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最終章 誕生

決して、俺を忘れるな。

運命の日、あまりにも澄み切った夜空に、星々が瞬いている。太古の人々は、その配置に物語を与えて意味を紡いだ。誰もそれをただの化学反応だと切り捨てなかった。一種の浪漫などに准えて、愛や正義を謳ってきた。まるで何かに縋りつくように。孤独を星に擦り付けるように。
世界は、それを認識する世界の数だけ存在する。ということは、認識の外にいる者はその個の世界には存在しえないことになる。
星の光は遥か過去の光であるという。可視光は既に滅んだ星の残骸であることを知っている者が、どうして星空を求めようか。誰もがネオンに辟易して下を向いて歩く魔都市で、星の光は忘れられたか、それとも疎まれているのか。
今更、夢など見られないと、ビルに埋もれた人々は妬むのだろう、世界に否定された者たちの自由さを。と同時に、世界に否定された者たちは憎むのだ、愛を肯定された者たちの束縛を。
結局、どう足掻いても解体できない、孤独な素数「2」。
彼を救うか、あるいは奈落へ突き落すのか。いびつな舞台の首謀者は、果たして彼の世界にどのような変容をもたらすのであろうか。

彼の脳裏には未だに、あの影がちらついている。あの日言ってしまった『その一言』に囚われた彼の精神。
しかし彼は、彼女の死を以てはじめて生きることを始めた。
生きている。否、生きていく。彼のこの決意は、あまりにも多大な犠牲の上に成り立っている。彼は、それを自覚しなければならない。

向き合うこと。
逃げないこと。
傷つくこと。
強くなること。

これらは同義である。すなわち、彼にとって生きることとは戦うことだ。
呼吸をし、排泄をし、摂取をし、そこに在るだけでは「生きている」が「生きていく」とは到底言えない。少なくとも、今の彼の世界に認識されはしない。認識されないということは、存在しないということである。
愛を否定し、愛に否定され、認識を失い、自我を失い、罪すら剥ぎ取られた罪人。存在証明のはく奪が、彼にとって何よりの罰であっただろう。

今更、引き下がる場所などない。ということは、立ち位置がハッキリしているということだ。
彼は遂に、重く冷たい鉄の扉を開いた。
虚無にも似た、意味を包含しない深呼吸をしてから、その空間へと足を踏み入れる。
しかしどうだろう、彼を待っていたのはあまりにも緩やかに和んだ芳しい香りのする空間であった。場違いかと思うくらい、安らいだ雰囲気が漂っている。
それに飲まれてはいけない。彼は口元をぐっと引き締めると、待ち受けていた人物の目をしっかり見据えながら、ゆっくりと言った。
「お久しぶりです、Dr.」
彼の言葉に応じた黒い瞳が、ゆったりと細められた。
まるで時が止まったかのような空間。その中央で、穏やかな微笑みを浮かべている篠畑礼次郎。彼がすべての舞台の演出家であり、悪夢の首謀者なのだ。
葉山は跳ね上がりそうになる鼓動を必死で抑えながら、篠畑の言葉を待った。篠畑は、しばらくティーポットに興じていたのだが、焦らすようにゆっくりとした手つきで葉山を手招いた。そして、
「突然ですが」
聞く者のこころを癒すようなテノールを発した。
「君は誰かを愛していますか?」
唐突な質問に、しかし葉山はゆっくりと頭を縦に振った。篠畑は目を細めたまま、
「そうですか、それは一般に幸せなことと言われていますね」
「それが、何だというのです」
篠畑はわざとらしく息を吐いた。
「……それにしても『愛』という感情は、どこまでいっても独善の域を出ません。言葉遊びをすれば、独善は『毒然』です。即ち害悪であると言えましょう。『愛×n=害悪』という方程式は、万人に対して成り立つ。愛の心身への侵襲性を考えれば、それは必然であるとすら言えましょう」
「侵襲、ね。実にあなたらしい表現だ」
「不思議ですね。言葉で縛れないものが数値で表せると思いますか?……素数のお話ですよ。なぜヒトは、いや生命は『2』を求めるのか。『3』の裏切り。無視された『1』からの復讐。正答は限られているのですよ、極めて狭窄な形に。言うなればそれこそが独善の具象であり、人々の大好物なのです」
葉山は黙って篠畑を睨む。篠畑は苦笑して、
「もう少しアフォリズムに話を傾けましょうか。君に解せないことは、僕の腑にも落ちないことですから」
そう言って椅子に腰かけ、悠然と足を組んだ。
「わかっていますよ、君は僕を憎んでいる。それと同時に深い興味を抱いていますね? 『その一言』を言いたがっている。言いたくても言えない、その一言に苦しんでいる」
「……」
篠畑の眼には、明らかな威圧と歪な救いの光が燈っている。それを葉山に向けながら、朗々と、
「楽に、なりたいでしょう?」
しかし葉山は応じない。それでも篠畑は続ける。
「ならば座しなさい。儘に導かれなさい、天啓の下に。すべてを許される時は、そこまで来ているのだから」
「……」
「愛とは、偉大なる言い訳であろう……聖書や教条は、それを頑なに否定します。しかし――」
篠畑のその言葉を遮るように、葉山は声を振り絞って、
「あなたは、間違ってる」
篠畑は微笑んだ。そして、葉山の殺気を無視し、
「僕の好きな曲、ご存知ですよね。とても美しい曲です。ショパンの『幻想即興曲』。あの曲の成り立ちをご存知ですか?」
葉山は怪訝な顔をした。何故今、そんな話を持ち出すのだ?
「なぜ僕があの曲を好むのか、その成り立ちを聞けば自ずとおわかりいただけるでしょう。……そうですね、紅茶の味が出るまでもう少しかかります。時間潰しにでも、お話しましょう」
篠畑はティーコージを指で一回弾いて、こんな話を始めた。
「誕生には諸説あるこの曲ですが、特徴的なのは、左手が1拍6等分、右手は1拍が8等分であることでしょう。非常に難易度の高い曲ですが、聴く者の心を非常に刺激する……そう、この不安定なリズムと高揚感のあるテンポが、人間の脳に適度な不安を与えるのです。最後まで聴かずにはいられない不安をね。物事の結末ばかりを知りたがる人間の心理を見事についた曲なのです」
「ドクター、僕はそんな話を聞きに来た訳じゃない」
「――彼は、裏切りに遭いました。しかも、死んだ後に。彼には無二の友人がいた。病と共にあった彼の生涯に、どんな時にも支えになってくれた、大切な友人が。その友人に、死の間際にショパンは告げました。『自分の死後、この楽譜を燃やして処分して欲しい』と。ところがその友人――フォンタナが遺言に背き公にしたとも言われるのが、この『幻想即興曲』です。本来ならばショパンの嵐のような生涯とともに消滅するはずだったこの曲が、二百年以上もたった今でもこうして人々に愛でられている。一体これは、どれほどの皮肉でしょうか。愛を求め鍵盤に生涯を捧げた彼が、死後に裏切りに遭い、人々に愛されている。このエピソードは、僕の中で宝物のように輝いているのですよ。この曲を公にした瞬間の、フォンタナの精神状態を想像するとね、……どうしようもない快感が僕の中に突き抜けるのです」
葉山はあからさまに不快感を示した。
「あなたは……最低だ」
「君がそう思うのなら、そうなんでしょうね。まぁ、そう怖い顔をしないで、もう少し雑談にお付き合いください。時間ならいくらでもあるでしょう。……事のついでに、昔話をしましょうか。君に最低だと思われるのはいささか心が痛いですからね。いいえ、どんな人間にどう思われようがどうでもいいことです。しかし、僕が興味を持った人間に、そんな風に思われるのは心外であり――本望でもあります」
「本望?」
「このアンビバレントさは人間を常に苦しめるのでしょう。いえ、言っている意味をすべて解する必要はありませんよ。そもそもそんなことはただの幻想であり、思い上がりに過ぎませんから」
篠畑は椅子から立ち上がり、ティーポットの様子を確認した。
「さて。どうして世の中には斯様にも、ラブソングが溢れているのでしょうね。人々は愛を歌い、詠い、謳うのでしょうね」
「さぁ、知りません」
切り捨てるように答える葉山。
「その答えの一つは、寂しいからです。誰もが孤独の中にいる。孤独をいくら足し算しても、死という名のゼロを掛ければすべてが無に帰する。そしていくらプラスの事象を掛けあっても、一つでもそこに裏切りのマイナスが存在すれば、すべてがマイナスに陥る」
「……」
「それを悲劇と嘆かないことです。大切なのは絶対値なのですから。プラスだろうとマイナスだろうと、そこに存在を証明してくれるのが絶対になのです。そして、その存在に意味と確信を与えるのが素数です。その中で孤独を示す『2』が、愛に対する正答なのです。しかし人々は己が『1』を忘れ初歩的な足し算を違え、裏切りの『3』を導いてしまう。フォンタナの背負った罪は、僕に極めて酷似している。ショパンが彼を許すことは、決してないでしょう。誰も素数を解体できないように」
篠畑は、足を組みかえるとこんなことを言い出した。
「……君には、告げておきましょうか。僕が最初に手を掛けた人間の名を」
葉山は一瞬の戸惑いの後、
「何故です」
「君にはきっと、その資格があるから。そして僕には、君にそれを告げる義務がある」
そう言う篠畑の顔は、尚も笑みを絶やさない。葉山は平静を装い、
「僕が聞いて、それをどうするんですか」
「それは君自身が判断することです」
「なんて無責任な――」
篠畑は間髪いれず、その名を告げた。
「若宮恭介」
「――!」
「聞いたことくらいは、あるでしょう」
葉山は、ぐっと唇を噛みしめた。まさか。彼は交通事故で死んだはずだ。
「そう。彼は公には交通事故で亡くなったとされています。ですが……もったいぶるのもおかしいですね、教えて差し上げましょう。恭介は僕がこの手で葬った人間です」
「なんだって……?」
何があった。何があったのだ?
「随分と時間がかかりましたけどね、彼に『決意』させるには。一番手こずった相手だったなぁ。その分、彼の死の一報を聞いた時にはね、本当に楽しかった」
葉山はギッと篠畑を凝視する。
「いい目を、していますね。まるで肉食獣だ。いや蛮勇ではない、それはきっと勇気と呼ばれるに相応しい光を燈している。覚えていますか?君はつい最近まで、右目に絶望を、左目に憎悪を、口元に愛への飢餓を湛えていたことを」
葉山は更に篠畑を睨みつけるが、篠畑は余裕顔だ。
「覚えて、いないでしょうね。それは君の知らないうちに君の中で昇華したものだから。飢えていた部分とは、純粋な欲求によく似ているのですよ。食欲・性欲・睡眠欲。これら3つの欲求は、真っ直ぐ愛につながるのです。少し考えればわかることですが……彼女の死は、皮肉にも君を満たした。それは疑わざる事実です」
葉山の口元が強張る。それを見た篠畑はたたみ掛けるように、
「もう一度言います。彼女の死によって、君が満たされたという事実がここにある。満たされたが故に君は今、こんな場所で呼吸をしている」
「言っている意味が、わからない」
必死で動揺を隠している葉山の姿が可笑しくて、篠畑はわざとこんなことを言ってみせた。
「なぜ僕が君に興味を抱いたのか。それはね、君が僕と同じ眼を持っているからですよ。そう、『孤独な裏切り者の瞳』をね。君は彼女の最後の願いを裏切った。だから今、こんな場所へ来ている」
「違う」
「彼女が望んだのはこんな結末でしたか?君は君自身を見失わないで生きてほしいというのが、彼女の願いではありませんでしたか。何故今、またこうして僕に導かれようとするのです。弱さゆえ、でしょうね」
「違う。僕は貴方に導かれになど来ていない。決着をつけにきたんです」
「勇ましいことですね。しかし、人間の本質はどこまで行っても変わらないのですよ。属性とでも言いましょうか、それは都合よく変えられるものではない」
葉山は湧きあがる感情を抑えきれず、胸ポケットから徐に、拳銃を取り出して直に篠畑へ向けた。だが篠畑は恐れることなどなく、それを嗤った。
「その武器が何よりの証拠です。弱さの証です。彼女は言ったのではありませんでしたか?『武器など、要らない』と」
「貴方の高弁は結構だ。僕はもう、逃げない」
「逃げ場がないから?」
「そうだとしても、それはきっと彼女が遺してくれた場所だ。だから僕はここから逃げない。自分から逃げない。決して」
「随分と……自我意識がしっかりされたようですね。うん、良い目だ。僕好みのね」
葉山は両手で拳銃を支えながら、自分の中にある『彼』の影を一瞬だけ意識しそうになり、首を横に振った。篠畑は、葉山が未だに『彼』の影を恐れていることを知っていながらそんなことを言うのだ。彼はまだ、十分篠畑の掌の上なのだろうか。
篠畑は温められたティーカップにセイロンティーを注ぎ、葉山に差し出す。凶器を向けられている人間とは思えない余裕である。
篠畑は声のトーンをやや高くして、こんな話を始めた。
「知っていますか?虹色のアメーバのお話。とある捻くれた詩人が大昔に詠んだ詩に出てくるんですけどね、その一節に、こうあるんです。

