第八話 過日の嘘(一)夕立
先ほどまでの鋭い眼光はどこへいったのか、青年はあどけない表情で自身の両腕を無邪気に美奈子に絡ませてくる。 「ねぇ、おねえちゃんは、ぼくのおともだち?」 「え……」 「あっ!」 青年は目を輝かせて、湿り気のある風の入ってき…
先ほどまでの鋭い眼光はどこへいったのか、青年はあどけない表情で自身の両腕を無邪気に美奈子に絡ませてくる。 「ねぇ、おねえちゃんは、ぼくのおともだち?」 「え……」 「あっ!」 青年は目を輝かせて、湿り気のある風の入ってき…
青年は強引に美奈子の腕を引っ張り、獣のように鋭い眼光を彼女に突きつけた。美奈子の額の汗と血の気とが、一斉に引いていく。 「こんなところに、何をしにきた……」 先ほどまでの透明感のある声とは打って変わって、低いうめき声で青…
青年は美奈子のほうを一切見ることなく、ひたすら鏡の破片を集め続けている。その姿は月夜の浜辺で貝殻を集める寡黙な詩人のようだ。 美奈子が扉のそばで立ちつくしていると、青年は相変わらずうつむきがちのまま、こちらに話しかけてき…
奥多摩よつばクリニックは、消毒液と汗の混ざったような病院独特臭いはまったくしない。それどころか、木造ならではの心地よさをそよ風が助けて、気持ちが安らぐような心地すらする。 美奈子はしばらくの間、入院病棟へと続く廊下の壁に…
「いやー、最後の一球は本当に惜しかった。絶対あれストライクゾーンだったでしょ。あの程度の当たりだったら、僕があと十歳若かったら余裕でキャッチできてた」 「ソフトボールがタイブレーカーじゃなかったら、絶対に逆転してたよね」…
高畑美奈子は「その日」も、自宅最寄りの中野駅からいつもと同じダイヤの下りの中央線に乗り、乗り換えの立川駅のエキナカにあるベーカリー「キィニョン」でお気に入りの焼きカレーパンをゲットし、足早に青梅線を目指していた。青梅線は…
彼は機械的な動きで銀のボウルの中の巨峰を一粒ずつ指でつまみ、隣に置かれた白い皿に移し替える。4秒間で一粒移すのが、だいたいの目安だ。呼吸をまったく乱すことなく、しかしどこか切迫した空気を醸し出しながら、「作業」は行われて…
……かつて愛した貴方へ。私には一切の恐れるものがなくなり、失うものを失い果てて、ついに自由から逃れなくなりました。すなわち、私が残滓であるということを、他でもない私自身が理解してしまい、この薄汚れた殻を破らざるを得なくな…
その夜の南大沢警察署は、悪質な飲酒運転の取り締まり対応に追われたものの、取り立てて大きな事件も起こらずに一日の業務を終えようとしていた。加えてその年は長梅雨ということもあり、軽微な物損事故を起こす車も多発していた。 南大…
豊穣とは、枯れ朽ちる手前のいっときの喜び。祝福された実りを手にする人々にとって、収穫とは、その喜びを分けあう、かけがえのない作業だ。 幼馴染のフレイは、あどけなさの残る頬に土ぼこりをつけながら、僕の家の果樹園の収穫を手伝…