(※長いです。ライフヒストリーという名のオバさんの自分語りの域は出ないと思いますが、今現在、仕事することや生きづらさを感じている人へ送る、私なりの精一杯のエールです。なので、ご一読いただけると嬉しいです)
初夏の陽気に包まれた霞ヶ関界隈を歩くと、日比谷公園に歩き着いた。萌える新緑たちに直射日光から守ってもらいながら、気ままに散歩をする。
ランチは少し前に、近くの駅ナカのコーヒーショップで適当にサンドイッチを食べて済ませた。そういう気分だったから。
会議の開始まではまだ時間がある。少し遠回りでもしてみるかと、あちらこちらを歩いてみると、色とりどりのツツジが咲いていたり、ありんこが列をなしていたり、ふと見上げればまるで真夏のような入道雲がもくもくと顔を出していたり、普段の仕事(内勤)では出会えない光景をたくさん見られて、なんだか贅沢をした気分になった。
とかなんとか悠長に構えていたら、割と会議開始ギリギリの時間になり、地味にヤバくないか? と自問しつつ、目的の会議室がある、とある中央省庁へと向かった。
……つもりだった。
結論から言えば、迷った。霞ヶ関周辺はどこも建物だらけで(そりゃそうなんだけど)、私の探している省庁の名前がなかなか見当たらない。ふらふら歩きまわっているうちに、「国家公安委員会」という仰々しい字体の看板に遭遇し、何も悪いことは(たぶん……笑)していないのに、入口に木刀のようなものを構えて仁王立ちしているガードマンが怖くて、ドギマギしてしまい、そそくさと通り過ぎた。
ところが、残念なことにそのガードマンを通り過ぎた直後に、目的の会議室がそこから引き返さないとたどり着けない場所にあることが判明。がーん。私はまたしてもガードマンの前を通らなければならなかった。早足でぎくしゃくと往復する私に、ガードマンの視線が刺さった、気がした。
けれどそんなことよりも、私は焦っていた。会議に遅れそう。そして調子に乗って歩き回ったら、とても喉が渇いてしまったのだ。建物の中でお茶などを買う時間はなさそうで、困ったなと思っていたところへ、なんと。
目的の省庁の入口付近に、その時の私にとっての「エンジェル」が現れた。すなわち、同じ会議に出席する予定だった、他団体の「お姉さま」である。
私は斜め後ろに件のガードマンがいることを忘れ、思い切り声を出して彼女を呼び止めた。
「Eさん! Eのお姉さぁ〜ん‼︎」
幸い、すぐに気づいてもらえたのですが。ふと気になって振り返ったら、ガードマンがめっちゃこちらを見ながら、なんか無線でしゃべってたんだけど、ひょっとして私は国家公安委員会に不審者認定されてしまったのでしょうか……。
ひょんなことから(この言葉使ってみたかったの)、アタシ、お国から追われることになったみたい☆
というのは冗談ですが、その後入庁してからもバタバタで、中に入るためのICカードの氏名が仕事上で通してる旧姓で登録されており、だから私は仕事用の名刺を警備の人に見せたのですが、「公的な証明書は?」と言われて、でも健康保険証とかその類は全部結婚後の苗字なので「ありません」と答えたら、
「あなた、本当にSさんなんですか??」。
ちょ、待てよ。
そうじゃなかったら、私は一体誰なのさ⁉︎
そもそも、名前ってなんだろう、公的な証明書ってなんだろう、その人がその人であるという証明とは……!?
とパニくりかけたところへ、先に中に入っていたEお姉さまが呼んでくれたらしく、中から会議の事務局を担っている担当者がやってきて、
「Sさ〜ん。遅いから心配しましたよ〜」
と声をかけてくれて、ことなきを得ました。ぬぬ、私が本当に「Sさん」なのかどうかは、他人からそう呼ばれることでしか証明できないものなのか……?