『人のこころはアメーバのように色と形を変え、やがて砕け散る。』

その瞬間が何よりも美しいと、僕は考えます。そう、今の君はそのアメーバがまさに変容する一歩前だ。さぁ、どう変わるのでしょう、君の認識する、その世界は」
「僕はもう、あなたの言葉には惑わされない」
「でしょうね」
「僕は、変わったんだから」
「そうでしょうか?」
「彼女に誓って」
「そうですか。確かに、『僕の』言葉には惑わされないのかもしれません」
紅茶の完成と共に、篠畑が描く最後の舞台の幕開けが迎えられようとしている。それにまだ、葉山は気づいていない。
「ねぇ、葉山君。こんな場所まで来てくれたご褒美に、とっておきを差し上げましょうか」
葉山は拳銃を構えたまま、
「僕に、紅茶の趣味はありません」
吐き捨てるように言った。篠畑はティーカップを小指で小突いて、
「知っています。何、安心してください、必ず君のお気に召す筈ですよ」
「何がどうあろうと、僕は、あの日の彼女への誓いと共にあるんだ」
「だったら尚更だ。それは、どんな誓いでしたか?」
「答える必要がない」
葉山はまだ、篠畑の言葉の真意を理解できていない。
「そうですか、じゃあ、本人の口から聞き出しましょうか」
しかし、嫌でも理解を、というより認識をせざるを得ない事態が直後に起きることを、どうして彼が予測できたであろうか。
「『本人』?」
葉山は言ってから、急激に全身に悪寒が走るのを感じた。構えていた銃を、成す術なく落してしまった。床に叩きつけられた武器が、乾いた音を立てて転がった。
篠畑はそれをせせら笑うように、こう告げた。
「ええ。本人に」
葉山は二の句が継げなくなった。篠畑は勝ち誇ったように白衣を翻し、奥の本棚の片隅に置かれていた箱を取り出した。白い本体に、丁寧に青いリボンが掛けられている。
「特別贈呈品、とでもいいましょうか」
葉山の顔がみるみる歪んでいく。篠畑はその箱を、葉山に手渡した。
「ほら……感じるでしょう?」
重みが。
温度が。
すべてが。
残酷なものとなって、今、硬直した葉山の両の手に託される。
「さぁ、開けてください」
まるでプレゼントを渡すかのような口ぶりで篠畑は言う。いや、篠畑にとってみればこれは『贈り物』であるのかもしれない。極めて怜悧冷徹で嗜虐趣味の至高のような。
葉山は完全に言葉を失った。今、自分の手中には、『ある』のだ。この直感は間違いない。何が起きてもおかしくない魔都市・東京。しかしこんなことがあっていいのだろうか。
こんなことがあって、いい筈がない。しかしありえないこと……はありえないのが、この街だ。土竜が刑事になり、人を殺し、同僚は呪われて土竜と化した。何があっても、今更だ。
しかし――何よりも狂っているのは、今目の前で微笑みを浮かべている、篠畑礼次郎その人だろう。わかりきっていたことなのに、その人格は疾うの昔に崩壊していたのだ。そんな人間相手に、真っ向勝負を挑むこと自体が間違っていたのだろうか。
問いかけは無意味で、今自分の両手にかかる重みや温度が、彼に両価的な感情を抱かせた。
篠畑は言った、自分と彼とは同じ眼をしていると。そのロジックが成り立つとすれば、葉山もまた狂っているのであろう。事実、衝撃と共に彼の中には狂気と呼ぶに相応しい歓喜の感情が湧きあがっているのだ。

(また、会えたね――)

葉山は震える手で箱を開けた。そこには紛れもなく、あの日、若宮郁子を葬ったナイフが転がっていた。
それとほぼ同時に、この空間に動く人影があった。あまりにも不自然な登場に、しかし葉山には動揺が無かった。むしろ、確信に近い感情でそちらを見やった。両目に、いびつな光を灯して。
「僕の、最高傑作です」
篠畑が告げる。
「さぁ、おいでなさい」
ゆらりと葉山の前に現れたのは、他でもない、若宮郁子だった。彼女は、口を真一文字に結んだままだ。
「言ったはずです。僕の趣味は『人形遊び』だと。こうして人形を作ることも、もちろん僕の趣味なのです」
そんな篠畑の言葉は葉山の耳には入らない。ゆっくりと手を伸ばして、若宮の頬に触れた。
「――……」
冷たい。感触は、死んだ人間のそれだ。篠畑は葉山の様子を観察するように言った。
「いかがです?」
「郁子……!」
葉山は若宮の顔を撫でまわす。彼が死体を抱きしめるのに、そう時間はかからなかった。

第十三章 決意

彼女は僕に、絶対的な孤独を与えてくれました。僕がそれをどうして愛さずにいられますか? あの冬の日、彼女は永遠になった。即ち僕の孤独が永遠になったということです。孤独は『1』。死は『0』。僕が彼女と交われば『0』になってしまいますが、絶対的な孤独は未来永劫『1』のままなのです。
葉山君、君はまだ気づかないのですか? 愛しいと自覚した者の死を以て尚、『1』を他の数字と見間違うのですか? 己を世界に無防備に滲ませるのですか?
人間の弱さだと言われればそれまででしょう。この数式に気づかずに生きていく方法はいくらでもある。欲を適度に満たし、気づかぬふりで笑い、現実から目を逸らして生きている人間の方がずっと多い。そういう人間こそ、セイを繋ぐためには必要なのかもしれません。
しかし葉山君、君はまず自分にならなければならない。自分を生きなければならない。そしていずれは自分のために、死ななければならない。
覚悟が、必要です。君は確かに舞台から飛び出した。それは勇気だと認めましょう。しかし、戦うことを選んでしまった君にあるのは、安息や安穏とは程遠い道だと思った方が良い。もっとも、初めからそんなものを望んではいないのかもしれませんが、決して忘れてはならないのは、君が愛したあの子が真に、最期に何を望んでいたのかです。
君が己に『1』を望む覚悟が無ければ、世界は簡単に牙を剥きます。君の弛緩した認識は、いつでも君を喰おうと舌を出しているのです。そして君はもう何度も、それに委ねる感覚を知ってしまっている。それが抗えない感覚であることも、それが一種の快楽衝動に近いものであることも知っている。
戦いとは言いますが、君は、どうやって戦うのでしょうね。武器が、必要ですか? 果たしてそれはあの子の望んだことなのでしょうか。決めるのは生きる者だけです。死んだ者の意志は生きる者が継ぎ、解釈されて砕かれていきます。それはつまり生きる者の特権であると同時に責任でもあるのですね。
果たせない約束を人は裏切りと呼びます。さて、君は唯一無二の契りを完遂できるのか?
……面白そうじゃないですか。
それでも舞台は続くのですよ、世界を君が認識する限り。

