第二章 洗脳の方法

「……僕が……正義だ……」

話し終えた葉山は、やや興奮状態にあるようだった。彼を落ち着かせるために、ミズは「深呼吸なさい」と助言する。

ミズは、足を組みかえて、ため息混じりに承諾した。

「わかったわ。あなたを『部屋』に案内しましょう」

クリニックのロッカールームの奥に、「ボイラー室」とわざとらしく表示された鉄製の扉がある。これは外とも繋がっていて、外から入る場合は「倉庫」とだけ書かれてある。ミズは朝に受付のおばちゃんから受け取った鍵を突っ込んで扉を開けた。

その中は解剖台が一つと巨大な冷蔵庫、鉄製の箱が数個と机だけという殺風景な部屋だ。

「ここは……?」

葉山がやはり生気のない声で問う。

「私の本当の職場。あなた特別よ? ここは死者と私しか入れない場所。カッコつけて言うなら聖域ってやつ」

葉山は解剖台の上にシートをかけられた遺体が乗っていることに興味を示した。

「この間運ばれてきた女性。あなた、見覚えがあるはずよ」

ミズがためらいなくシートをはがすと、裸体の女性の遺体が現れた。その顔を見た途端、葉山の表情が一変した。別段、死体に対して欲情したわけではない。いくら裸体だからといってそれに興奮するのは、また別の異常な現象だ。そうではなく、葉山は何かに追いつめられたような呼吸で、ミズの前を素通りするとその死体に穿たれている三か所の赤黒い穴を凝視しはじめた。

「あの時の……」

あの時とはつまり、葉山が土竜を射殺した時のことである。彼女は、「あの時」、酔っ払って土竜に暴言……「その一言」を口にして土竜に殺された女性だ。躯体に穿たれた穴が、まるでこちらを睨みつけているようだった。

葉山は徐々に、その目に生気を取り戻していく。ただし、それは決して肯定的な意味ではない。

「お前さえいなければ……」

この女性の「あの一言」さえなければ、全てよかったのに。僕があんな目に遭う事も、先輩を殺すこともなかったのに。

そんな葉山の思いを察したのか、ミズはわざと問うた。

「彼女が憎くて?」
「……当たり前です」
「だってよ、利恵子さん」

ミズは横たわる死体に対して話しかけた。すると利恵子と呼ばれた死体の目がぱっと開き、「あたしは悪くない」と発した。

このとき、葉山には何が起こったのかわからなかった。

「憎いのはこっちよ。なんで私が殺されなきゃいけなかったの」
「え……」

葉山は我が目を何度も疑った。死体が、しゃべっている。

「でも、あなたには感謝しているわ、あのモグラ、処分してくれたんでしょ?」
「利恵子さん。彼はあなたを恨んでいるわ」
「ハァ? なんで? 私、何もしてないじゃない」

利恵子は顔だけ動く人形のようにパクパクよくしゃべる。生前も恐らく口が災いするような性格だったのだろう。かくしてして今、こんな場所にいるのだ。

「馬鹿みたい。モグラなんて地中に埋まっていればいいのよ。ねぇミズ、あのモグラの死体、何処に行ったの?」

葉山の興味がシフトする。そうだ。先輩の行方だ。

先輩を射殺した僕は、そのまま職場へ出頭し、そのまま書類送検になったので先輩の遺体がどうなったのかを知らない。

ミズはあっけらかんとこう言い放った。

「とっくに焼却処分されたんじゃない」
「キャハハ! まぁ、モグラだしね。私にも思い出があるのよ。小学校の時ね、クラスで飼っていたインコが死んだとき、男子が『焼き鳥』とかいってふざけて遺骸を焼却炉に入れちゃったの。今考えればひどいよね」

そんな思い出話などどうでもいい。ミズは葉山の変化に注目していた。葉山の表情はくるくると変化する。興奮したり、落ち込んだり、自嘲したり……憎しみを抱いたり。

「お前さえいなければ……」

葉山は両目に確かな恨みの灯を燈し、ゆっくりと利恵子に近づくと、彼女の首に両手で掴みかかった。

「お前が余計な事を言うから……」

ヒューヒューと乾いた音が部屋に響く。ミズは呆れて葉山を諫めた。

「死体を殺してどうするのよ」

利恵子は首を絞められながらニヤニヤ笑っている。葉山の感情は、利恵子への怒りから自分の内的世界へとシフトする。

「よく聞け……お前さえいなければ、先輩は死なずに済んだんだ」
「無駄なことはおやめなさい。なぜ篠畑があなたをここへ寄越したのか、何となくわかったわ」
「何が連続殺人事件だ。生きる価値もない下劣な奴らが淘汰されただけじゃないか。僕は……いや俺は、自分の正義に則って行動したまでだ」
「『俺』?」
「こんな世界、間違ってる……」
「葉山君、あなた」
「俺こそが正義だ」
「あなたまさか……」
「ナァそうだろ? 葉山」

