しゃぼん玉

卯月の手前の日曜日、珍しく雪の積もった私たちの住む街は、少し怖いくらいにしんと静まりかえっていた。マンション四階の窓から外を眺めると、はらはらというよりはぼたぼたと雪が落ちて窓に打ちつけていた。

「うわー、季節外れ」

私が声をあげると、きみは文庫本から目を離さずにこういった。

「それって、どういう意味?」
「え?」
「3月の終わりに東京で雪が降るのはおかしいことかな」
「別におかしくはないけど」
「そう」

きみは本を閉じると、洗面所に向かっていった。私はソファに横になってそのままうたた寝を始めようと目を閉じた。

眠りに落ちるより前に、私はもう一度まぶたの裏にぎこちなく舞う白いかけらを思い浮かべた。

ふと、いつかテレビでたくさんの珊瑚礁が白化して死に至るというニュースが流れていたのを思い出した。その時に映像で観た珊瑚の白片は、今日この街に降り注いだそれにそっくりだった。

このとき「なんだか悲しいな」と私はいったのだが、きみは「これはこれで綺麗だね」といったので、本当に悲しくなってしまったのを思い出した。

ほのかな石けんの香りに気づいた私は、はたと瞬きして目を覚ました。時計の針が午後四時過ぎを指した頃、私の視界へ「おかしな」光景が飛び込んできた。

きみが紙コップとストローでしゃぼん玉を作っていたのだ。そのなかでもとびきり大きな一つが、私の目の前までふよふよと遊びにきてくれたのだが、私が手を伸ばすとあっけなくぱちんと弾けて消えた。

「変なの!」

昼寝を邪魔された私が少しだけ不機嫌にいうと、きみはわざと勢いよく息を吹いて、小さなしゃぼん玉をたくさん作った。

「おかしい?」
「うん」

きみは何が嬉しいのか、それからもしばらく洗面所からしゃぼん玉を作り続けていた。そのうちのいくつかはリビングにまで届いて、私のよく見える場所で消えていった。

「おいでよ」

きみがそういっても、私は首を横にふった。

「怖いの?」

なんという挑発をするんだろう。

そんなもの、怖いに決まっている。美しいものほど、すぐに目の前から消えてしまう。しゃぼん玉はいつだって、そのことを教えてくれているじゃないか。

「また作ればいいよ」

私の臆病さをよく知るきみだ。雪もしゃぼん玉も、明日にはすっかり消えてしまうし、消えてしまったことも、きっと私はもう気にしなんてしないのだろう。気にしないうちに忘れてしまって、忘れたことそのものを忘れてしまうのだ。

そう考えたら急に怖くなってしまって、私は考えるより先にソファから起き上がって、すぐにきみの横にぴたりとくっついた。

「どうしたの」
「それは、私のセリフだと思う」
「じゃあ、言ったら?」
「どうしたの」
「どうしたんだろうね」

なんだかおかしくなって、私たちは笑いあった。しゃぼん玉なんて何年ぶりだろう。
ストローを今度は私が吹いて、しゃぼん玉をリビングに飛ばした。そのうち一つが、きみのお気に入りの文庫本の上ではじけた。

「あー」

きみが楽しそうに手を叩く。私も楽しくなってどんどんしゃぼん玉を作っては失った。そのすべてが悲しくて、だから祝福すべきだと私たちはわかりきっていた。

外は暗めの曇天、せっかく満開になった桜もこごえていることだろう。花びらも湿った雪に耐えられずに散っていることだろう。

何もかもが他人事のような気がしていた。けれど、きみとの時間だけが私にとっての本当であれば、それでいいと思う。なにがあっても消えてほしくないと、強く願った。

たとえこのしゃぼん玉みたいに今のこの想いがはじけて消えてしまう時がきても、ふたりで過ごした時間は本当なんだと、いつか「その時」が来ても信じていられますように。

きみは文庫本を手にして、私に窓の外を見るよう促した。私がつま先立ちで窓辺にたたずむと、きみは後ろから腕をまわしてきた。

向かいの一軒家の屋根の上の雪は、すでに溶けかかっている。「なんだか寂しいな」と私がいうと、「これはこれで綺麗だね」ときみがいうから本当に寂しくなってしまったので、私はきみのセーターの袖に噛みついた。ふわりと石けんの香りがした。

変わらないものなんて、何一つ望んでいないよ。何もかもが流転して色彩も体温も変えてゆく。それは私だって同じことなんだ。

だから、いまこうして一緒にいられることも、当たり前だなんて、決して思わないよ。