第十二章 素数

そういえば、彼女について何も知らない自分に気付いた。彼女の名前は知っている、笑顔は知っている、怒った顔も知っている。死に顔さえ知っていた。けれど、それ以上の何も、彼は知らなかった。十分じゃないかと笑う自分もいる。それでも、求めるだけの叶わない想いは、彼女のことをもっと知りたいという欲求にすり替わって、自然と葉山は足を向けていた――彼女が過ごした家へと。
一転して晴れた日だった。彼は雑踏を抜けて、通勤・通学の人々の流れに逆らって歩を進めた。水たまりが初夏の陽光を反射している。
職業柄、アパートの鍵を大家から借りるのは簡単なことだった。ここで一般人ならば単純な疑問が湧く。家主の消えたアパートがなぜ、そのまま残されているのか。しかし、その理由は至って無味乾燥なもので、『被害者の生前の情報を維持するため』だということを彼はすでに知っていた。知っていて、有効利用した。こういう時に、甚だ己が傅いている職に対して、相反した感情が生まれる。嫌悪と畏敬。不思議なものだ。
彼女の手を握るような気持ちでドアノブに触れる。温もりとは程遠い金属の温度が手に伝わり、葉山は果てない虚しさを覚えた。ずっと握り締めていたかったあの手は、あの日自分の中で冷たくなっていった。あの感覚は一生、忘れられないだろう。否、忘れてなるものか。
玄関を入って最初に目についたのは、下駄箱の上のサボテンだった。生という言葉から遠く離れてしまったようなこの無機質な部屋の中で唯一、それを主張しているかのように、瑞々しく棘を張っているが、その小ささが実に愛らしい。しかし愛でようと撫でれば突き刺さるあたりが、彼女そのもののような気がした。葉山はふっと息を吐いた。まるで、彼女に語りかけるように。すぐに、その行為の無意味さと殺伐さに、自嘲的な笑みが込み上げるが、それは目の前のサボテンに失礼だと思い引っ込める。
部屋全体は、葉山が想像していたよりも女性らしいというか、ある意味で彼女らしくない部屋だった。カーテンは黄緑色のドット柄だし、ラックにはカフェカーテンが引いてあるし、レース柄のテーブルクロスが丁寧に掛けられているし。自分は、自覚していた以上に彼女のことを知らなかったのかもしれない、そう思ったら余計に彼女が遠く感じられて――これ以上ないほど遠くにいるというのに――心に簾が入ったような悲しみがさぁっと広がった。もっと知りたかった、君の口から、君のこと。
僕は、君が望むように強くなれないかもしれない。今だって腰には、存在を静かに示す凶器が据わっている。認めなければならないのだ、自分は弱いと。その弱さ故に君を失ったと。自分を責めてそこに浸るわけではないが、どうしたってその事実は僕に影と落してしまう。影は僕の足元から伸びていて、いつだってこちらを見て睨んでいる、あるいは笑っている、ともすると手招きしている。
人はそれを何と呼ぶのだろう。有体に『狂気』? ……バカバカしい。単一の価値観で測れるものなど、図れるものなど、計れるものなどこの世には無いと、彼女が身を呈して教えてくれたではないか。もっとも、謀れる者は存在することもまた彼女の死が表している現実であるが。
葉山は一通り部屋を見渡してから、次第に視線の置きどころに困るようになった。彼女のことを知りたいとは思う。だが、何をどうしようというわけではない。知りたいから部屋に入った。それだけ見れば、まるで不法侵入のストーカーではないか。そういうつもりは毛頭ない、単純に知りたかった。知ってどうするという訳でもない。知ることに意味があるのだ。
ふと、動かし続けた視線が本棚で止まった。書類に紛れて立てかけてあったのは、アルバムだった。これは葉山の知的好奇心を掻きたてた。自分の知らない頃の彼女が写っているかもしれない。一瞬だけ、彼女とそれを見ながら、笑いあっている風景に思考を持っていかれて、葉山は小さく頭を横に振った。妄想もいいところだ。
いけないことだとわかっていても、手が自然に伸びていた。水色のB5サイズのアルバム。ゆっくり触れると、ビニールのバリっとした感触と、写真が離れる時のパリパリという独特の音がして、それは姿を現した。
大学生の頃だろうか? 確か彼女は合気道を習っていて、有段者だったはずだ。精悍な表情で構えを取っている写真だ。あどけない顔が真剣に相手を見据えている一瞬を撮ったものだろう。あまりにも彼女そのままで、葉山は思わずドキリとした。愛しい人の知らない顔を知るというのは、なんだかちょっとしたスリルだ。いけないことをしているという罪悪感と、彼女を知っていくその快感と、様々な感覚が葉山に、次々にページをめくらせた。大学の合気道サークルの合宿の時の写真は、珍しく髪が長かった。高校生時代に、父親と思しき人物と卒業式を迎えた時の写真は、照れ笑いをしている。ランドセルを抱きしめるようなポーズで友人数人と写っているのは、恐らく小学校高学年くらいだろうか。目元を見ればわかる、どれも、彼女だ。変わらずに彼女は彼女だった。

……君が強かった理由がわかった気がしたよ。君はきっと、一度も君から逃げなかったんだね。

葉山はアルバムを閉じて、再び息を吐いた。これは、ただのため息だ。デジタルの時計が午前10時を知らせる。彼女への思慕はいよいよ募るが、知りたいという欲求は満たされることがない。彼女からの言葉でなくては、意味が無いのだ。もう何物も、何人も、彼女の幸せを願うことができないという現実は、彼の不毛な想いを堰き止めることができない。むしろ助長してしまうのだ、追い求めるものは決してこの胸の中に去来しないのだから。
彼は未練がましいと思いながらも、もう一度アルバムを開いた。保育園のスモッグを着て、父親らしい人物と、むくれた顔をして写っている。不機嫌な顔だって可愛いと思える。目元がそのままだ。黒目の大きい、少しだけつり上がった、意志の強い目。左手に『わかみや いくこ』と名前の入った手提げバッグを持っている。胸元のバッジから察するに、キリン組だったようだ。小さな右手は、父親の手を嫌々握っているかのようで、少し可笑しかった。
「……」
不意に、葉山は違和感を覚えてアルバムを初めから見返し始めた。最初は、大学時代から。高校生、中学生、小学生、保育園――そこまでだ。乳児の頃の写真が無い。普通は、赤ん坊の頃に、一番写真を撮られるのではないだろうか。それはただの一般論か? それに――母親らしい人物が1枚も写っていない。
なんだろう、この感じは。そう言えば、この写真に写っているのが彼女の父親、若宮恭介であるならば、彼は確か数年前に『事故死』したはずだ。有名な話だ、彼は何と言っても警視庁の高官だったのだから。しかし、考えてみれば自分は何も知らない。情報として、何も知らされていない。警視庁の現役高官の突然死は多少、マスメディアに騒がれたものの、直後に確か政治家の大きな不祥事があって、あっという間に世間から忘れ去られたことだった。
胸騒ぎがする。彼は彼女のことをもっと知りたい、というよりは知らねばならないのでは、という想いに駆られた。本当に自分は何も知らなかったのだ。知らなすぎた。何より、知る前に彼女は逝ってしまった。

何が、あった?

第十一章 因果

愛や正義は人間の大好物ですからね。人を裁く時も判ずる時も、そこに愛や正義があれば、否、存在などしていなくてもそれを謳えば、どんな利己的な感情も合理的な凶器になる。そのことを君はわかっていましたね。わかっていて、利用しましたね。有効利用したんですよね。
いいえ、別に責めているわけではないですよ。僕は人を裁かない。決して判じない。そんな資格もないし、そんな心算もありません。ただ、導きが欲しいのなら与えましょう。君が望むなら、君の未来は僕の所有物です。

明日を、夢見ていたのでしょう。輝かしく他者から賞賛される未来を。
何故ですか? そのままでも「他者」の僕から見ればあなたは、十分『幸せ』に見えましたがね。
「他者、か……」
恭介、君の苦悩に歪む顔は、非常に美しい。
美しいか否か。正義か悪かは、それで決まると言っても過言ではありません。
そして君は自らの手で道を選び、僕のもとへ来た。
それが、君の答えならば……僕はただ、受け入れましょう。仮令、それが『罪』と呼ばれても。

第十章 沈黙の詩

「宝飯玲子は、ここにいるわ」
ミズはそう断言して篠畑を見据えた。篠畑は言葉を途切れさせたきり、その場に立ち尽くしている。ミズはしてやったりとばかりにニヤリと笑った。
彼女の狙いはただの腹いせだ。こんな舞台で踊らされたことで安売りされた自分のプライドが許せなかったのだ(しかしそんなものは、その辺の勝ち組連中が夢中のマネーゲームよりも余程つまらないものだとも認識している
彼女であるが)。
「ドクター、どうかしたのかしら?」
我ながら、意地の悪い質問だとミズは自嘲した。戸惑いこそ見せないものの、篠畑の目から余裕の色が消える。
「なぜ……?」
少女の消え入りそうな歌声が篠畑を捕えて離さない。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」

