プロローグ

僕が彼の姿を初めて見たのは、朝靄けむる病院の入り口の花壇の近くだった。当直明けで、深い眠りにつくことができなかった僕のぼんやりとした視界に、しかしそれは鮮やかに飛び込んできた。 黒のダウンジャケットに…

第一章 邂逅 

僕が彼の姿を初めて見たのは、朝靄けむる病院の入り口の花壇の近くだった。当直明けで、深い眠りにつくことができなかった僕のぼんやりとした視界に、しかしそれは鮮やかに飛び込んできた。 黒のダウンジャケットに…

第三章 手紙

精神科医療の一環で、作業療法というものがある。革細工や塗り絵、編み物などの作業を通じて患者の精神心理機能の改善を目指す治療法のひとつだ。これを拒む患者は今まであまり見たことがなかったが、小川朱音という…

第四章 悪夢

退屈な病棟の中では、しょっちゅう、しょうもない噂が流布される。彼が女性患者のノートを破った様子は瞬く間に広がり、「あいつはやっぱり危ない」という話がひそひそと聞かれるようになった。 別の日のカンファレ…

第六章 詩集

例えば他の誰かに、自分を知ったような顔をされて何もかもを解剖されてしまったら、それを心地よいと感じる人などいるわけがない。そもそも、精神科医の仕事はそういうものではないと僕は考えている。 中にはあらゆ…

第七章 過去

蝉の鳴き声に耳を預けながら、彼は中庭のベンチに一人座っていた。僕は彼を見つけると、「隣、いいですか」と声をかけて腰を下ろした。 「ここへ来て、もう半年になりますね」 ミンミン蝉の声がシャワーのように二…

第八章 責任

壁掛け時計の音だけが部屋に響いている。彼の両親はさっきからずっと黙ったままだ。彼もまた、俯いてじっと床を見ている。僕がどうにか言葉を出そうと思案しているうちに、部屋に住吉が入ってきた。そうして書類を机…

第十一章 幻影

光の粒子、シナプスの断片、微弱な季節の裏切り。あるいはいずれでもなく、闇に還るためのあらゆる手段……ランパトカナル。それは月から来て月へと還る。両手に悲しみが満ちたら、それを月に還してあげるのが、与え…

第十四章 正義

僕の願いは叶うことはなかった。彼に、あの山の月を見せてあげることができなかった。彼の悲しみを還すことが、僕にはできなかったのだ。 連行される際、彼はようやくこちらを見た。そして、口角を上げて微笑んだ。…

第十五章 決意

病院は、僕を懲戒解雇ではなく自己都合退職として扱った。その方が、病院にとってもメリットがあるとのことだった。彼の一件が世間に明るみに出れば、病院の監督責任が問われるからだ。医師免許のはく奪を逃れるため…