まぁいいんですが、中間的なオチとしては、会議出席者にはもれなくペットボトルのミネラルウォーターが、ご丁寧に紙コップ付きで用意されてましたとさ。よかったー。
さて、会議前にはド緊張をして、私は思わず夫にメッセージを送付しました。
「緊張するー!でも頑張る!」って。
会議は滞りなく進んでいたのですが、会議終盤にこっそり返信が来ました。意見交換が一段落したのでチラリとスマホを確認したのですが、以下、夫からの返信↓
「自分がGTO(Great Teacher Okamoto)になったつもりで頑張れ!」
……。
岡本って誰だよ!!!!
途端に咳き込み出す私、ミネラルウォーターによりHPが少し回復するも、ダメージが大きくて、結局笑いを必死に堪えるつらさを味わいながら議論に参加するというなんかもう出席者のみなさんごめんなさい、な体たらくでございました。
でもまぁ、無事に終わったので良かったです。今日もよく働きました。
という、長ーい前置きなんですこれ。
私は、「業界」を知らない人には説明してもなかなか伝わりにくい仕事をしています。今でこそ、「普段は事務所でパソコンの前に座ってるけど、時々大学の教壇に立ったり講演会で話したりしています」と、あたりさわりのない説明をするようにしていますが。社会福祉士や精神保健福祉士の資格を持っていると、そういう福祉系の仕事だと思われがちなんですけど、そこからグイッとディープな方面へ食い込んでいる、そんなお仕事です(ほらみろ伝わらない)。
日頃は「職場」でありながら、「職員同士」というよりは「仲間」として、わちゃわちゃと冗談(それもかなりブラックな)を言い合ったり、事務所のある街のランチ(ラーメンとカレーの激戦区なのだ)に繰り出したり、たまに夜ごはんで飲みに行ったりと、なんだかんだでとても楽しく仕事しています。
で。
私がじゃあ、社会人1年目からこんなに楽しいテンションで、半端ないやりがいにまみれて仕事をしていたか。
答えは超絶NOなのです。
経緯をすべて説明するとさらに長くなるので端折りますが、私は大学卒業間際に、どうにかこうにか精神科を退院することができました。
ところが、就職活動などとてもできないまま卒業を迎えたので、当然どこにも就職できないまま、実家に引きこもること数年の月日を、無為に過ごしました。
さらっと書きましたが、この時期ももう、本当にしんどくて、症状もまだ落ち着いていなかったので、パソコンを父に買ってもらってもインターネットには怖くて繋げず(繋げると自分の思考などが世界中に流出すると、本気で信じていました。それも典型的な症状っちゃ症状なんですが)、なんとなくワードやメモ帳を開いて、苦しい胸の内を吐露しては、なんとなく保存をし、数日後に同じファイルを開いて文字を追加したり削ったり。
あと、この頃亡くなった母方の祖父の家からこっそり持ち帰った「山羊の歌」(中原中也の詩集)を読みふけったり。なぜか自宅の本棚の隅でホコリをかぶっていた「寺山修司少女詩集」をむさぼり読んだり。
たぶん、九割がた、この頃のおかげで今も創作を続けていると思うと、もはや思い出が愛しいっす。
それでね、やれ同輩が国家資格を取っただの、どこどこに就職しただの、下手すれば後輩が結婚しただの、嫌でも耳に入ってくる情報に、それはもういちいちツラくなっていました。
あー
私、完全に終わってるわ。
とか思っちゃったりしてね。
でも、「ある事件」(これはちょっとほんと生々しいので、まだ自分の中で整頓して文章にできないから、機会があればいずれ……)を境に私は一念発起し、勇気をひねり出してインターネットに接続して求人情報を調べたり、ハローワークや「しごとセンター」に登録すべくめちゃ久しぶりに一人で電車に乗ったり、とにかく就職しようと、なりふり構わず行動しはじめました。
日雇いのアルバイトを渡り歩き、とにかく就活の資金を稼ごうともしました。この「日雇いアルバイト時代」も、それはそれでなかなか学びの多い時期でした。嫌な思いもたくさんしたけれど、お金以上にたくさんのことを考えざるを得なかった時期というか。
そうこうして、ようやく雇ってもらえたのは、実家から通える距離にある、とある精神科の単科病院でした。
働ける……!