世界に憎まれ、拒否され、果てていく者がいる。繰り返される生命の営みから外れその輪を遠くから見ているだけの者がいる。羨望と失望と絶望に苛まれて歪んでいく正義が在る。しかし、そんな彼らを『不幸』だと決めつけることは、ただの傲慢と欺瞞であると、他でもない篠畑は言う。しかし篠畑は、そう自分に言わしめるこんな世界を『愛しい』と感じている。果てなく憎んでも憎み切れないのなら、いっそのこと愛そうじゃないか。彼は『あの日』からそう決めている。いや、その様に変容した自分こそが本来の自分の姿だと教えてくれた『あの子』に、お礼が言いたくてしょうがない。彼は、疾うに世界の歯車から外れてしまっているのだから。

篠畑は今、自分の両目に映っている目の前の少女の紡ぐ詩にじっと聴き入っている。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」
半音ずつ下がっていく、いびつなメロディ。
篠畑の中で少女の声が滲み、広がり、歪んでいく。その旋律は、あの日に彼の目の前で散った、緋色の徒花のように、彼を彼たらしめていく。

第九章 彼は気まぐれにキスをする

若宮は動揺を必死に抑えながら、再び咳払いをして
「おはよう、葉山君」
と挨拶をした。途端に背後から、痛い視線の集中砲火を浴びるのだが、若宮は毅然と無視する。
葉山は一歩一歩ゆっくり若宮に近づくと、持っていた花を若宮の机の上にそっと置いた。若宮はその花の名前を知らない。
「カンパニュラ。春の花だよ」
葉山は微笑んで言う。
「綺麗でしょ」
「……」
若宮は花に目もくれず、葉山をじっと見た。重なる面影――篠畑の微笑みが浮かぶ。
「おい若宮、どういうことだよ」
大竹がためらいがちに声をかける。すると、その声を皮切りに、勘違いした周囲の無責任な声が一斉に飛んできた。そのざわつきは、しかし若宮の耳には入らない。否、入れない。それどころではない。外野の野次など騒音以下だ。
大竹は自分の言葉で端を発したことを申し訳ないと思ったのか、淹れかけのコーヒーをそのままにして
「おい」
と葉山に声をかけ、そのまま首根っこを掴んで廊下へ引き摺って行った。周囲の視線が今度は大竹に集中する。若宮は自分の机に置かれた花に視線を落とした。
薄紫色の花びら。
若宮がダンマリを決め込むと、周囲はつまらなそうに勝手に解散していった。ただ各々の仕事に戻るだけだ。葉山の処分違反には誰も触れもしない。そういう『面倒なもの』には関わりたくないのだ。責任なら、他でもない名前を呼ばれた若宮がとるべきなのだ。そんなことは、若宮本人が一番わかっている。しかし、いざこういうことになった時、どうすればいいのか心の準備のようなものがまだ、彼女にはできていなかった。
カンパニュラの花を手にする。花の一つ一つは掌に収まる程度の大きさだ。それが鈴なりに咲いている。綺麗と言えば、綺麗だが。その色に、まるで纏わりつくような感情――何とも奇妙な――が醸されているようだ。
篠畑にここで連絡をとるのは危険だろう。ここで彼とコンタクトを取ることは事態を悪化させる気がする。それこそ彼の言う『舞台』とやらの上で弄ばれかねない。しかし、このまま放置したってどうしようもない。ならばここは、自分の力でどうにかしろということなのだろう。
若宮はしばし考えてから、まず葉山本人から話を聞くことにした。ふー、とため息をついて気持ちを整えると、大竹が淹れかけたコーヒーを一口飲んで(インスタントならではの非常に淡白な味であった)、若宮は部屋を出た。

第八章 その面影

「俺を信じるか?」
彼は相手の目をまっすぐ見ながら、というより相手の目をえぐる様な鋭い視線でそう問いかけた。
「それとも、世界を信じるか?」
「……!」
捕えられた相手は、突き付けられている凶器と思しきものをどうにか除けようとするのだが、思うように抵抗できず、詰まった息をようやく吐いている状態だ。
「なぁ、答えろよ」
彼の問いかけにも、そのあまりの恐怖から相手はしゃくり上げるばかりだ。
頭上を、帰宅電車がガタゴト云わせながら通り過ぎていく。
冷たい月が見下ろしている。しかし、その月光は高架下の二名に影を与えない。
お互いの息遣いの聞こえるくらいに近づいた目と目。一方は恐怖で引き攣り、もう一方は獲物を捕えんとする肉食獣のようである。そのカニバルは、しかし食欲で動いている訳ではなかった。
「俺は答えに辿り着かなくちゃいけないんだよ」
彼も必死なのだ。しかし、相手が彼の望む答えを言うことはない。否、できない。それには、どうしようもない事情があるのだが―――彼は、ふと目を伏せて、寂しそうに表情を曇らせた。
「……お前は、世界を一緒に憎んでは……くれないんだな」
心底残念そうに、彼はそんな言葉をゆっくりと吐き出す。
それと同時に、相手の胸部に押し付けていた鋭利な凶器を自分の懐に戻した。解放されたと見るや相手は、悲鳴も上げずに逃げ出した。
その後ろ姿を目で追うこともなく、彼は深いため息をつく。
「次の十六夜までは、待ってくれないだろうな……」
夜空を仰ぐと、月ばかりか春の星座も、苦悶する自分を嘲笑っているかのように、彼には思えた。

第七章 正しい紅茶の淹れ方

春の初めの暖かい風が、彼の頬を掠める。彼の足もとには、芽吹き始めた新しい命たち。朝露を受けてしなやかに伸びる、その葉々を邪魔するように一つ、影が転がっている。朝日を浴びたそれは、先刻、ただの肉塊と化した。
逆光を浴びて薄ら笑う彼は、しゃがんで足もとの土の感触を味わった。

――いつか還る場所、か。

彼はこみ上げる感情を堪え、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきでボタンを押す。その電話はすぐに繋がった。
「もしもし、Dr?」
早朝の、ひと気のない公園の隅。彼は世界への憎悪と、相手への敬意を込めてこう言った。
「あなたの宣託は、俺を苦しめるだけだ」

宣託? これはそんな大それたものではありませんよ。
自分を許せないのが他ならぬ自分なら、自分を寛恕せしめるのも、また自分だけではありませんか?
僕は、とうの昔に決め、選択しましたがね。――自分を、解放することを。

二十二話 刹那の灯(一)血

その場に居合わせた女性看護師がすぐに美奈子に駆け寄り、三角巾として使っていたバンダナで美奈子の二の腕をきつく締めあげ、「大丈夫だよ」と声をかけた。それから先ず消毒しようと傷口から溢れる血を拭おうとするが、見た目以上に裂傷は深く、流血がなかなか止まらない。

とっさの判断で、看護師は美奈子に問うた。

「血液型は?」

「AB型です」

「Rhはわかる?」

「……マイナスです」

看護師の表情がひきつる。AB型かつRhマイナスの血液型はこの国では最も少なく、およそ二千人に一人とされている。万が一輸血用の血液が必要になった場合、最寄りの血液センターから血液を取り寄せなければならない。

しかし、この立地だ。奥多摩の自然は時として、人間の営みに立ちはだかる壁となる。そして木内の願いも虚しく、人はいともたやすく人を傷つけることも事実なのだ。

木内の医療用PHSを何度も鳴らすが一向に応答がないため、しびれを切らせた看護師は作業療法士に美奈子を託し、デイケアルームを飛び出していった。

織本が皺の深い両手で美奈子の頬をそっと覆い、「ごめんなさい」と何度も謝るものだから、いたたまれなくなってうつむくのは山下である。川崎はそんな山下を一瞥してから、美奈子に声をかけた。

「ごめん、俺のせいで」

「いえ」

美奈子は気丈に笑ってみせた。

山下に対しては、彼が昨日さんざん智行に痛い目に遭わされたのちに、ベテランの男性看護師がじっくりと話を聞いたはずであった。そこで反省の弁を述べていたことから、木内の判断でお咎めなしとし、今日のデイケアにも参加を許されていた。

それにもかかわらず、この山下という青年は己の未熟さを性懲りもなく振りかざし、あまつさえ人に怪我まで負わせた。いくらここが守られたサンクチュアリとはいえ、人々の優しさの上にあぐらをかいたことは、到底許される行為ではない。

しかしながら、その罪の重さを誰よりも痛感していたのは、山下自身であった。看護師が止血を試みても流血がやまず、血塗れの腕をだらんと下ろした美奈子が、それでも「うん、大丈夫です」と口角を上げてみせている。それに比べて、自分のこの体たらくがどこまでも情けなくて、山下は膝から崩れ落ちた。

「……ごめんなさい」

近くにいたデイケア参加者がようやく聞き取れる程度の弱々しい声ではあったが、彼は謝罪の意を示した。川崎は舌打ちしたくなる気持ちをぐっと堪え、「ランドリールームからバスタオルを持ってくるから、お前手伝え」と山下を睨んだ。山下には従う以外の選択肢はなかった。

ランドリールームで洗濯機を回していた岸本のPHSが鳴ったのはこの頃で、その場での応急処置はこれ以上施しようのない状態であることが伝えられた。まもなく真っ青な顔をした川崎と、川崎の陰に隠れるようにしてついてきた山下が姿を見せたが、岸本は深くを問い詰めることなく、しかし的確な指示を二人に与えた。

「茶色の棚から、バスタオル二枚とハンドタオル五枚。緑のキャビネットから止血帯と消毒用アルコール、コットン、包帯、ワセリン。清潔な水がペットボトルに入ってるから、常温で2リッターを二本。あとラップも」

