第二章 洗脳の方法

ミズ・解剖医が気だるげに白衣を着替えながら話しかけるのは、一人の迷える仔羊だ。
「つまりは肯定されたいわけね、あなたは。肯定には色々オマケがついてくるから。いい点数、高いお給料、羨望の眼差し。でも誰から? 世界から? 世界は広くて汚いものよ。ミトコンドリアと精子とシュガーマフィンと手垢の付いた宝石で構成されてる。その上に澄み切った風が季節を運んで、雨が時を愚鈍にしているだけ。あなたは、そんな世界から認められたいの? ヒラヒラした服着ちゃって。そんなぶっそうな武器を隠し持っちゃって」
迷える仔羊は、その言葉を咀嚼しようとするが、どうしてもその領域まで到達しないので、取りあえずの返事をする。
「肯定、大切かもなぁ……だってアタシ、ミトコンドリアの色も形も知らないし、いつかは赤ちゃんだって欲しいし、シュガーマフィンは大好物だし、宝石だって欲しいし。よく『人は一人じゃ生きていけない』っていうけど、全くその通りよ。だってあたし料理作れないし、そもそも材料すら知らないんだもの。そうだわ、やっぱり私は肯定されたいんだ。それでいいんですよね? ミズ」
ミズは煙草に火をつけ、その煙をくゆらせながら足を組み直してやはり気だるそうに続ける。
「世界が一つならそれでもいいんじゃない。滅びることはまずないわ。私が解剖しない限り」
それを聞いた仔羊は、嬉しそうに早口でまくし立て始める。
「そうですよね、世界はそれを認知する人の数だけ存在するんですよね。だったらアタシだけの世界だって今、ここにあるんだわ! 何色かしら。どんな色の空かしら。アタシってなんて浅はかなのかしら。ねぇミズ、笑ってください!」
ミズは長いため息をついて、目の前で横たわる仔羊の死体に話しかけるのをやめた。

篠突く雨の降る日、ミズの前に新たな仔羊が現れた。外見はどこにでもいそうな女子高生である。どうやらミズの登場をずっと待っていたらしく、雑踏に紛れた仄暗い研究所の前で、寒さに震えて身を縮こませていた。
用があるなら話しかければいいのに。ミズは彼女を無視してドアノブに手をかけた。するとそれを制するように、仔羊が声をかけてきた。
「真実が知りたいの」
そもそも、生きている人間がこの場所に現れるのは珍しい。というよりも、本来あってはならないことである。ここはミズと死者との最高の儀式の場所なのだから。
「ネットで調べたの、あなたの存在。都市伝説なんかじゃなかった。だってこうして実在しているんだもの。あなたが『ミズ・解剖医』ですよね?」
仔羊の言葉に、ミズはあからさまに不快な顔をした。
「随分と便利な時代になったものね。まぁ、どうでもいいけど。ただ、この部屋には入らせないわ。悪いけど生きてる人間に興味が無いの、私」
「じゃあ、ここでもいいから話を聞いて、お願い」
「嫌。雨は好きだけど今日は強すぎるし、ここじゃ寒いもの」
「すぐ終わるから。質問は一つだけだから」
ミズはわざとらしくため息をついた。
「……手短に」
するとピンクの仔羊は途端に興奮して、ペラペラと喋りだした。
「真実が知りたいの。みんな嘘つきばかり。クラスの奴らも、家族だって、みんな嘘つき。だから、真実が欲しいの。どうすればいい? あなたになら、教えてくれると思って」
ミズはかろうじて雨にぬれない位置で壁にもたれかかると、煙草に火をつけた。
「殊勝なことね」
「え?」
「褒めてるの。方法なんて簡単よ。皆を洗脳すればいいじゃない」
「え?」
「真実を得るためには、世界中回って一人一人にお辞儀しながら、消毒液に浸した手で脳を磨きに行脚しなきゃいけないの。ああ、大丈夫。自分の知ってる世界だけでいい」
「……?」
「でもね、この消毒液には色がある。あなたという色がある。ジブンイロに染まった手で、皆さまの脳をきゅっきゅと洗うの。そうしたら、相手の脳もアナタイロに染まる。そうすれば真実なんて、世界中どこを歩いても存在するようになるわよ。言葉、視線、音楽、ミックスジュース。どのなかにも溶け込むようになる。そんなものよ」
「……えっと……」
「ちょっと待ってて」
そう言うと、ミズは『部屋』の扉を開け、中に入っていった。
取り残された仔羊は、これから何が起こるのかという不安よりも、ミズが自分に応えてくれたことの喜びのほうが優っており、興奮を覚えていた。
雨は相変わらずの勢いで降っている。学校帰りの女子高生は、その制服もすっかりと濡れてしまい、彼女は小さくくしゃみをした。
数分間放置されてすっかり体も冷たくなった頃に、ようやくミズが現れた。
「はい。これが『真実を得る最も手早い方法』。できるものならやってみなさい。ただ、ここに二度と来ちゃいけないわ。わかったわね」
手渡された一枚のメモには、何やら数行の文字が並んでいる。これがどうやら仔羊の欲する『真実を知る方法』らしい。
「あ、ありがとうございます!」
仔羊は何度も頭を下げてから、表情を引き締めて言った。
「あなたのことは、誰にもばらしません」
「ご自由に」
帰宅後、自室のベッドに寝転がった仔羊は、さっそくミズから渡された紙の内容を確認することにした。

