私の住む東京の西の隅っこの街では、毎年そこそこの規模の花火大会が開催される。地元のスタジアムを貸し切り、ケーブルテレビ局が生中継するほどだ。
私の家は幸運なことに、マンションの最上階なので、打ち上げ花火の見放題……とまではいかないが、高く上がった花火の端っこを見ることはできる。お互いに人混みが苦手な私たちは、大会会場には行かずに焼き鳥とサワーを買い込んで自宅のベランダで花火見物としゃれこんだ。
ビルの隙間から、時折光が漏れる。煙が光って色づいて見えた。
「きれいだねぇ」
私がそう言うと、彼はぼやいた。
「でも、あんまり見えないねぇ」
「本当のこと言うなよ」
「だって、あんまり見えないじゃない」
……実に彼らしい。実直で不器用なところが集約されたような一言だ。彼は続ける。
「まぁでも……」
「ん?」
「心琴とベランダでお酒を飲む口実ができて良かった」
「そっか」
私はサワーを一口飲んで、夫の横顔を見た。打ち上げ花火のドン、ドドン、という重低音ならはっきりと聞こえてくる。しばらくその音に耳を委ねていたのだが、
「いいよなぁ」
やや唐突に、夫が呟いたので、私は少し驚いた。
「何が? やっぱり会場に行きたかった?」
「ううん、そうじゃなくて」
夫は、どこか噛みしめるような表情だ。
「街で暮らす、ってさ」
そんなことを言うものだから、私は頷かないわけにはいかなかった。
かつて精神科病院の閉鎖病棟、しかも保護室で日々を過ごした彼だからこその「街で暮らすこと」の意味、重み、ありがたみを凝縮した言葉が「いいよなぁ」なのだろう。
私は彼の味わった屈辱や痛み、苦しみを理解することはできない。それはいくらパートナーであっても不可能なことだ。でも、だからこそ手を取り合い、支えあい、共に泣き笑いすることが大事なのだろう、と改めて感じる。
「レバー、あげるよ」
私が物思いにふけていると、夫がレバー串を差し出していた。私は焼き鳥でレバーが一番好きである。
「ども」
「やっぱり、あんまり見えないねぇ」
「だねぇ」
わずかに吹く夜風を感じながら、今この人が同じ街で暮らしていること、いや私の隣にいることが奇跡のように思えて、でも「奇跡」だなんて口に出したらそれが陳腐になってしまいそうだったので、私はその奇跡を
「レバー、うまっ!」
の一言に込めた。
来年もこのとっておきの場所で、この人と花火が見られたら。七夕は過ぎてしまったけれど、「何か願い事を一つ言え」と言われたら、私はそう答えるだろう。「街で暮らすこと」、そんな当たり前が、ずっと当たり前であり続けますように、と。
……あまり花火は見えないけど。