弱さは、人を傷つける。人は傷つくから弱いのではない。弱さゆえに傷つくのでもない。弱さが、人を傷つけるのだ。

時を同じくして、白い部屋のカーテンで隠された入口から顔を覗かせた途端に看護師と鉢合わせた木内が、彼女の緊迫した表情に面食らった。

「あれ、どうしたの」

「どうしたの、じゃないですよ! なんで肝心なときにピッチ出てくれないんですか!」

「え、ああ。ごめんね、ちょっと事情があって」

「人の命より優先していい事情なんてありますか?」

「え、それどういう意味——」

木内が言い終えるのを待たずに、看護師のPHSに作業療法士から着電があった。迅速に応答した看護師は必要な情報を聞くとさらに険しい顔になり、木内にこう伝えた。

「応急で消毒はしましたが、出血がなかなか止まらないんです」

「えっ」

「高畑美奈子さん、AB型Rhマイナスの女性です。先生、早く!」

看護師から事情を聞かされた木内は、考えるより先に駆け出していた。

その奥に存在する白い部屋で裕明がうっすらとまぶたを開き、天井に向かって手を伸ばしていたことは、誰にも知られない些事である。

「数えなきゃ……」

裕明の口から、トロトロと言葉が零れ落ちる。

「でも……何を、数えたらいい……?」

(丁寧に、数えなさい)

「……何を?」

(あなたが)

「僕が……?」

(今までに葬った人の数)

「……はい」

***

「美奈子ちゃん!」

駆けつけた木内は美奈子の負った傷を見て、すぐに判断をした。

「すぐに処置室へ」

病床をほとんど持たない小さなクリニックに珍しい型の血液は潤沢にあるわけではなかったが、AB型Rhマイナスのストックに木内は心当たりがあった。

裕明である。

提供可能となる十七歳を過ぎていたこともあり、裕明からクリニックへ献血を申し出てきたのだ。誕生日のたび、彼は「何か自分が役に立てるなら」と毎年献血をしてきた。本来ならば、この地域なら立川の献血センターなど設備の整った施設で行うべきことなのだが、彼を奥多摩から出すべきではないと判断した木内が、旧縁を頼って臨床検査技師を雇い、ここで献血を行っているのだ。

技師と看護師たちの仕事は的確かつ迅速であった。この土地、このクリニックで働くことを決断したのは、いずれも木内と岸本を慕っている少数精鋭の医療職だ。彼ら彼女らは、患者の尊厳を軽視しがちな既存の精神科病院での処遇のあり方について強い疑義を抱いている先進的な価値観の持ち主でもあり、木内が全幅の信頼を置いているスタッフである。

処置室のベッドに運ばれた美奈子は、出血の負担と緊張の糸の切断からか、横になるとそのまま眠ってしまった。よほど疲労が溜まっていたのだろう。声をかけても起きることはなく、その顔色はみるみる青くなっていった。

「大丈夫よ、大丈夫だからね」

応答はなくとも、岸本は何度も美奈子を励まし続けた。美奈子の容態を視診した木内は「輸血に際しての不規則抗体検査は可能」と判断し、必要な処置を開始した。

デイケアルームに残された他の患者たちがパニックを起こさないよう、作業療法士や川崎らが「大丈夫、もう大丈夫ですよ」と懸命に皆を落ち着かせる。織本はすっかり落ち込んでしまっていたのだが、彼女を励ましたのは、しかし専門職たちではなかった。

「織本さん、美奈子ちゃんは絶対大丈夫よ」

「もちろんそう信じたいけれど……」

「だって、ちらし寿司おかわりしてたのよ? あんな元気な子だもの、すぐにまた戻ってくるわよ」

織本に声をかけたのは、デイケアに参加していた五十代の女性患者だった。織本はその女性患者の言葉に、はらはらと涙を流した。

「まさか、あなたに助けてもらえるとは、思わなかった。こんなことって、あるのね」

織本が泣きながらそう伝えると、その女性患者ははにかんだ様子で軽く会釈をした。

支援する者と支援される者の間には、本来的には明確な線引きなど存在しない。否、線引きなどしてはならない。人間と人間を隔てるものは、ただ一つ「死」であるし、その「死」でさえも生きることと単純に対極に位置する概念ではなく、生きたその先に「死」が存在するのだ。だから、与えられた命はどんな形であれ「生き抜かなければならない」。なぜなら人間を含めたすべての生き物は、死ぬまで生きるのだから。

いつも傾聴ボランティアとして関わってきた相手から思いがけず励ましを受け、織本は驚きと同時にこのクリニックの持つ信念の根幹――相手をどこまでも信頼する――に触れて、改めて人を信じることの勇気と力を認識した。それはすなわち、このような経験が非常にドラスティックであるにもかかわらず、それを受け止める柔軟さ、しなやかさが彼女自身にあったということを意味する。

「そうね、私が泣くのは、お門違いよね」

織本が涙を拭うと、女性患者は明るい表情で頷き、「洗い物、済ませちゃいましょ」と促してシンクに向かおうとした。そこへおどおどした様子の山下がちらりと視線をよこしたので、織本はこう言葉を投げかけた。

「あなた、もしかしてご自分を憎んでいるの?」

「えっ」

虚をつかれた表情の山下に、織本は畳み掛けるように言葉を続ける。

「命に価値無価値の尺度はないの。だって全部尊いんだもの。あなたはもっとそのことと、自分の寂しさを知るべきよ」

「……寂しさ?」

「寂しさに飲まれては駄目。弱さを言い訳にするのは情けないことよ」

完全に織本のペースに持っていかれた山下は、継げる二の句を失う。先ほどまで目の前で血を流しつつも微笑みすら浮かべていた少女の姿が、まぶたに焼き付いて離れない。

「でも、あなたはまだ若い。いくらでもやり直せるわ」

「えっ」

「こうあらねばならない、なんて抑圧よ。思い込みとでもいうのかしら。それにがんじがらめになって、自分を傷つけなくてもいいのよ」

織本の言葉は、長い人生をたおやかに生き抜いてきた人間のものであり、包みこむようなあたたかさに満ちていた。圧倒的なその柔らかさに、山下の意固地が勝てるわけもない。山下はすっかり下を向いてしまう。

「こんな……こんな俺でも、やり直しなんてできるのかな」

力なくもらされた言葉を拾ったのは、川崎である。

「当たり前だ」

川崎は手際よく食器類を片付けながら山下にこう投げかけた。

「勝手に詰むな。詰むなら勝手にしろ。別に甘えんなとも言わない、俺にそんな筋合いはないし。ただ、お前が本気なら、前向きに考えてやるよ」

川崎は台所用スポンジを手早く動かしながら、一流レストランの厨房という戦場で養った鋭い視線を山下に向ける。

「学歴だとかなんだとか、そういう外付けのステータスの一切通用しない世界だから、覚悟は必要だけどな」

「川崎さん——」

「お前に包丁の正しい使い方を教えてやるよ。『一番弟子』って、めっちゃクールな響きじゃね?」

***

素足で廊下に出ると、真夏にもかかわらずひんやりとした感覚を得た。それでも爪先はじんじんと熱を帯び、一歩進むたびに鼓動は強く打つ。

生きている、いや生かされている。そのことを、誰にどう贖えばいいのだろう。わからない、わからないけれど自分はこうしてここで呼吸をしている。

(数えようか、此岸の夕暮れの虚しさを。そうしてモザイクをかけ続けるんだ、ありとあらゆる生きづらさに。)

処置室では緊迫した空気の中で木内の指示のもとで看護師達が的確に動いたこともあり、美奈子の容態はなんとか安定しつつあった。

意識こそ戻らないものの、疲労ゆえの睡眠だと判断した木内は胸を撫で下ろし、自分以外の医療スタッフに元の持ち場へ戻ってもらい、美奈子の横に腰掛けて深く息を吐いた。

処置室は診察室とは隔離された場所にあるため、直接外の風が吹き込むことはない。それでも木内が頬に空気の流動を感じたのは、「彼」が扉を開けたからだ。

ベットに横たわる彼女の腕に繋げられた管から、彼の血がゆっくりと注がれている。その様を見た彼は、瞠目する木内にこう告げた。

「やっぱり、この子だった」

「裕明、体調はもういいのか」

「僕が最後に手をかけるのは、やっぱりこの子だったんだ」

「それ、どういう意味だい」

「僕の血を使ってるんでしょ」

「そうだよ」

裕明は、その切れ長の両目いっぱいに憂いを湛えながら、口角を上げた。

「その子は、知ってしまうよ、何もかも。もしも耐えられなければ、壊れてしまう」

「え、なに、よくわからないんだけど」

木内の戸惑いにとどめを刺すように、裕明ははっきりとこう宣告した。

「この子は知ることになるんだ。僕が多重人格者にならざるをえなかった原因の何もかもを」

第二十一話 慈愛の罠(七)刃

「忘れ物だ」

開口一番、若宮が木内にそう告げると隣で俯いていた青年がおもむろに顔を上げた。それを見た木内は、思わず息を飲んだ。

「君は……」

若宮が若干あきれた表情で木内を見やる。

「『中途半端』は、お前の一番嫌いな言葉じゃなかったか」

「どういう意味だ」

「そのままの意味だよ。こんな大物ほったらかしにして、何のんびり田舎暮らしエンジョイしてんだよ」

青年——裕明は、木内の顔を目にした途端に、大きな声で

「パパぁ!」

と呼びかけた。

「え?」

「この通りだ」

若宮は鋭い視線を木内に投げつける。

「あの病院にいた医師はみんな匙を投げた。施設のほうも、入所延長措置を放棄したよ。この子は、お前の言うところの『本物の孤独』だ」

「パパ! ねぇパパ、ここは、どこなの?」

崩れ落ちそうになる両足をどうにか堪えて、木内は無邪気に駆け寄ってきた裕明を抱きしめた。裕明は手足をバタバタとはつらつに動かして喜びを爆発させる。

「……ごめんな……」

木内がどうにかそう伝えると、裕明はありったけの力で木内の肩を抱きしめ返した。人格こそ五歳児であるが、あくまで腕力は青年のそれである。

「痛い、いたたた、痛いって」

「えへへー」

木内は裕明の伸びすぎた前髪をかき上げてやると、その無垢な瞳に柔らかく言葉をかけた。

「ここは、お前の家だよ」

「わーい!」

「おかえり、秀一」

***

彼が今両目に灯している暗い燈火は、間違いなくかつての殺人鬼のそれである。彼はためらいなく美奈子の顎に手を添え、彼女に口づけを迫った。美奈子が拒絶すると、彼は短く乾いた声で笑い声を上げた。

