあけすけに嘘をついているように感じられた。

彼からの手紙には、看護師の「検閲」をパスしたからだろう、無難な言葉が並んでいた。
閉鎖病棟では鋭利なものは禁止されているため、先の丸まったクレパスでこう書かれていた。

たくさんの人に支えられて
すごく今、幸せです。
けっていてきなのは、
てんしに会えたこと。
くるしいときに助けてくれます。
だれもかれもここではきっと
さびしさから逃れることができます。
いつか、貴女に伝わりますように。

筆跡は薬の副作用のせいか、若干震えているように見える。それでも、現実と妄想の区別も難しかった彼がこんな穏やかな文章を書くようになったことには、少しだけホッとする。

いっとき、彼は幻覚の世界の住人だった。それでも、私は信じていた。きっと戻ってきてくれると、頑なに信じていた。だから、今こうして彼の文字に触れられることが嬉しかった。

私は彼が一生懸命に書いてくれた一文字ひと文字を指でたどった。

さびしさから逃れることができます。
いつか、貴女に伝わりますように。

「。」?

…………?

———なぜ、気づかなかった?

彼はとっくに悲鳴をあげていた。

私は跳ね上がる鼓動が導くまま、便箋を取り出してペンを握った。無我夢中だった。

かなしいときには
なんでもいいから
らくな姿勢をとって。
ずっと前を見ながら
たかなる気持ちを大切に。
すずしい季節になりましたね。
けさは何を食べましたか。
るすが多くてごめんなさい。

それをポストに投函してから、返事が来るのが一日千秋だった。

私への返信はすぐに届いた。想いを乗せた便箋は、確かに彼に渡ったのだ。

東京都八王子市◯◯町3-14-201

片桐 響子 様

宛名の文字もやはり震えている。しかし、確かに彼の筆跡だった。私は喉元に少しの渇きを感じながら、封筒を開けた。

ありったけ振り絞る声ほど
りゆうもなく怖いものはありません。
がんばっても無理です。
とかいでは星が見えないでしょう、
うらやむのは自由です。

それから、私と彼の不思議な文通はしばらく続いた。

言葉遊びと秘密のやりとりが、私と彼を繋いでいた。

手紙を重ねるうちに、想いもまた重なっていくようだった。

つづれ織りのように、言葉たちが彩りを成していった。

いつからか、手紙が届くのが楽しみになっていた。ポストを覗くのが日課になった。彼からの手紙が、待ち遠しかった。

やがて、秋も深まった頃、こんな手紙が届いた。

すずしいを通り越して寒くなり
きれいな星空が毎日見えます。
だれかに見せてあげたいです。
けしきは相変わらずですが
どうしようもなく寂しいのは
もうすぐ冬がくるということ。
うっかりしているうちに秋も終わりです。
だらだら生活には気をつけていたので
めずらしく気分がいいです。

私はすぐに返事を書いた。考えるより先に手が動いていた。

あかりのある方に歩いて
いしだたみの上を軽やかに
しろい雲を追いかけて
てと手をつないで
るるると歌いましょう

切手は貼らなかった。私はコートのポケットに手紙を入れると、自転車に飛び乗り、晩秋の高尾山方面へと漕ぎ出した。

バスならもう終わっているだろう。日が傾けば、寒さも増してくる。

届けるのだ。彼に、このメッセージを。

どれくらい走っただろう。気がつくと、涙が一筋頬を伝っていた。暗号なんかじゃなくて、まっすぐ伝えるべきだったのに、それができない自分の無力さにだろうか。

泣くだなんて、それこそ私の嫌いな「欺瞞」かもしれない。

それでも構わない。
今はただ、伝えたい。

自転車がギイギイ鳴って、寒風を切って山道を走っていく。40分ほどして、ようやく看板が見えてきた。頼りない街灯にうっすら照らされた、「第一記念病院」の文字。

これだけ頑張れば来られた距離なのに、どうして今まで逢いに来なかったのだろう。それはきっと、自分の弱さの所為だ。そう自分を責めてしまう。彼が閉鎖病棟にいるという「現実」を、今まで直視できなかったのだ。

