こんにちは、笹塚です。今日は梅雨の中休み(もう?)なのか、朝から穏やかに晴れていて、気分よく出勤できました。雨の日の満員電車って、もろもろ試されてる気がします。例えば、昨日は大雨でしたが、私はどうしても電車内で鼻をかみたくて、ゴソゴソとリュックからポケットティッシュを取り出してかみかみしてたんですが、その時に私の濡れた傘が隣に座っていたサラリーマンのおじさんの足に触れてしまったんです。あ、しまった! と思ってすぐに「すみません」と謝ってのですが、そのおじさん、何か言葉を返すでもなく、しかしながら聞こえよがしに「チィッ!」と舌打ちされたんですよね(どうでもいいけど、舌打ちもそうだし、当てこすり的にイヤミとか文句垂れる人間に限って、音量調整が無駄に上手いよね。そのセンスを磨くヒマがあるならもっと楽しいことに費やしたらどうですか?とは常々思ってるよ)。
その瞬間、私はいろいろなことを考えました。
(え、いい大人がそんなリアクションする? 言葉が出ないなら会釈するとかないの? 不機嫌だったのかもしれないけど、あなたの不機嫌は私と無関係だよ? それともなにか、あなたのスーツは濡れた傘が触れただけでボロになるような安物なの? もしかして和紙でできてるとか? それむしろ尊いわ。あ、もしかして奥さんに逃げられたてホヤホヤの傷心が、あなたにそんなことをさせたの? あらまー、それだったらいいのよそれで。今は思うままに舌打ちなさい。受け止めて差し上げてよ)
とかね。**全部空想だけどね! **
で、ひと昔前の血の気の多くケンカっ早い私だったら、ある程度は今書いたようなことを、全てではなくても言葉に出していたかもしれないなーと振り返ったら、まあそこで舌打ちおじさんの所業すら包み込む余裕が生まれたという意味でも、この歳まで生きててよかったなーとは思います。
とある本の一節で、「その人の本質がわかるのは、平時ではなく有事だ」といったことが載ってて。正直、ドキリとしました。そりゃあ自分に余裕があるときは、そこそこ他人へ気遣いしたりできるかもしれないけど(平常運転が荒んでる方々も結構いるけども、それはそれ、彼ら彼女らにしかわからない生きづらさを感じているのかもしれない……とか考えたら、一概に否定批判はできないよね。近寄んなとは思うけど。もっとも、そう思うのも私の内心の自由だからね)、自分の本質的なモノがバレるのは「いざという時」なんだろうな、と。
記憶に新しいのは東日本大震災などの災害でしょうか。あの頃は、私はまだ駆け出しのソーシャルワーカーでしたが、新人なりに本気ブーストをかけまくって、被災地の障害者などの災害弱者へ「どこへ」「どのタイミングで」「どういった手段で」「どれくらいの」支援を届けるべきかなど、東京の事務所の仲間たちと、文字通り血まなこになって奔走したのを思い出します。
でも、そんな大きな有事ではなくても、日常にはたくさんの「いつアクションするの? 今でしょ」的なシーンはあふれていると思うのです。例えば、満員電車。そこに杖をついた高齢者やベビーカーを押すママ、ヘルプマークを着けている人が乗ってくると、結構あからさまなレベルで嫌そうな顔をなさる人の、なんと多いこと。
車いすやベビーカー向けのスペースが整備された車両も最近では増えてきました。それ自体はいいなと思うし、必要ならもっと増えてもいいと考えています。でもね、ヘルプマーク着けて優先席のほうに立つと舐めるように私をじろじろ見たり(もちろん声かけや席を譲る気配は皆無)、混雑で動けなくて優先席じゃない席の前で必死につり革につかまってたら、またもや絶妙な音量調整を超絶無駄に習得した大学生に「優先席行け。目障り」と言われたりね(……この時もたくさんの可能性に想像を及ばせました。「もしかして昨日、彼女に振られたばっかなのかな?」「目標がないまま惰性で大学生になっちゃった系だろうか。学費やたら高いのに親御さんがほんと可哀想……」云々、あくまで私の内心なので考え放題。自由! それで結局、「相手にも相手の事情があろう」と自分を落ち着かせるのである)。