「雪、本当に君はかわいいね」

「からかわないでください」

「俺が君の前で、本気以外で生きたことがあったと思う?」

「……」

七日間だけ地上に出て命を燃やすことを許された蝉たちは、もしかしたら知っているのかもしれない。一分一秒とて、命に無価値な瞬間などないということを。無知蒙昧な人間たちに、それを伝えるために、彼らはあんなにも悲壮感に溢れた声を絞り出すのかもしれない。

時折、その悲鳴たちが消える刹那が訪れる。その一瞬の沈黙に彼が油断するのを狙いすましたかのように、美奈子は精一杯の力で彼を突き飛ばし、白い部屋を飛び出した。

やはり蝉たちは何もかも知っているのか——一斉に鳴きやみ、風まで凪いだ。

美奈子が無我夢中に走って廊下まで出ると、あおいが山積みの書類を携えて外来棟から歩いてくるのが見えた。あおいはひどく驚いて、書類ごと小さな体を跳ねさせた。

「あー、美奈子ちゃん! どこに行ってたの? 院長が心配してたよ」

「すみません。私、木内先生に謝らなきゃならないです」

「え、なんで?」

あおいが首を傾げる。

「わかりません」

「なんじゃそりゃ。岸本さんもなんだか元気がなかったしなぁ。今日はそういう日なのかな。仏滅だしね、よく知らないけど」

「あおいさん、私、人を傷つけてしまいました」

「ん?」

「だから、本当は謝らなきゃならないのに、私……」

その場にしゃがみこんだ美奈子が途端にほろほろと泣き出すものだから、あおいはますます困ってしまう。

「あー、えっと、よくわかんないけど、わかんないからまあいいや。こっちおいで、お腹すいてない?」

あおいの問いかけに、美奈子の腹が弱々しく返答する。

「オッケー。今日はデイケアの午前のプログラムでちらし寿司を作ったの。みんなで食べようよ」

しかし美奈子は首を横に振る。

「私に、ちらし寿司を食べる資格なんてありません」

なおも泣く美奈子に、あおいは「もー」とため息をついた。

「じゃあ、ちらし寿司は嫌い?」

「まさか」

「ふぉふぉふぉっ、ではおぬしに、『ちらし寿司検定3級』を授与しよう」

「なんですかそれ」

「ちらし寿司のおかわりが一回まで可能な資格」

「えっ、一回!?」

「今日は割とがっつりと管理栄養士の川崎さん監修だからなー、めっちゃ美味しいだろうなー」

「そんな……」

「ほらほら、悔しかろう」

「2級になるには、一体どうしたら」

「そうだな。じゃあ、あとで一緒に、院長に謝りに行くことを約束しようか」

あおいがニカッと笑うと、美奈子は「ありがとうございます」とこうべを垂れた。

***

「僕、いけないことをしました」

木内と岸本の姿を見るなり、裕明は懺悔をするように、また力なくうな垂れるように頭を下げた。白い壁面に体をだらりともたれかけさせており、伸びすぎた前髪が涙のせいで濡れている。

木内は、裕明に静かに歩み寄った。

「何があったのかは、訊かないよ。裕明が自分で話したいと思わない限りは」

木内がそう声をかけると、その隣で岸本も優しく頷く。それでも裕明の声色はなおも暗い。

「僕、アタマだけじゃなくてカラダもおかしくなってしまったみたい。もう二度と、この部屋から出ちゃいけないんだって、思い知らされたんだ」

「うん、そっか。でもじゃあ、困っちゃうな」

「何が」

「お前がここから出なくなってしまったら、玄関の花たちの世話は誰がするんだい?」

「僕なんかに触れられたら、きっと花たちだって汚れてしまうよ」

木内はいつも裕明が使っているロッキングチェアに腰を下ろした。

「裕明。人間ってそもそも、美しい?」

「……ううん。全然違うと思う」

「だね。自分も同意見」

岸本の、裕明の漸くの破瓜の形跡としての脱衣を手際よく拾い上げた時の「洗濯しておくね」という言葉に、裕明は顔を真っ赤にして何度も頭を下げた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

しかし岸本はゆっくりと、萎れかけた花に水を注ぐような優しさで「謝ることじゃないよ。自分では驚きはしたかもしれないけれどね」と片手で裕明の頭を優しく撫ぜた。

「誰しもが通る道だからね。裕明、あなたの場合、それがちょっといびつな形だった。でも、それだけだよ」

岸本は裕明にそう伝えてから、一度だけ彼の瞳をじっと見つめ、微笑みを残して部屋を去っていった。

『でも、それだけ』。

そっか。それだけ、か。

「なぁ裕明。お腹すかない?」

木内は裕明のすべてを包み込むように声をかける。

「今日の昼ね、スペシャルなんだ。元ミシュラン2つ星シェフ川崎さんプレゼンツのちらし寿司」

――僕は、誰から許されようとしているんだろう?

「ちらし寿司ってさ、仕上げは刻み海苔もいいけど、そうそう、川崎さんから教わったんだけどね、粉山椒をひと振りしてやると、風味がぐっと引き締まるんだって」

僕は、誰に、謝っているんだろう?

「具材はね、奥多摩産の山菜と早採れきのこ。最高じゃない?」

誰に謝っているのか、そんなことすらわからずに、弁解の言葉ばかり浮かんでくる、自分の浅ましさが、本当に嫌です。

(知った顔をしないで。あなたは誰よりも愚かで、誰からも必要となんてされていないくせに、あんな醜態を晒してまで、まだ生きているじゃないの)

「……」

(生きているじゃないの。あなたは、生きているじゃないの)

「うるさい……」

(子守唄なら歌ってあげるよ、地獄で)

「……うるさい……うるさい……」

(堕ちろ、さっさと)

「裕明?」

木内が裕明の異変を察し、素早くロッキングチェアから身を起こすと彼を支えるようにしてその背中を優しくさすり始めた。それでも、裕明の中で沸き立つ過日の悲鳴の残響が彼を激しく責め立てるのをやめることはない。

(助けて、助けて、お兄ちゃん。苦しいよ)

裕明はもたれかかっていた白い壁を、怪我を負っている左手で強く殴打した。そんな様子を木内は決して咎めることなく、懸命に寄り添い続ける。

「深呼吸、できるかい」

「うるさい……うるさい」

「裕明、大丈夫だ。何も怖いくないよ」

(助けてよぉ)

「うるさいっぁぁああああ!!」

時計の秒針、差し込む陽光、吹き抜ける風、何もかもが、何もかもが自分に襲いかかってくる――そんなわけは、ないのだけれど――そんな感覚に陥った裕明の姿を、それでも木内は直視しないわけにはいかなかった。

「裕明、大丈夫だ。僕はここにずっといるよ」

(私たちもずっとここにいるよ)

「黙れ、黙れよ! 黙ってくれよ!!」

「裕明、誰が何と言おうと僕はお前を愛しているよ」

「ああああああーッ!」

木内はたまらなくなって裕明を強く抱きしめた。裕明の苦しみは自分には決してわからないけれど、わからないからといって見捨てることと知ったつもりになるかのことは脈絡がまるで異なることを、よく理解しているからだ。

裕明の中で大合唱が起きている。それは、「彼」に殺された者の悲鳴であったり、「彼ら」を殺した者の笑い声であったり、あるいは全てを生み出し統べる「名もなき戯れ」の嘆きであったりして、どこまでも残酷な不協和音を奏で続ける。

脳とは小さな宇宙だという。裕明のそれは今、あまりにも開かれすぎている。あらゆる痛みや苦しみを飲み込んで、果てなく膨れ上がり、彼の自我をみるみる侵食するのだ。

木内には痛いほどわかっていた。裕明に対して、既存の精神医学というものが何の役にも立たないことは。それでも、そばにいてほしかった——そばに、いたかったから。

彼の前では、医師などではなく、一介の人間としているべきだと思った。木内は裕明がぼろぼろと流す涙を節くれだった親指で拭ってやる。

「そうだね。つらいね」

やがて興奮状態から錐体状に落下させて糸の切れたパペットのようにふつと意識を手放した裕明を、木内はどうにかかかえてベッドに寝かせた。

「恋は極上の劇薬、か……」

裕明の頬には、一筋の涙が伝っていた。

***

「ごちそうさまでしたー」

「美奈子ちゃん、食べっぷり最高だね」

奥多摩よつばクリニックの管理栄養士にして元都心の高級2つ星レストランで修行経験のある川崎弘毅が、感心した様子をみせた。美奈子は誇らしげにカラになった茶碗を掲げる。

「粉山椒のアクセントがいいですね。きのこの風味を見事に引き出しています」

それを聞いたデイケアボランティアの女性、織本が「美奈子ちゃん、食レポうまいわねぇ!」とはやすと、その場が和やかな笑いに包まれた。織本はこの近所で独居している高齢女性で、このクリニックとの出会いによって居場所を得た一人である。

その笑いの輪から一人外れて、終始つまらなそうにちらし寿司をつついている青年がいる。岸本に襲いかかろうとして裕明——いや智行にやり込められた件の大学生、山下一久だ。