正門にいた警備員には、邪険に扱われた。開放病棟の面会時間すら過ぎており、病棟にはもう鍵が掛けられていて、ましてや閉鎖病棟に部外者は入れないとのことだった。しかし、今ではなければならなかった。だから、藁にもすがる思いでその警備員に、

「C棟の、伊藤賢治さんへ、これを渡してください」

と懇願した。手紙を渡してくれるまで、ここから帰らないとも言い切った。

その場で待つことを条件に、警備員はC病棟に向かってくれた。風が段々と強くなってきて、私はかじかむ手を必死に吐息で温めた。

ふと、見上げるとそこには美しい星空が広がっていた。自分の家の方ではなかなか見られない、壮大な光景だった。

「豊かな自然に囲まれ、患者さまに安らぎと癒しを提供します」。

彼は毎日、この空を見ているのだろうか。

それとも、病棟の天井を見上げていたのだろうか。

1分が10分に、10分が1時間にも感じられた。体が芯まで冷えきった頃、警備員が戻ってきた。

手紙を渡したところ、彼はすぐに返事を書いてくれたという。警備員はそれを私に手渡すと、面倒くさそうに去って行った。

私はこみ上げる想いを必死に堪えながら、ルーズリーフを開いた。

確かに彼の文字で、こう書いてあった。

ありがとう
いみもなく
しにたくなったら
てと手を繋いだ日々に
るるると歌います

私は初めて、声を出して泣いた。すぐ近くに、こんなにも近くにいるというのに、逢えないなんて。想いをまっすぐ、伝えられないなんて。

それでも、彼は伝えてくれた。懸命に、伝えてくれた。そのことに、ただ今は、泣いていいと思った。

私は信じて待っている。
彼が「戻って」きてくれる、その時を。
綺麗事すら、今では二人の交情の証だ。

星空があまりに綺麗な夜、確かに互いに伝わったものがあるという「現実」を、彼は認識してくれただろうか。きっとそうに違いない。

自転車を転がして、帰りは下り坂。夜風を切って心地よい。

重ねた文の数だけ、私は彼を信じられるだろう。

私と彼を繋ぐもの。それは、暗号で記す色彩と二人の想いで綾なす、手紙のつづれ織り。

20991231

私があなたを手にかけたのは、これで何度目だろう。目の前で派手に倒れてくたばったあなたは、すぐに起き上がって私の方をちらりとあきれた表情で見やり、それから面倒そうにシャツについた糸くずを払い、その手でテーブルに残っていたチーズ鱈を一本口に放り込んだ。

「お誕生日おめでとう」

生まれてきた日に、そう伝えるのがならわしらしいから、私はルーティンであなたにそう伝える。あなたは麦茶を一口飲んでため息をついた。

「今回の殺害動機は?」

「なんとなく」

この世界から倫理が消え去って、もう何年になるだろうか。科学と技術の進歩は人類を生老病死から解放し、肉体的な痛覚の除去にまで成功した。挙げ句の果てには死んだとしても際限なく蘇ることが可能となってしまった。

痛みを失った人類から、まず歌が消えた。失うという概念がないから、ラブソングはもちろんのこと、情景や憧憬、心情などをわざわざ音声化することは合理的ではないとされたのだ。

歌が消えると詩が消えた。万人に理解されないたかが個々人の心の叫びを目にしたところで、それに心を揺らがせることは全くの無意味であるとされたのだ。

自ずと法律が消えたので、かつて犯罪と呼ばれた行為に人々はこぞって手を出し始めた。誰を傷つけたって相手も自分も痛くないから。やってみたかったから。なにをしたってそれを咎める者がもういないから。