用意するもの
・メス(なければカッターでも可)
・抗菌手袋
・睡眠薬(バルビツレート系なら尚良し)

まず、洗脳したい相手に睡眠薬を飲ませる。相手が深く眠ったら、刃物で丁寧に頭部を一周切る。
※この際、その深さは1㎝を超えないこと。相手の脳が見えてきたら、抗菌手袋で脳を丁寧に洗うこと。
※この際、力加減を間違えると脳は潰れてしまうので、優しく洗うこと。以上。

「……なにこれ?」

最注意事項
※真実だけの世界には、確実に三日で飽きる。

「え……」
仔羊は強い戸惑いを覚えつつも、部屋中を漁ってカッターを探してみた。本棚の下から、昔授業のために買ったものが一本だけ出てきた。
こんなもので、真実がわかるというの?
ああ、でも、これが本当ならあいつらを早く洗脳しなきゃ。あいつらさえいなければ、私はちゃんと学校に行けるんだ。
家族だって何もわかってくれない。そっか、まずは家族を洗脳しなきゃ。睡眠薬ってどこで売っているんだろう?薬局じゃ駄目なんだろうか。バルビツレートって何だろうな、あとで、ネットで調べよう。
ああ、早く誰でもいいから洗脳してみたい。洗脳しなきゃ。私が生き残るためには、それしか方法が無いんだ。誰でもいい。誰でもいいから……。

愚かな仔羊に相応しく、残念な事実がある。彼女はメモの裏側までを読むことはなかった。そこには、ミズからの警告という名の重要なメッセージが記されていたというのに。
『たかがあなたの世界一個を私が解剖するのと、他人の意志を奪い人生を勝手に終了させることを天秤にかける重大な愚かさを理解できたなら、今すぐにこの紙を破棄しなさい』
真実だけの世界には、確実に、三日で飽きる。
数日後、女子高生の変死体が都内の高校で発見された。脳天にカッターが刺さり口から血と泡を噴いた状態で屋上で発見されたという。
果たして仔羊は今、ミズの目前に横たわっているのである。
「はじめまして、かしら」
ミズはわざとそう言ってみせる。白衣姿のミズにはメスが非常に似合う。切っ先を子羊の眼球に近づけ、艶やかな唇から言葉を放つのだ。その姿は氷の彫像の如く怜悧で美しい。
「結局あなたは自分をも解剖することを選んだのね。賢い選択だったと思うわよ」
「私はバカです」
「あら、何で?」
仔羊は文字通り死んだ眼をギョロつかせながら濁りきった声でうめいた。
「私はバカです。あいつらならもう、全員洗脳しました。みんな気づいていないだけです。あいつら、入学してからすぐ、私のこと無視したり笑ったりしてきたから、だからもう、そんなことができないように、ちゃんと洗脳してきました。そうしたら、本当にあいつら、いい人になっちゃった。私と友達になってくれた。でもそれが、とても気持ち悪かったんです。もう二度と戻せないってわかったら、怖くなって。だったら自分も自分で洗脳すればいいんだって気づいて、だからあいつらにしたように、同じように頭にカッターを刺しただけ」
「自分がバカだと自覚できていればまだマシなほうよ。それにね」
ミズは白くしなやかな指で解剖室の奥に積んである大きなケース群を指差す。
「『お友達』たちはあなたが来てくれて喜んでいるんじゃないかしら? 彼女たち、ここに来てから、眼を潤ませて口々にこう言ってたのよ。『馬場さんに会いたい』『馬場さんは私たちの大事なお友達だから』って。素人にしては、あなたは素晴らしい腕の持ち主だったのね。ほぼ完璧な洗脳だったわ」
「どういういことよ」
「後追い自殺までしてくれたのよ、『お友達』は」
「そんな……」
「良かったわね」
「い、嫌よ、死んでまであいつらと一緒なんて」
ミズは遺体がワガママを言い出すと、そろそろそ『潮時』と判断する。
「仲良くなさい」
そう告げて、黒いケースの中に仔羊の遺体を収納し始める。依頼人である仔羊の両親からの願いで、いつでも会いに来られるよう、防腐処理を施すのだ。
「待って、ミズ! 私、これからどうなっちゃうの!」
「別にどうにもならないわ。だってあなた、もう死んでるのよ?」
「嫌、嫌、いやあああぁ」
ミズは騒ぎ出した仔羊の声帯を、躊躇いなくメスで切断し、長く溜息をついた。
「こんなつまらない『世間』とやらも……解剖できたらいいのにね」
解剖室内で、賛同の声があがることはなかった。
ここはミズと死者だけが入室を許された空間だ。仔羊は、ミズと出会ってしまった時点で半分死に足をつっこんでいたも同然なのである。
そして今日も、つまらなく凄まじく、かわいらしくおぞましい会話が、あの部屋では繰り広げられるのだ。
「……で? あなたも私に解剖されたいの?」