自慢の料理を不機嫌につままれてはたまったものではない。川崎は「山下くーん」と声をかけた。

「料理ってね、雰囲気もコミコミでの味なんだ。そんな顔されたらちらし寿司の風味に差し障るんだよね〜」

川崎もまた、都心での競争や足の引っ張り合い、見栄の張り合いに疲れてこの地に活路を見出すべくやってきた一人だ。ちなみに奥多摩クッキーフォーチュンズでは3番捕手を務める。

川崎はポケットから小さな瓶を取り出すと、「山下くんにはコレ、特別にどーぞ」と青年の皿のちらし寿司に粉末を振りかけた。伝家の宝刀、乾燥トリュフである。

「そんな暗い顔してちゃ悲しいな。せっかくのミシュランちらし寿司が泣いちゃうよ」

「……くだらねぇ」

「ん?」

「他のやつらはみんな、ガッコー行ったりカノジョ作って好き放題してんのに、俺はこんな場所でおままごとだよ。ほんと笑えるし」

「おままごと、ねぇ。別にどう言おうといいけどさ、イキるのは自分で炊事家事ぜーんぶ自分でこなしてからにしなよ」

山下は川崎を睨みつけながら黙って席を立つと、シンクの中からまだ洗っていない包丁を粗雑に手に取って「っるせえ‼︎」と喚きながら振り回しだした。

周りのデイケア参加者たちは一様に青ざめてしまう。だが川崎は山下の蛮行そのものよりも、大切な調理道具で人を傷つけようとする行為に怒りを覚えた。

「いちいち説教たらしいんだよ‼」

「調子づくなよガキが。自分が何してるかわかってんのか?」

「わかんねぇよ、何にもわかんねぇ。もうどうでもいい!」

「ふざけんな!」

立腹した川崎が、山下の腹の懐へ利き手と逆の左手で作った拳を躊躇なく突っ込ませる。その衝撃でしたたかに体を壁面にぶつけた山下の手から、包丁が宙を舞って飛んでいく。その放物線の先にいた織本が声も上げられずに目を閉じた――刹那、一つの影がその女性を凶器から護るように覆いかぶさった。

「アッ……!」

織本も、デイケアに参加していた他の患者も、川崎も、山下さえも絶句した。

「美奈子ちゃん!!」

川崎が顔面を蒼白にして叫ぶ。とっさに織本をかばった美奈子の右腕を、包丁がかすめて、彼女は流血していた。

第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛けたまま一編の詩をよどみなく朗読し始めた。

並木の梢が深く息を吸って、

空は高く高く、それを見ていた。

日の照る砂地に落ちていた硝子を、

歩み来た旅人は周章てて見付けた。

山の端は、澄んで澄んで、

金魚や娘の口の中を清くする。

飛んで来るあの飛行機には、

昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。

風はリボンを空に送り、

私は嘗て陥落した海のことを

その浪のことを語ろうと思う。

騎兵聯隊や上肢の運動や、

下級官吏の赤靴のことや、

山沿いの道を乗手もなく行く

自転車のことを語ろうと思う。

「中也の『逝く夏の歌』ですね」

彼が語り終えるやいなや、美奈子はそう答えた。彼は目を細めて風に頬を預けつつ、「さすが、雪は聡明だね」と美奈子に微笑みかける。しかし、それに対して美奈子は凛として言葉を投げ返した。

「私はユキじゃなくて、美奈子です」

「名前とは、そもそも『意味』を成すと思うかい」

「どうでしょうね」

彼は声を上げて笑った。美奈子はまっすぐに彼を見つめている。彼はこちらを試すように冷たい視線を突き刺してくるのだが、それでも、美奈子は怯まなかった。それどころか退く理由がまるで見つからなかった。

私は、今さっきまで、あなたの体温を感じていたんだ。

美奈子と彼は少しの間、沈黙をもって対峙した。二人の間に割り込むのは、蝉たちの喚声ばかりである。美奈子は、渇き切った喉をどうにか潤そうと一度だけ唾を飲み込み、彼にこう切り返した。

「じゃあ、『雪の賦』は?」

すると彼は一瞬だけこちらを射るような視線を送ったのち目を閉じて、やはり余裕すら感じさせる口調で朗々と、中也の詩を口からこぼしはじめた。

雪が降るとこのわたくしには、人生が、

かなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、

大高源吾の頃にも降った……

幾多々々の孤児の手は、そのためにかじかんで、

都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。

ロシアの田舎の別荘の、矢来の彼方に見る雪は、

うんざりする程永遠で、雪の降る日は高貴の夫人も、

ちっとは愚痴でもあろうと思われ……

雪が降るとこのわたくしには、

人生がかなしくもうつくしいものに

――憂愁にみちたものに、思えるのであった。

彼の朗読を吟味していた美奈子は、真剣な表情で一度だけうなずいた。

「幾多々々の孤児の『手』は、ですか」

「雪、これは君の詩だ。俺が一言一句間違えるわけないだろう」

彼はおもむろに立ち上がると、美奈子に軽やかな足取りで歩み寄り、彼女の流れる髪をひとすくいする。それでも美奈子は気持ちを固まらせることなく、彼の挙動と言動をじっと待った。

彼はどこまでも深い悲しみを隠すことなく、まるで中也の詩の続きを紡ぐように「約束したよね」と前置きしたのち、こう告げた。

「俺と君は、必ず結ばれるって」

***

「恵美さんを疑いたいわけじゃないけど、その話は本当なの?」

診察室でボールペンを走らせながら木内が問うと、岸本はうなだれて首を横に振った。

「嘘だったらどんなにかいいかと思う。けれど、現実は現実なの」

「そっか」

木内はマグカップの中の冷えた緑茶を、喉を鳴らして飲み干した。

「ハリー・スタック・サリヴァンは『人間には対人関係の数だけ人格が存在しうる』と遺しているね」

「それが何か?」

「僕は患者さんたちの前では、どんなにありのあまでありたいと願ってもどこかで医師の人格を纏う。恵美さんの前では無防備なおじさんだ。奥多摩クッキーフォーチュンズのキャップをかぶれば、走攻守の鬼になる」

「自分で言うんだね」

「それって、なんでだと思う?」

「えっ」

木内はカラになったマグカップの底を見つめ、そこに息を吹きかけた。

「みんなそれぞれ、守りたいものがあるんだよ。それは間違いない。それが精神病者であれ、医師であれ、ソフトボールプレーヤーであれ、多重人格者であれ」

「……それは、看護師であれ、母親であれ、同じことね」

木内は午前の診察時間の終了を知らせる置時計の秒針が訥々と12時半を指したのと同時に、椅子から立ち上がった。

岸本はほとんど独り言のように、ぽつりと声を漏らした。

「いつかこんな日が来ると……思っていたわ。わかってたよ」

力なく壁にもたれかかる岸本の肩に、木内が優しく手を添える。

「それ、僕も同じ。いつまでも続くわけがないと思っていたし、続いちゃいけないんだってわかってた」

両手で顔を覆う岸本を、木内はどこまでもあたたかく抱きしめる。岸本が泣き始めるのに、ほとんど時間は要さなかった。そんな岸本の姿を見た木内がつらくないわけがない。

それでも、彼は岸本にこんな言葉をかけた。

「恵美さん。けじめって、つけるためにあるんだと僕は思うよ」

***

季節が何度巡り去っても、木内と岸本の胸に穿たれた深い傷を埋めるものなど何処にも存在しない。癒してはならない傷があるということを、この二人が苛烈な悲しみと共に身に刻んだのは、今から十数年前、木内がまだ都心の精神科単科の大きな病院で若くして医局長を務めていたときのことだ。

クリスマスが近いせいか、街全体がどこか浮き足立っていた、そんな時季の出来事。その時のことをつまびらかに語ることはしたくないし、できないとも二人は考えている。

命とはかくも儚く、どこまでも尊く、取り返しのつかない事象がこの世界には満ちていることを二人は理解せざるを得なかった。

いっとき、精神的に不安定になった岸本に、しかし木内は精神安定剤の類は処方しなかった。薬で緩和することは、亡き息子——秀一との思い出もぼやけさせてしまうと判断したからだ。

だが、個人がどんな事情を抱えていようと、世間の預かり知るところではない。そうした脈絡に血が通わなくなって久しいことは、弔事休暇が明けてまもなく、クリスマスイブに岸本に夜勤のシフトが回ってきたことでも証明されている。

精神科病棟には「精神科特例」といって医師と看護師の配置が他科の三分の一でよいとする悪しき決まりがある。そのせいで患者が劣悪な処遇に晒される可能性が高くなるのはもちろんのこと、病棟で働く職員の負担も恒常的に過重となっている。心身に不調を訴え、辞めていく者も続出することは想像に難くない。

開放病棟の看護師だった岸本は、その時の夜勤時、午前三時過ぎに不眠のためにナースステーションへやってきた女性患者に頓服薬を渡した。女性患者は小さく頭を下げ、「これで眠れそうです」と礼を述べて病室へ戻っていった。

あんな小さな錠剤一つで、本当に楽になれるのなら。そんな考えが頭をよぎった。

日勤を終えた木内が帰宅後、激務の後にも関わらずどうしてもその日眠れなかったのは、もしかしたら亡き息子が導いてくれたことなのかもしれない。今でこそ本人たちもそう思えるが、この時、木内は言いようのない悪寒と不安にかられ、ベッドに横になってもどうしても入眠することができなかった。気がつけば、自宅電話の受話器を上げ、岸本が夜勤中のはずである病棟の内線の電話番号を押していた。

