1.「考えるな、感じろ」
日々の暮らしの中で、あぁ幸せだなーと感じる「瞬間」って、いろいろありますよね。例えば、偶然入った喫茶店で頼んだベリーのトライフルがとても美味しかったとか、いつも通勤で足早に通り過ぎるだけの駅前の花壇を休日によく見たら好きな花が植わっていたとか、行列のできるラーメン屋に行ってみたら運よくすぐに入れたとか。そういう「ちょっとした幸せ」って、日頃は気づかないだけで実は、たくさん存在しているんだなって。
その「あ、幸せだな」は「瞬間」なので、すぐに泡のように消えていきます。永遠には続きません。自分も時々刻々歳を重ねているし、目の前のトライフルやラーメンは胃の中に消えていくし、花はやがて枯れて朽ちるし、それでも地球は回っていくし。何もかもが絶えず変化していく。これは動かしようのない事実です。
私が思うに、幸せって「〇〇が△△であるがゆえに幸せだ」とか、「一定の条件を満たすと成立する」のではなくて、「幸せになるためには□□をしなければならない」という義務と報酬のような関係でもなくて、「その場その時その瞬間」に臨んだときに、内発的にふわっ~と感じるものではないかと。幸せって「なる」ものじゃなくて「感じる」ものじゃないかな、とかね。ブルース・リーも言っていました、「考えるな、感じろ」って。
2.アクセサリはあくまで装飾品
その人にとって本来「アクセサリ」(外付けの装飾)にすぎない、学歴・職業・年収・資格・免許・資産・容姿……といった「誰かと比較しないと価値を発揮しない」類ものが、いつの間にかその人の本体部分の価値観を乗っ取ってしまい、自分自身が「ありのままで尊重されること」を脅かし、「私は私」という他者に不可侵なはずの軸がブレブレ揺らいでしまっている人って、実は多いと思うのです。「幸せ」を感じ取るアンテナの感度調整をアクセサリに依存させてしまうと、相手からの評価や視線、果ては無責任な噂話などにもいちいち反応してしまう。そりゃ、息苦しくもなるし生きづらくもなりますよね。。
私は幸せに絶対的な尺度はないということを、これまでの経験から実感しています。職業柄、「いろいろなアクセサリでがっちがちに身を固めても常に劣等感や不安に襲われている人」もいれば「目の前の現実を懸命に受容しつつ、そこから少しでも進んでみようと模索している人」もいれば、「自分に関して『誰がどこで何を言っているのか』はどうでもよくて『スタバの新メニュー』が気になる人」など(これ私だ)、実に多様な価値観にエンカウントします。当然ながら、どれが正しいとかより優れているとか、そういう文脈の話ではないです。noteで繋がれた人たちが発信する表現からも、私はいつもたくさんの刺激を受け、多くを学んでいます(あと、とても楽しんでいます)。
この世に産み落とされた「自分」を幸せにできるのは、自分しかいない。つまりそれは「『幸せをキャッチするアンテナの感度』を上げられるのは、他ならぬ自分自身」ということだろうな、というところまでは現時点で辿りつき、もろもろがスッと腑に落ちました。アクセサリって必要に応じて主体的に利用するものなので、振り回されない(目くらましされない)ことが肝要なんだろうな、と。
でも、こういうテーマってきっと決まった答えやゴールがないから、私は不器用なりに日々、あれこれと挑戦や逡巡しながら、これからもこうして文章を書いていくのだと思います。
3.「どうせ死ぬし」からの卒業
私には「どうせいずれ死ぬんだから、もうどうだっていい」と自暴自棄になっていた時期が長いことありました。20代のほとんどはそれで過ぎてしまったなー。でも振り返ってみるとそれは、「昔(中学時代)、ひどく傷つけられたから」とか「精神障害者になってしまったから」という風に、「自分が自暴自棄であるための原因の拾い集め」に固執していたのだと気づきました。それはもう少し書くと、「自分が生きづらい理由」が、とことん「自分以外の人や環境に因るもの」だと思い込んでいたということです。
