【掌編】漆黒の獣

目の前の花瓶に陽光が通過して、この白い壁面にプリズムが差したところで、きみはその色彩に全く興味を示さない。

僕は、考えている。朝起きてあくびをするとき、この部屋のカーテンを開けるとき、朝食の卵をサニーサイドアップにするとき、パジャマの一番上のボタンが取れかけているのを気にしつつ着替えをするとき、身支度を整えて自宅のドアを開けるとき。

枚挙にいとまがないのでこのへんにしておくけれど、きみのことを、僕はどうしても思考から除外できない。無論、この部屋できみと相対している今なら、なおさらだ。

「テレビをつけて」

きみが懇願するように声を絞り出す。僕は腕時計を見て、今が午前五時半過ぎだと確認した。

「こんな時間に、面白い番組なんてやってるかな?」

それが愚問だとすぐに僕が気づいたのは、きみがこの部屋の隅を陣取る大きなテレビに鋭い視線を刺していたからだ。普段あまり使われていないので、薄型モニタの上部には埃がうっすら溜まっている。

きみがテレビをつけてほしい理由は、「有益な情報を得るため」でも「娯楽やドラマを楽しむため」でもなく、そもそも「番組を観るため」ですらなかった。ただ、「見届けねばならない」という、強烈な焦燥を伴った使命感に突き動かされてのことなのだ。

僕は、きみが望むことならば、なんでも叶えてあげたい。テーブルに放置されていたリモコンでテレビの電源を入れると、きみは画面に正対する位置に移動してソファに身を沈めた。

『そしてですね、こちらの洗剤なんですが、なんと天然のヒトデが素材なので、使用後にそのへんに排水しても、全く問題ありません。とにかく地球にやさしいんです!』
『わあ、環境に配慮しているんですねー』
『はい。弊社は環境保護の観点を重視しております。今日ご案内しているこちら、【ヒトデスプリットマックス】は、なんと10年もの歳月をかけて開発いたしました』
『すごぉい! 10年前なんて、私まだ小学生でしたぁ』
『でも、あらゆる汚れを落とせて環境にもやさしいとなると、ねぇ。商品がどんなに素晴らしくても、お値段のほうが……』
『ご安心ください! 今だけのキャンペーンとして、【効果が感じられない場合は全額返金】させていただきます!』
『えええぇ〜っ!!』

僕は思わず眉間に皺を寄せた。こんな早朝にもかかわらず、どうやらこの番組は生放送のようなのだ。

商品の魅力を捲し立てる中年男性と、フリルのたくさんついたワンピースを着た若い女性が二名、彼を挟む形で猫撫で声をあげている。それともう一人、画面の端に無表情で佇んでいる青年が映っていた。

女性たちのほうは、マシンガントークを続ける男性が【ヒトデスプリットマックス】のラベルのデザインが大人気クリエイターの監修であるとの言葉に、最高潮に興奮した様子をみせている。

僕は、きみがなぜ真剣に、いや剣呑な雰囲気すら纏って、この通販番組を視聴しているのか全く理解できなかった。理解はできなかったけれど、「理解する」というプロセスは、僕ときみとの関係において、常に要請されているわけでもないので何も問題はなかった。

ただ、きみのまなざしから、あまりにも硬直した感情がとめどなく漏れ出ているので、僕にはそれが、とても美しく感じられてしまうのだ。

「知ってる人?」

僕は、画面いっぱいに笑顔を振り撒く女性たちについて尋ねたつもりだった。しかし、きみは画面の端を見切れたり画面外に出てしまったりして一言も発しない青年を気にしているようだった。

【ヒトデスプリットマックス】の価格が画面に表示され、2袋同時購入で5,000円引き、さらに様々なシーンで大活躍する証拠隠滅にお手軽便利な【クライムぱふぇ】がおまけでついてくる旨が伝えられる段になって、僕はふと思い出した。

あの青年は、デビューしてまもなく映画の主演に大抜擢されたものの、監督と反りが合わず、度重なるトラブルの末に撮影現場でその監督を殴ってしまった。主演映画を降板させられ、その後「罪滅ぼし」としてボランティア活動を始めた……確か、そんな報道だったように思う。あの青年は各メディアからあっけなくフェードアウトしたし、その出来事だってもう、何年も前のはずだ。

そんなことより、僕ときみの間には相変わらず、白い箱が置かれている。箱の中身について、きみが質問したことは、これまで一度もない。僕は、できることなら一刻も早くきみに伝えたい衝動を、もうずっと堪えている。箱の中に詰めこまれているのは、天使なのだ。

『これがあれば、どんな汚れも消せるんですね!』
『わたしぃ、たっくさん使っちゃうかもぉ〜』

【ヒトデスプリットマックス】を掲げて恍惚とした表情の男性に、わざとらしく抱きつく女性たち。彼らを凝視する青年の手に、スタジオの照明を反射する金属片が握られているのが、ほんの一瞬だけ映った。

(ここがもし贋作の宇宙だとしても、『愛』とは万能薬なのでしょうか。『愛』が都合よく利用されている事情を憂うと、それが『愛』の否定になるのは何故ですか?)

「わかりません」

(では、訊きかたを変えましょう。『愛』の汎用性や有用性を前提として認める場合、本来どのように敷衍されるべきでしょうか?)

「知りません」

宇宙は、今この瞬間も膨張と縮小を同時に起こしているそうだ。結局、僕たちは、どこにも行けないんだね。

ビッグバンより前には、一体何が在ったんだろう? 何もない、というとそれは「ない」ことが「在る」ことになってしまうけれど、きみは【それ】について、ずっと真摯に心を傾けてきた。森羅万象からさえも排除されたものたちに、一切の見返りを求めない愛を注ごうと。

有限は無限を、必然は偶然を犠牲にしないと成立しない。きみは天使の羽を毟ったから、今この部屋にいる。その罪に罰が伴わないという罪について、僕はどんな罰を添えたらいいのだろう。わからない。知らない。

だから、ずっと考えている。

『お電話は、0120-×××-×××』
『返金対応は、今から30分以内のご注文に限らせていただきます』
『オペレーターを増員して、皆さまのご連絡をお待ちしております。お電話は、0120-×××-×××まで。お急ぎください!』

リアルタイムで、青年の振るう刃が血にまみれていく様子が画面に垂れ流された——のは、たぶん、僕の見間違いだ。

きみには、見えていたんだろう。ビッグバンのずっと前あるいは遥か未来にぽつんと取り残された、唯一の【存在】——漆黒の獣が、青年の姿を借りて咆哮するのが。

寂しいよ。
寂しいよ。
消えることも、できないなんて。

獣の涎が、生放送中のスタジオにざんざん降り注ぐ。生まれたての光と同じ色をしたそれを見て、きみは落ちる涙を止められない様子だった。

僕は、そんなきみをそれでも愛したいと願ってしまう。

きみが初めて白い箱に触れた。反射的に吐息を漏らす僕を、きみは断罪してくれたんだ。

「寂しいのなんて、誰も同じだよ」

箱の中身が、ぶるっと蠢いたように見えたのも、気のせいだろうか。

「そっか。それは、寂しいな」

『なお返金対応は、未使用の場合に限りますので、ご了承ください』