やたらと時間はかかってしまったけれど、やっと、念願の社会人デビュー、でした。
でもね、この時の私は職場に肝心なことを隠していました。そう、「自分が統合失調症であること」をです。いわゆる「クローズ就労」というやつですね。わかる人だけ「あー、あれね」と思ってもらえればいいのですが、このことが後々に致命傷となりました。この頃の私はまだ心のどこかで、「私はいつか治るんだ」という、健常者至上的な幻想に取り憑かれていたんですよね。
私はその当時、精神保健福祉士の資格をまだ取れていなかったので、看護助手として雇われました。職務内容は多岐に渡り、とにかく「医療行為以外の何でも屋」でした。患者さんたちの食事の配膳と下膳、トイレ掃除、オムツ使用の方のオムツ替え、廊下や窓、風呂場や洗面所の掃除、洗濯物を畳む作業(洗うのは業者さんがまとめてやってくれた)と、持ち主への正確な返却、売店に買い物へ行く患者さんの付き添い、ゴミ出し、病院で飼ってた動物(⁈)の世話、患者さんたちのケアという名の監視(病棟出入り口や風呂場等々、あらゆる場所が施錠されており、職員はチャカチャカとその鍵を腰からぶら下げながら仕事してた)、その他もろもろ。なんかまだまだあったと思うけど、書ききれないや。
しかもその病院、朝はタイムカードの時刻を遅めに、夕方は早めに設定していたのです。つまり、朝は打刻される時間より早く行かなきゃ遅刻判定されて減給されたし、夕方は多少残業しても打刻されるのは定時前なので時間内とされていました。ザ・ブラックホスピタル!
その上、これは私の歪みきったフィルターを通しているので信じなくてもいいんですが、じゃあ他の職種、医師やら看護師、精神保健福祉士らが何をしていたかというとですね。私の目には以下のように映りました。
医師→たま〜に病棟に来て、書類(カルテ)にハンコをおして去っていくだけ。基本的にいない。たまにしか来ない割に、来ると偉そうに威張り散らしてました。
看護師→ナースステーションでひたすらおしゃべり(基本、患者や看護助手のディスりか、不在なら医師の陰口)か、看護日誌のネタを探して病棟内をうろうろ。たまに摘便(これもわかる人だけ「あー、あれね」でいいやつです)などの医療行為があると「マジめんどくせー」(原文ママ)とキレて、患者に八つ当たりは日常茶飯事。
精神保健福祉士→ナースステーション内でハーブティーを淹れて「やだ、美味し〜い!」とウットリしたり、医療連携室(医療相談室とも言うね)から一歩も出ずにインターネット検索やらチャットやらソリティア(懐かしいな)やらを嗜み、看護助手などが用事があって部屋に入ると顔も合わせずに「その辺に書類、置いといてー」。個人情報満載の書類が、そこかしこに放置されていました。
もしかしたら身に覚えのある方もいらっしゃるかもしれませんが、医療職の世界って非常に閉じた現場でして(もうずいぶん前だから、劇的に変わっていることを願うけれど)。さて、そこでは何が起きるでしょうか。
格付け? マウンティング? 下劣な噂話? 嫌味・嫌がらせ? 当てこすり? カースト的な?