ただ、ここで「生きづらさ」を他者や環境のせいにできないからといって、そこで「ほらみろ、やっぱり自己責任だろ」という論調を持ち出すのは、とんだ誤謬です。万が一、「私は誰の手も借りず誰にも迷惑をかけず、自力で生きているんだぞ」と自認する人がいたとしたら、そういう方は「今自分がつけている下着の素材はどこの誰が作ったものなのか」とか「そもそもこの記事を読んでいる時点で『インターネットを利用している』こと」について、少しでいいから思いを馳せてみてはどうでしょうか。
もちろん、自分とは異なる価値観を持つ他者もまた「ありのまま」で尊重されてほしいので、「自分がどうにか説得をして、相手を自分の理想(=自分にとって都合のいい)姿に変化させてあげたい」という考えが、たとえ善意に基づいていたとしても、超絶に強欲で傲慢だということは、自戒もこめてこの場に記しておきたいと思います。
私は、自分で書くのもこっぱずかしいのですが、要領の良さに全く恵まれなかったこともあり、非常にガタゴトと軋みながらぎこちなく生きてきました。自分らしくあろうとしただけでめった叩きに遭った中学時代を皮切りに、あちこちに精神的な傷をさんざん食らってきました。たくさんの人に嫌われてきたし、笑われてきたし、ガチめで疎まれてきたし。人数だけでいえば、私に対してネガティブな感情を抱く人のほうが多いと思うのです(統計を取ったわけじゃないけど、体感として)。
でも、そのぶん私は「本当に信頼できる友達」や「諸問題に一緒に立ち向かう心強い職場の仲間たち」を得ることができました。リアルに「友達は100人」もいりません。芸能人のインスタのフォロワー数じゃあるまいし、多ければいいってもんじゃない。人数よりも「一人ひとりとどれだけの信頼関係を築いているか」が、私にとっては重要なことなのです。
そして、数こそ少ないけれど気の置けない素敵すぎる面白ぇ奴らだけが身近に残ると、その一人ひとりに対して自然と「感謝の気持ち」が湧きます。恥ずかしいから普段は直接なかなか伝えられないけれど、ポジティブに私と繋がってくれてるみんなには、「ありがとう♡」といつも思ってるよ。
その結果、「どうせいずれ死ぬのなら、生きている間くらい、大切な人たちと楽しく過ごしたい」というパラダイムシフトに私は至りました。
そしてそして、一つひとつの「瞬間」と「繋がり」に感謝することができたから、その「感謝している瞬間」そのものに幸せを感じられるようになって、その結果、この先の人生の結構な時間を私は「幸せだなぁ」と感じて過ごせるんじゃないだろうか、なんて考えています。
4.精神障害があるとかどうとか
よく私は、「笹塚さんは、精神障害があるのに偉いね」とか「精神障害を乗り越えたからこそ、強くなったんですね!」とか、そういう文脈で評価されがちなのですが(そう言ってくる人って、大抵は悪意がないので厄介。あと別に私は精神障害を「乗り越えて」ないし、全然今でも調子を崩すし、大前提として障害は「克服」するものではないです)、それは誤解だとキッパリ伝えたいです。
私は、精神障害が「あるのに」幸せなのではなく、精神障害が「あっても」幸せなのではなく、精神障害が「あるからこそ」幸せなのでもありません。シンプルに、目の前で起きている現実に対して、「あー幸せ」と思えるモノコトを抽出して受信するアンテナの感度が高くなった、ということです。
「精神障害」もまた、私にとってはアクセサリの一つです。私という人間は精神障害者ではありますが、精神障害者が私というわけではないのです(伝わるといいな……)。社会福祉士と精神保健福祉士の資格を持っていることも、それこそ「アクセサリ(外付け)」です。私は、自分をアクセサリ部分でしか見てくれないような人とは(社会人である以上、様々な人と関わっていかなければならない場面はあるにせよ)、まず友達にはなれないなぁ、とは思います。まぁ、数の勝負じゃないから、いいんですけど。
5.ああ、そっか、それだ!