礼節なども早々に消滅した。たとえば肩がぶつかっても「ごめんなさい」ではなく無視。SNSでコメントをされても返信相手を選り好みしてあとは無視。そのほうがクールなことらしくて、「ありがとう」を口にするのはダサいことだからと誰もが避けるようになった。それゆえに優しさなどはとことん忌避され、嘲笑の的となり下がってしまった。

誰もが労せず生きられるために「生きづらさ」ではなく「死にづらさ」がハッシュタグのトレンドとなった。「生きるのがつらい」という文脈がどこにもなくなってしまったのだ。それでもPV数への執着は変わらないのだから、人間の本質は生死そのものとは直接関係がないのかもしれない。

信仰の逸脱もすぐに発生した。神を自称する者たちが溢れに溢れて、本屋ではカレンダーや手帳よりも「あなたもとれる! 正しいマウント(入門編)」が売れてトリプルミリオンセラーとなった。この本の書評はインターネットにこれでもかと出回った。「⭐︎1つ。俺の方がずっと面白いものを書けるわ」「⭐︎をつけるのも嫌です。どこが面白いのかわからなくて、確認のために何度も読み返しました」

死と病気と痛みを喪失した当然ながら医師や看護師は職を失った……わけではなく、これほどの技術革新を達成しても為し得なかったことがある。

超科学をもってしても、人間の心だけは消すことが出来なかった。「人間の」心は、である。神々は揃って手のひらサイズの四角い宇宙を凝視し、今日もしんどそうに気に食わない誰かしらをどうにかやり込めようと、とうに饐えた脳味噌を捻って、難しそうな言葉をコピペしてはさも自分で考えたかのように垂れ流し続けている。「ムカつき」や「苛立ち」にどんなに血圧を上げて最悪血管が破れて死んでしまっても、なんとなく生き返ることが可能だから。

そういうわけなので、今や医師や看護師のもっぱらの作業は、神になり損ねた「人間」の厄介極まりない「心」を管理・監視することなのだ。彼ら彼女らは自ら一切思考をせず、終わりを見失った人間たちのまぶたの裏にシリアルナンバーを焼き入れて暫定的な自由を与えることが具体的な職務内容なのである。

だから私たちは、調度品がすべて乳白色で統一された窓のない狭苦しい部屋で、もう何度目か数えるのが嫌になるほど、どんちゃん騒ぎのパーティーを開いている。でも、どうもみんな神様になってしまったみたいで「神様ゲーム!」とはしゃいでは一人ずつ死んでいき、飽きもせずに生き返っては「あーだりー」だの「暇」だの「うぜぇ」だの言い放って部屋を出て行ってしまった。

残されたのは、あなたと私、チーズ鱈と柿ピーとポップコーンのかす。私があなたを手にかけたのは、これで何度目だろう。そんなことはでもきっと、どうでもいいことなのだ。

「命って、大事なんだよ」

私がそう言ったところで、あなたが私に興味関心を向けることは決してない。その事実が、どうしようもなくつらい。胸がひどく「痛む」。

あなたはあくびをして、惰性で柿ピーのピーだけに手を伸ばした。

「なんで?」

「昔の人がそう言ってた」

「ふーん」

次に、先刻私にワインの空き瓶で頭部を殴打された時に椅子の座面に付着した自分の血を人差し指でなぞり、あなたはそれを口に含んだ。

「まっず」

「命って、尊いんだってよ」

「伝聞なんだ」

「うん」

除夜の鐘が一〇八回鳴らされなくなった理由を知る者はもういないけれど、たぶん煩悩は可算名詞じゃないと、何処かの誰かが気づいてしまったんだろうな。

そんなことよりも、いつまで経っても何度殺されても涼しい顔をしているあなたが、私はやっぱり、どうしても許せない。許せなかったら殺せばいいのだ、だって気に食わないんだもの。

テーブルの上に放置されたクリームまみれの、ホールのショートケーキを切り分けたナイフの切っ先を視認すると、私は精一杯強がって笑ってみせた。

「良いお年を」