それらはもう、全部横行していましたよ。そんな環境の中で、それでも「やっと就職できたから」の思いひとつで、頑張って頑張って、自分の障害はクローズだったからもちろん何の配慮もされず、障害ゆえに体力的に著しい不利があることなど当然カケラも汲んでもらえず、それでもなお、
「こんな私を、雇ってくれたから!」
と、我慢の上に無理と我慢と無理と我慢を重ねまして。ダメなミルフィーユ完成ね。
ある日の午後、廊下のモップがけ作業中のこと。自分のノロマな所作を通りすがりの看護師に笑われた瞬間、ついに私は見事なまでに派手な発作(強烈な幻聴から「かみさまの操り人形」状態に陥落、その恐怖のあまり金切り声のような悲鳴を上げた直後に意識を消失)を起こしました。
私はただでさえ他の職種からはヒエラルキーの下の下に見られていた看護助手でしたから(そういう、頂点に医師がいて、その下に看護師や精神保健福祉士、その他作業療法士や理学療法士などの専門職、その下の下に看護助手という名の何でも屋、そして最底辺に患者……という構図は大嫌いというか、ガチめで蔑みます。簡単に書くと、私の現在の仕事はそういうものをぶっ壊すためのもろもろの活動です)、それが生意気にも障害をクローズで、つまり職場を欺いて働いていたとは、とんでもない話だったようで。
(えっと……でも採用時の最終面接では院長との面接があったんですが……まぁ見抜けないものはしょうがないんだけど……今思い返すとめっちゃ笑えるわ……)
それから嵐のように始まった、看護師長をカシラとする職員たちの無視、暴言、嫌がらせの数々。具体的に何があったかはご想像にかたくないと思うので割愛しますが、私がそんな環境に耐えられる訳もなく。
私は、自尊心をまたも(と書くのは、中学時代&精神科入院時代に経験していたので)ズタボロにされ……。そこからちょいと記憶があいまいなんですが、気がついたらまた、自宅の自室のベッドで日がな一日、天井を見つめる日々に戻っていました。
それで、えーっと、ここまででかなり長くなってしまった。私が医療従事者や福祉専門職を信頼できない根幹には、このあたりの経験があるのかしら。
そこから、いろいろあって(急にざっぱくだね!)、縁あって今の職場に出会ったんです。
「いろいろ」とまとめましたが、これはもう、「縁」とか「運命」としか思えないんですよ。出会うべくして出会った場所。私が今まで食らってきた恥や傷や痛みや悔しさなどなどを、まるごと受け止めてくれた場所。障害のある自分をようやく「あ、私は、ありのままでいいのかも」と、受容する端緒をくれた場所。
それが、今の職場なのです。今や障害者として活動しているので、病気が下手に治っても困る(笑笑。
ここで強調したいのは、職場が変わったところで、単純な道には迷うし会議中にスマホのメッセージアプリはチェックするし(ごめんなさい!)、非常にボーッと生きているという「基本スペック」または「スタンス」を、私自身は全く変えていない、つまり私は私らしく、なんとなーく、でも常に本気で生きてきたので、たぶんこれからも不器用さMAXなスタイルで、なんとなーく生き抜いていくんだろうな、という点です。ブレてない、んだと思うんだ。変えられないし、変えたくもないし。うん。
で、ここまで書いておいて結局何が言いたいのかというと、
・合わない職場からは早めに逃げるが吉!
・遠回りや理不尽な処遇に遭うことや苦労は少ないに越したことはないけれど、もしも経験してしまったとしても、乗り越えられたらすごい鍛錬になる(若いうちの苦労は買ってでも……とは言うけど、その言葉のわかりみも強くなる。将来に活かすための経験の貯金ができた、くらいに自然体で思えるようになる)
・いつでも何度でもやり直しができるという可能性を自分から捨てないでいると、拾う神がかなりの高確率で現れる
・運命をそこそこ信じて、あらゆる縁は本気で大切にする
ということです。これを書くまでが長かったね! ふー。ここまで読んでくれたそこのあなたにも、ちゃーんとご縁が、あるようですねー、とか言ってみる。ふふふ。
いやー、社会人1年目の頃には、今現在のこんな楽しい日々に出会うなんて、まるで想像できなかったよ。なんだかんだで、あーもう、生きててよかったーっ!ぷはーっ(乾杯!!)
取り留めのない長文を読んでくれて、ありがとうございます。そんなあなたに感謝を伝えるために、このnoteのシメに、以下の言葉を掲載する形で今日は終わろうと思います。「あなた」には好きな言葉を入れてみてください。
あなたに逢えて、本当によかった。
心の底からそう思える日を、
あなたと迎えられてよかった。
恥と傷と痛みと悔しさ、
全部ぜんぶひっさげて堂々と、
明日もあなたと、生きていくぜ。
ではではー、そろそろ私、お風呂に入って寝るですよ。サンキュー、グッナイ!