多摩川河川敷

僕には、自分が世界にとって異物であるという自覚をして以来、自在に記憶を捨てたり書き換えたりする癖がつきました。

例えば新しい靴を初めて履くときは左からという拘泥を、くだらないとわかりつつやめられなかったこと。モラルという姿のない概念に物差しという着ぐるみを与えて聖蹟桜ヶ丘のショッピングモールの特設会場で乱れ踊っていたこと。街中に生えている小指をつぶさに踏み潰しながら歩き回って、スニーカーの裏に付着した嫉妬を多摩川に投げ棄てては、散歩っていいねえと笑い合えた人がいたこと。

過去って、不思議ですよね。推察ですが、過去の語源は「加工」ではないでしょうか。いえ、正確なことは知りたくもありませんけど、過去っていくらでも改竄できるんです。真実とされているあらゆるコト・モノは、僕の認識の中でしか暴れない。主観の域を決して蹂躙しない。加工されるんです、時間という劇薬によって。生きている限り、否が応でも。

歴史とは、去った時間の死骸がコレクション化した痕跡です。僕らはその上に折り重なるようにして生きていますね。それはイコール押し出しで死んでいくことを意味しますから、僕はね、とても浅ましい人間なので、つい損得勘定で動いてしまうんです。僕の上に図々しくも重なってくる次なる命、命、命、星、光、命、意味、物差しに対して、いちいち条件を出してしまうんです。

死んでから、いらっしゃい。って。

どうせ終わる夢なら、より気持ちいいほうがいい。これは人類共通の嗜癖ですよね、違いますか。そうじゃなかったら、僕があの日指先で潰したのはニキビではなく、孤独だったのかもしれない。やけに白っぽいのが、にゅるりと飛び出したので。

ああそうか、加工し放題だしいつでも捨てられるし、なんなら切り売りすることもできるし、マチスのように壁面を飾ることもできる。だから思い出とは、かくも美しいのですね! 初夏の多摩川の水面みたいに、キラキラと。

先生、僕は浅ましい上にとても飽きっぽい性分で、狂うことにもだんだん疲れてきまして。身勝手を申せば、今僕がここで話したことを、どうせ電子カルテに保存することですし、いっそPDFファイルにして彼女にメール添付で送っていただけませんか。

それと、そろそろ僕が彼女が「どこで結ばれるべきか」をご教授下さい。だってどうしても光にこの手が届かない!

僕はもうすぐ眠りにつきます。そのことを知れば、彼女はとても喜ぶでしょう。いつも夢の中で馬乗りになって僕の首を絞めながら子守唄を歌うような女性ですから。なんといっても、刈り取った小指たちを夕暮れ時の多摩川河川敷で、より遠くまで投げられたほうが勝ちね、なんて馬鹿みたいにさんざんはしゃぎあえた女性ですから。

ちゃぽん、なんて音など一切立てずに、彼女は子守唄を口ずさみながら、あたたかい水の底へ沈んでいきました。僕はそれをしっかりと見届けてからここへ来たもので、遅くなってごめんなさい。

お味噌汁、冷めちゃいましたね、温め直しましょうか。焦って席を立たなくても大丈夫ですよ。この部屋には窓も扉も無いので、誰かが侵入する心配も、すきま風に怯える必要もないんです。囲まれているって、素敵なことですね。そうそう、四方八方に取り付けられている監視カメラ、あれ最新モデルですよね。ずっと欲しかったんですよ。願えば叶うことも、たまにはあるんですね。

命? そうですね、大切にしましょうね。
僕にはもうこれ以上、売り飛ばせる過去がありません。許してください。もうすぐ楽になれますから。

どうぞその手を合わせてくださいね。

「いただきます」