「死にたい」が本気の言葉だと理解されたので突き放してもらいました

先日「消しゴムがほしい」という記事の中で、私は「線引きがバカらしくなる社会であってほしい。健常者か障害者か、性的指向、学歴、資格、宗教、国籍、そういうものの境界線が消しゴムで気軽に消せるような。」と書いた。

当然そんな消しゴムなど存在しなくて、理想を口にする私は今日も呼吸が下手だ。物理的にパニック症状を起こして味わう恐怖に加えて、今のこの社会を覆う抑圧、相互監視、嫌味やマウンティング、嘘や暴力をカネと権力で正当化する人々によって、今日も私はしっかりと死にたくなっている。

ヘラヘラしている時ほど、実はかなりのSOSなのだけれど、これが非常に伝わりにくいので自分でも厄介だ。私のその癖を見抜けるのは主治医でもカウンセラーでもない。唯一、ざっくりと私の傷をえぐりながら「本当」に手を突っ込めるのが、他でもない夫だ。

今日、半分仕事で、とある動物園へ行った。動物たちを観ることがメインイベントではなかったので、必要な視察を済ませてさっさと帰ってきた。

疲れた。気疲れした。

うまく言えないし、うまく言う必要もないのでうまく書けないのだけれど、以下、もし似たようなことを憂いている方がいたらそれは(手放しで喜べないものの)少し、心強いことだ。

テーマパークやフードコートに限らない話かもしれないが、ああいう場ではちょっとした醜い争いが見た目にわかりやすく起こる。例えば場所取りで傘などを利用して牽制したり、バッグなどの荷物でじりじりと浸食してきたり。向こうからぶつかってきたのに謝るどころかぶつかった側が舌打ちしたり。パニック症状を起こしてよろよろと手すりにしがみついている私に遠くからスマホのカメラを向ける人々がいたり(念のため書いておくが無関心はもちろん暴力だが、下衆い好奇心もまた暴力である。)。

「相手を見て、勝手に値踏みして、見くびれそうならばなんらかのネガティブなアクションを開始する」、そんな人が激増している気がする。具体的には、チラッとニヤニヤ見やったり、嫌な間を置いて笑い声をあげたり、悪質なのはスマホの画面にこちらをバカにする文言を打ち込んでその場でグルのLINEに送り、やはりニヤニヤしあう、など。気味が悪い。

ちなみに書くと、私はしょっちゅう色々な場面で多くの方々に勝手に値踏みされては「コイツ、バカにできそう」と判定されて今書いたような憂き目に遭う。ぼーっとした見た目と害のなさそうなニコニコのせいかもしれない。

けれどごめんね、値踏みストさんたちの期待に添えるような優しさは私にはない。こちらも別にボランティアで生きてるわけじゃないから、さすがに今日はきっちりガンを飛ばしてしまったため(お相手さんがたはそそくさと退散していかれました)、今はその時の自己嫌悪感がひどい。

ひとつひとつは些末なことだし、「気にしなきゃいいんだよ」と言われればそれまでのことだ。確かにそれはその場では正論かもしれない。

だが、その「気にしなきゃいいんだよ」を放置してきた結果、なにが鬱積しただろうか?

ルールの名を借りた抑圧や誰のための制限なのかが不明瞭な決まりごとや慣習(例えば結婚は男女でするもの、高校では黒髪でなければならない、筆算の線は定規で引かなければ全問やり直し、など)に窒息しかけている人もこのごろはかなり増えた。

「精神障害を得る人は優しい人が多い」、と言われるのが苦手だった。精神障害が優しさが弱さの代名詞のように聞こえてしまったからだ。だが、私は二つの点で勘違いをしていた。

まず、優しさは弱さの代名詞ではない。間違いなく強さと賢さの証左だ。強く賢い人は、人を値踏みすることも嘲笑うこともしなければ、その惨めさをよく理解している。

次に、精神障害を得ることは弱いことではない。ましてや劣っていることでも克服すべき(健常者に近づこうとする)ものでもない。私が私らしく生きようとした結果としての精神障害なのだ。私のこれまでの歩みに強く紐づいているものを、誰かさんたちに一概に否定されたくはない。

不誠実や要領の良さ、見た目の良さや取り繕うことばかりが礼賛される現代において、精神や神経のどこにも不調を覚えないのは、単に無神経なだけなのではないだろうか、というのは暴論だろうか?

テーマパークやフードコートなどの現実世界が荒んでいく一方で、ネットの世界はどうだろう。怖くてあまり追求も言及できないけれど、罵詈雑言や差別用語が飛び交っていることは容易に想像がつく。自分の知らないこと、価値観が合わないことなどを認め合えないどころか、相手が文字通り死ぬまで意見を潰そうとする。しかも責任のかけらも取らずに。

敵がいないと生きられないとばかり、気に食わない相手の粗探しに血眼になって、笑われないためにゲラゲラ手を叩く姿を散見するようになった。私はふと、昔むかしおもちゃ箱にあった「ゼンマイを巻くとシンバルをバシバシ叩きながら歩きだす猿」を思い出した。まだ実家のどこかに残ってたりして。

相手に対してポジティブな関心をまず寄せて、対話を試みることが巡り巡って自分の幸福度を上げるのだと頭ではわかっているのに(=ネガティブな入口をくぐると自己肯定感ごと幸福度が下がっていくことも百も承知のはずだったのに)今日の(も?)私は、とても嫌なやつだった。たとえ嗤われてもただ泰然としておけば良かったのに、私はもともと可愛げのない目を尖らせて相手に刺してしまった。

なんて私は、つまんない人間なんだろう。それでもヘラヘラしているんだから、割と深刻に絶望する。

「あはは、死にたいな」

帰りの車の中で私が呟くと、運転席の夫は表情一つ変えずに、こう言ってのけた。

「ここからなら、海でも山でも近いけど、どっちがいい?」

『そんなことを言っちゃダメだよ』『どうしてそんなことを言うの』などと夫は決して言い咎めない。私が「死にたい」と口にするときにはそれが軽口などではなく、本気であることをよく知っているからだろう。

私はあっさり根負けした。

「家に帰ってベッドに潜りたい」

「死ぬんじゃなかったの?」

「起きてから考える」

昼寝は良い。siesta、日本にも普及しないかな。睡眠不足が私たちをイライラさせてない?

優しい人の優しさを消費してでしか回らない社会なんて、すでにもうおかしいんだと思う。誰かが精神障害を得れば、その先には嬉しそうに口を開けて「healer」「carer」のていで待ち構える精神科医やら福祉職やら。もう勘弁してほしい。そこにもしっかりお金や利権が回ってたりするから、こんなにもわかりやすいクズみたいな構造を、それでも今のところ私たちは乗り越えてはいない。

わかってるよ、別に誰に勝ちたいわけじゃない。でも、負けたくはないんだよ。

「頑張らなくてもいいから、あきらめないでね」。

とある療養所で、何十年と生き抜いてきた女性にかけられた言葉が脳裏に蘇る。

うん、そうだね。頑張らなくていいよね。あきらめなくても、いいんだよね。

ありがとう、それでもまだかなり死にたいので、ちょっと心身を休めます。起きたら「どうするか」を熟考するね。そうだ、魔法の消しゴム探しの旅にでも出るかな。

とりあえず、昼寝してきます。おやすみなさい。