そもそもヘルプマークは「座席よこせマーク」じゃありません。「いざという時に、私には何らかの配慮が必要です」ということを、いちいちふれまわることなく周囲に報せ、自分の身を守るために着けているものです(と、私はそう思っている。このマークについてはいろいろなスタンスがあっていいと思うから、そこの認識の幅はもっと広くあってほしい)。まぁでも、この辺は市民レベルでの議論が足りないままマークが一人歩きしている感は否めないので、ほんとどうにかしないとなーとは考えてます。
で、ネガティブなことばかり並べても面白くないので、「いざという時にアクションを起こせる人はもれなく(性別不問で)平時から行動できるから内面がすごいイケメン。イケメンゆえにもてるからたくさんの良縁(友達とか仲間)に巡りあえて、その結果人生をめっちゃエンジョイできている」という自説を紹介して、今回は終わろうと思います。
友達(とされる人)の数ばかり多くて、しがらみやらマウンティングに神経をすり減らすよりも、人数の大小関係なく本当に腹割って話せたり、時にはケンカできたり、なんだかんだで笑いあえる友達が何人かいる生活を送れるほうが、私の身の丈には合うのです。もちろん、これは別に生き方の模範解答とか成功事例とかじゃないんで、そういう好奇の視線はこれまでもこれからもバッサバッサと斬っていくけどね! 私が今時点でふわっとそう考えてる、それだけのことです。
でもさ、私も人間なんで、外見はもう難しくても内面でイケメンになりたいとは思うのですよ。それは間違いなく、自分がそうしたいからという自分自身のためにすること。それが巡りめぐって誰かしらの支えやほっこりに繋がるのなら、それはなかなか素敵な事態だよねー。
今この瞬間、私の中で「こいつガチでクズだな」と思うのは、その相手だけに問題があるのではなく、「相手の持つ背景や事情に思いを馳せきれない」という受け手の私自身の課題でもあるのです。物事って面白いくらいに多面的・多角的だから、一面だけを見て判断するのはやめたいです。大人だから! 社会を耕す責任があるってもんですよ。たとえSNSの最果てっぽいこのアカウントでの発信であろうと、自分の言葉に責任を持つことが大事。しかしながら、いちいち全部の人(の意見や価値観)を受けとめてたら疲れるので、そこは私も相手を選びます。
まぁ、自分的に無理だわーとか、ちょっとないわーとか思う人もいるのも事実なので、そういう人に対してnoteはじめSNSレベルで分かり合おうとは微塵も思っていないので、快適な創作ライフのためにブロック機能もろもろは利用してますけど。SNSですり減らすほどの時間も神経も、私は余ってないのです~。だいいち、楽しんでなんぼでしょ♪
そう、外見を磨くのと同じかそれ以上に、内面がイケメンであることってほんと大事ですよ。ぶっちゃけ外見はお金をかければそれなりになるけれど、内面はお金をどんなに積もうが費やそうが投資しようが、全然違う次元でしか研鑽できないものだから。ということは、お金をかけずにいくらでも磨けるという意味ではコスパ最強じゃね? しかも誰と比べるものでもないので、自分で自分を「おぉ、私ってすげークール!」と思えたらそれが自分を支える軸になるんだし。とかね。
ああ、なんだか書き散らかしちゃった。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます!感謝します。いろいろもろもろをつらつらと考えつつ、つまるところでゴキゲンな私は、そろそろ業務に戻ります(おおおぉぉい!)。
では、午後も皆さま、素敵な時間をお過ごしくださいね♪ どうでもいいけど、「今でしょ」って流行語だった割に寿命が長いよね。