地元の友達の一人に、知的障害のある女の子がいます。彼女は、普段は作業所でクッキーを焼き、それを夫の職場に売りにくるのです。夫がそれを持ち帰ってきたことがあったのですが、そのクッキーがけっこう美味しい上にとてもリーズナブルだったので、「リピートしたい」と私がその作業所に突撃訪問したことがきっかけでお茶飲み友達になりました。
彼女はIQという「比較の指標」では低く評価されます。ですが、少し前にお気に入りのカフェで会ったときに、私が今日ここに書いているようなことを伝えたところ、彼女はアイスティーを一口飲んでから、
「心琴ちゃんは本当に、考え事が大好きなんだねぇ。心琴ちゃんが楽しそうだから、私もなんだか嬉しいや」とニコニコ。
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――ああ、そっか、それだ!
そうだよね、そうだよ。「人はなぜ幸せを求めるのか?」「何のために幸せになるのか?」「幸せってなんだろう?」、こういった疑問が、彼女のその一言でかなりほぐれました。「相手に大きな気づきを与える」という点において、彼女はすばらしい才能を発揮していると感じました。
おかげで、私は他ならぬ私自身のために、自分の意思で「幸せ」をたくさん「感じる」ことで、その幸せな気持ちや笑顔を「本当に伝えたい人たち」=「自分にとって大切な人たち」に感謝をこめて還していくことが、私にとっての幸せなんだな、という気づきを得ることができました。
6.完成しないから面白い
私は哲学や宗教などに関してはまったくの素人、無学です。そういう関連の本もほとんど読んだことがありません。心理学は、大学で必修で、かつ国家試験の科目だったこともあり少しかじりましたが、知識を他人に披露できるようなレベルではありません。
確かに、人によっては何かの教えを信仰することや知識を大量に仕入れることが大事なのかもしれません。もちろん、私もさらなる学びのために本を読んだり信頼できる友人と意見を交わし合ったりすることを今後も続けていきたいとは思っています。
ですが、こういう「幸せとはなんだろう」的な領域の考察に対してまっさらなステータスの私だからこそ、1から(0から?)材料を発見して組み立てて少しずつ作り出していくことができます。そしてその試行錯誤のプロセスそのものにも「幸せ」を感じるのが今の私なのです。ずっと完成しないパズルや迷路に挑んでいるイメージかな。その挑戦にはいつも「気の置けない素敵すぎる面白ぇ奴ら」がそばにいてくれるから、私はなんだかんだ言いつつも、日々を楽しく送ることができているのだと思うと、また感謝の気持ちがあふれてきました。
7.おわりに(お願い)
この記事は「幸せを感じるためのマニュアル」や「TIPS」「方法論」等ではありません。これは私にとっての「表現」の一つなので、読んでくれた方とって、ポジティブな意味の「ひっかかり」を残せたり、今後何かを考える際の素材やヒントになってくれれば、それは嬉しいです。
ですが、繰り返しになりますが、あくまでこれは私個人の思考の整頓手段として書いたものです。特にどなたかに指南をされたいわけではありません。冒頭に書いた通り、「何事も変化」していきます。だから、今のこの私の感覚や価値観、思考回路だって今後変化していくことも十分にありえます。むしろ、それが自然なことだとは思います。
ですから、この記事に対して反論などがあったとしても、コメント欄へ意見を寄せることは、どうぞご遠慮ください。身勝手を申すようですが、私はここをディベートの場にしたくないのです(ディベートは、直接顔を突き合わせた上でその場の雰囲気や相手の微妙な表情の変化なども考慮して双方の主張の落としどころを見つけるために行うものだと私は考えているので、ネット上でそれを行うのは不向きだと思います。それに相手を論破し(たつもりになっ)て一時的な優越感に浸るための行為はそもそもディベートですらないので)。もしもこの記事に論理的な破綻や矛盾、欠陥や欠落の類を見つけても、それをつつくようなことはしないでください。お願いします。
ああ、なんだか長くなってしまった。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。笹塚はどうやら「考え事が好き」(件の彼女に言われて初めて自覚しました)らしいので、またぽつぽつと書くこともあると思いますが、引き続きマクロな心とゆるいテンションで見守ってくれたら嬉しいです。私にしては珍しく、特にこれといったオチはないので、今日はこの辺で。
明日からまた新しい一週間、お仕事もろもろがんばるです。おやすみなさい。