電話に出たのは、岸本ではなく、彼女とペアを組んでいる若手の看護師だった。

「こんな時にすみません。もしかして岸本は今、仮眠中ですか?」

「えっと、その」

口ごもる看護師に対し、木内は反射的に唾を飲み込んだ。それはほとんど、勘としかいいようのないものであった。

「なにか、あったんですね」

「なんで、どうして、おわかりに?」

「なにが、あったんですか」

動揺していた看護師は、電話口の木内に気圧されてこんなことを口走った。

「当直の片岡先生が、応急処置はされましたが——」

その言葉を最後まで聞くことなく木内は電話を切り、寝巻きからジーパンとセーターに乱雑に着替え、リビングに放置されていたダウンを椅子から奪うようにして羽織り、岸本のもとへ急いだ。

馬鹿だな、なんて責めなんてしないよ。

そうだよね、そうだよね。

僕だって、そりゃあ死にたいさ。

終電はもうないので、木内はママチャリで夜道をひたすらに速度を上げて走った。こんな姿を大学や病院の同期が見たなら、とんだ無様だと笑いぐさとされたことだろう。けれど、そんなことは木内にとって既にどうでもいいことだった。

前かごには、秀一が乗っていたチャイルドシートがそのまま付いていた。まだどこかで、ひょっこり秀一が帰ってくる気がしてならなかった、好きなポケモンのイラストがうまく描けたと自慢げに、頬を赤くして誇らしげに。

君を守れない自尊心なら、そんなものはいらない。

軽すぎた。あるじを失ったチャイルドシートがクリスマス寒波に凍てつき、何度となく軋みを上げた。この時の木内には、それが秀一の泣き声に聞こえてしまって、だから真夜中の国道をママチャリで激走する木内の両目からは、止め処なく涙が溢れていた。物理的に拭えなかったし、拭いたくないと思った。

ごめんな。守ってやれなくて、ごめんなさい。

抗精神病薬は過剰摂取ではなくとも、思考の抑制や極端な高血糖と低血圧などをもたらし、当然ながら心臓はじめ内臓にも相当なダメージを与える。人によっては疾患そのものではなく、薬剤によってその後の生活に大きな支障を遺すケースも多いことは、あまり社会に認知されていないことではないだろうか。本来必要のない人が飲んでしまえば——たとえそれが苦しみからの逃避を望んでのことだとしても——さらなる苦しみの呼び水となることは間違いない。

意識を取り戻した岸本の視界に、こちらをじっと見守る木内のまだ涙の跡の残るふやけた笑顔が入ってきた。まだ抗精神病薬の副作用が抜けきれていないために明瞭に言葉を発することは叶わなかったが、岸本は懸命に唇を動かして、「ごめんなさい」と発声した。木内は首をゆっくりと横に振る。

「私……看護師失格だよね」

そんな岸本に対し、木内は精一杯強がってニヤリと笑いかけた。

「その理屈が通るんだったら、僕は君のパートナー失格だ」

木内がベッドに横たわったままの岸本の頬に手をあてると、岸本は声を必死に殺して嗚咽しはじめた。そんな岸本の姿に、木内はひどく胸を痛めた。

「泣きたい時くらい、思いっきり泣けばいいじゃない」

「……そんなことしたら、寝てる患者さんたちがびっくりしちゃう……」

木内の手が、今度は岸本の髪をくしゃりとなぜた。

「君は、本物のプロフェッショナルだ」

「……わかんない」

「でもさ、窮屈じゃない?」

木内は処置室の小さな窓から破片のように見える夜空を指さした。下弦の月は、半分しか確認することができない。

「あー、僕もめっちゃ叫びたい。あーとか、わーとか、なんでもいいからもう、あの月に向かって。それも満月がいいな。まんまるいのを拝みながら、うがーって叫びたい」

「なに、言ってるの」

岸本がようやく小さく笑ったのを見て、木内は意を決してこう切り出した。

「恵美さん。ここ、やめよっか」

「えっ」

木内は口笛でも吹くかのような軽妙な口調で、ずっと胸の内であたためてきた提案を岸本に伝えた。

「自然がいっぱいな場所でさ、ログハウスを建てるの。で、そこで小さなクリニックを開くのね。君は看護師長。できるだけ運動神経の良さそうなスタッフも何人か入れたいと思うんだ。クリニックの入口には恵美さんの好きな季節の花を植えよう」

「え、なに?」

「精鋭メンバーが必要なんだよね。僕の長年の夢の実現のためには」

「まさか……」

「チーム名は、恵美さん考えてよ」

木内と岸本は、おでことおでこをくっつけて、それから一緒に泣き出した。互いの涙を交わしても、互いの悲しみがほどかれることは決してない。それでも、二人はずっとそうしていた、そうしたかったから。もしもその宵、仕事中のサンタクロースがその光景を見ていたら、赤面していたかもしれない。

二人はその後揃って病院を退職した。院長には「この先もうお前に出世の余地はないぞ」と脅されたが、木内が「ちょうどいいです」と返したことを、実は岸本は知らない。

都心のマンションを引き払って奥多摩に移り住むにあたって、破格で売りに出されていたログハウスを買い取り、「奥多摩よつばクリニック」を開業しのは、それから半年後のことである。

***

良くも悪くも、昔から滝行や狐払いなどの民間療法が精神疾患の治療の一環として根付いていた土地柄であったためか、メンタルクリニック開業にあたって特段、地元住民などからの反対はなかった。それどころか、近隣(といっても車で20分は離れているが)の老人保健施設や福祉の作業所などから、開業祝いとして地元名産の野菜などをもらうこともあった。

挨拶とお礼を兼ねて岸本がクッキーやマフィンなどを焼いて訪問すると、それが非常においしいとまたたくまに評判となり、奥多摩よつばクリニックと地域との繋がりは、ポジティブかつしなやかな形で生まれることができた。それはもちろん、現在もなお力強く続いている。

開業当初のクリニックは、地域の高齢者、引きこもりや不登校の青少年などが集ってお茶とお菓子をつまみながらおしゃべりを楽しむサロンのようであった。わずか十床というベッド数は、二十を超えると医院ではなく病院とされてしまい手続き等が煩雑であるという理由もあったが、それよりは、利益よりも患者一人ひとりとじっくり真剣に向き合いたい、丁寧な処遇を提供したいとを考えたとき、木内と岸本が「限度」と感じた数なのである。

ある雨の六月、木内の大学時代のソフトボール仲間でその当時、警視庁捜査一課で刑事をしていた若宮が、突然クリニックを訪れた。真っ黒なジャージに身をくるんだ、一人の少年を連れて。

第六章 正義の定義

正義(名)セイ・ギ
【器物損壊容疑の取り調べ時に録音された『彼』の肉声】
「僕は、正義だ。ただひたすらに、自分の正義を貫くだけだ。僕は正義の刑事で、あいつは裁かれるべき殺人犯だった。僕は悪くない。僕が悪いわけじゃない。なぜなら、僕が正義であるからで、この社会に僕という存在を投影した場合、自分の意志に因る部分に依拠して、僕の正義こそが正しいと証明され得るからだ」
「言っている意味がいまいち飲み込めないんだが、要するに罪状に関して否認はしないということだな?」
「何故、今、僕がここに閉じ込められているかと疑問に思う者もいるだろう。それはそれで構わない。ごく自然な発想だとも言える。凡庸な思考回路とも言い換えられるけど」
「認めるんだな」
「そもそも、『閉じ込められている』と言う表現は正しくない。僕は僕を僕たらしめる根拠の一部と同化しているだけ。『拘束された自由』を味わっているんだ」
「どういう意味だ」
「これは確かに僕の意志だ。世界が僕に追いついていないんだ。嘆かわしい事に、僕の理解者はこの世にただ一人しかいない」
「誰だ、それは」
「そう、僕はいよいよ自分の影を失おうとしている。僕自身もまた、見えざる影になるんだよ」
「質問に答えろ。その理解者とやらは何処にいるんだ」
「君にはわからないだろうね……机上の正義しか振りかざせない君には。あの人は到達していたよ、こんな場所より遥か遠くに。そして今度は僕の番だ」
「何の順番だ」
「僕は選ばれたんだ」
「……何の話だ」
「次の舞台が僕を待ってる……こんな場所でいつまでも君と実りのない会話をしている時間はない」
「とても会話になっているとは思えないがな。 葉山。お前、自分が何をしたのかわかってるのか」
「……」
「葉山?」
「……」
「今度はダンマリか。時間を稼ぐつもりだな」
「喉が渇いた。何かないの?」
「お前な、自分の立場くらい理解しろ。麦茶くらいなら持ってきてやるが」
「大竹君、君こそ何もわかってない。君は今、『生かされている』んだよ」
「何だと?」
「君はだいぶ僕の正義に反している。秩序を守ることが、『人間の』正義とやらかもしれない。だが、その秩序が少数という烙印を捺された存在の犠牲によって成り立っているとしても、君はそれを守りたいと思えるかい?」
「いつだってマジョリティが世界を動かしてきた、というのが傲慢だってことくらいはわかるさ」
「犠牲者を『マイノリティ』の一言で片付けてしまうのは、違うな。やはり君はわかっていない。この先もわからないだろう、僕らの苦悩など」
「僕『ら』?」
「麦茶をくれるんじゃないの?」
「ああ、それはわかってるけど、なぁ葉山、お前―――」
「もう一度言う。君は今、『僕ら』に生かされているんだよ。世界と自分との関数が一切失われたその瞬間に、糸は途切れる。認知と現実を繋ぐ細い糸がね。僕はそれを繰る者だ」
「とっくにお前の頭の糸は切れちまってるんじゃないか」
「ねぇ、喉が渇いたってば」
「……わかったよ。今持ってくる。少し待ってろ」
「――あ」
「おい、葉山どうした。疲れたのか」
「大竹君……すごく気分が悪いんだ」
「顔、真っ青だぞ」
「終わらせなきゃ……」
「そうだな。今日のところはもう終わりにしよう」
「違う。君が『終わる』んだよ」