葉山は自分で自分の名を呼ぶ。やや沈黙があってから、自分自身で

「……そうですね、先輩」

そう答え、一人で会話しているようだ。葉山の表情はこわばったまま、ギロリと利恵子を睨みつけている。

「……葉山君」

葉山は右手で首に手をかけたまま、左手で利恵子の乳房付近の傷口をひっかき始めた。まるでモグラがそうするように。

まるで、あまりにも有名な映画『サイコ』のワンシーンでも見ているかのようだった。彼は、激しいノイローゼから、自分が殺した土竜の人格を自分に投影してしまっているとでもいうのだろうか。

利恵子は尚も笑う、無駄だと言わんばかりに。

「黙れ、お前らのような人間など俺がせん滅してやる」
「もう死んでるわよ」

ミズは葉山をたしなめるように、利恵子をひっかきを続ける彼の手を添えた。

「葉山君。気持ちはわかる……と言いたいところだけど、今のあなたは自分を見失っているわ。彼女が憎い、それだけじゃないわね」

葉山は、今度はミズを睨みながら、尚も土竜に憑依されたように「俺は正義だ」と主張する。

「あなたが守りたいものは何? 自分の立場? 連続殺人犯のモグラの尊厳? それとも事件を解決すること?」
「正義だ。俺自身のただ一つの正義だ」
「正義、ねぇ……。随分と抽象的な話がお好きなのね」
「難しくなどない。俺は生き続ける、正義の意志となって」
「正義なんて、各々の勝手な信念という名の責任放棄よ。私は、モグラじゃなくて、あなたに訊いているの、葉山君」
「違う……あんな奴は……」
「現実を見なさい。あなたは葉山大志。それ以外の誰にもなれ得ない。自分以上でも以下でもない」

葉山の眼球がぐるりと回り、今度はミズを睨みはじめる。

「誰もわかってはくれない……」

そう呟き、懐から銃を取り出した。一度書類送検になった身分とは言え、葉山は警視庁のキャリア組の刑事だ。葉山は銃口をミズに向け、呻いた。

「俺の正義に反するなら、アンタの世界もここで終わらせてやろうか」
「……強いストレスによる一過性の解離性ヒステリー、とでも、篠畑なら診断するのかしら」

ミズは銃口に応戦するかのように、流麗な所作でメスの切っ先を葉山に向けた。

「……」

しばらく二人は対峙し、重苦しい沈黙が続く。

ミズは、葉山にかかるストレスが彼のキャパシティの限界をとうに超えている事を知りながら、いや知っていたからこそこんなことを言いだした。

「私が、許してあげるわ」
「……何だと?」
「許してあげるって言ってるの。あなたがモグラを殺したのは何の罪でもない。ただ法的に『器物損壊』という名がついただけであって、モグラの命を奪ったことは、何も悪くない」
「……」

『何も悪くない』という言葉が、葉山の脳をしたたかに直撃する。

「あなたの取った行動は刑事として当然のこと。それこそ私から言えば一般的な『正義』に則った行動じゃないのかしら」
「俺は……」

葉山は銃を持った手を力なく下ろすと、その場でしゃがみこんで頭を抱えだした。銃は床を跳ねてミズの足元に転がる。

「う……ううう……」

彼は完全に混乱している。利恵子は「キャハ!」とまた笑った。ミズは葉山に尚も言葉をかける。
「あなた、さっき自分を解剖してほしいと言ったわね。悪いけどけどそれは無理。私がメスを刺せるのは死者にだけだから。あと私、あまり生きてる人間は得意じゃないの」
「残念ね!」

ミズは携えたメスを、利恵子の喉元でサッと動かした。利恵子の声帯がばっさりと切断され、だらしない女はようやく沈黙する。

葉山は自分の犯した行為の罪悪感に押し潰されそうになっている。自分を守るために、自分が「土竜になる」ことで、どうにか精神を守っているのであろう。

しかし、それでは根本的な解決にはならない。葉山は現実を受け止め、生きていかなければならない。モグラが刑事になり、死体が喋る。そんなふざけた世界で彼が生き続けて苦しみを身に刻むことが、結果的に彼を救うことになるのである。

だが、そんな正論を今の彼に理解しろというのは酷なことである。そして恐らく不可能だ。

「あああっ!」

葉山は叫び声を上げると同時にミズに掴みかかった。そして彼女の右手にあるメスを自分の喉元に力づくで宛がう。

「僕が死ねばさぁ」

葉山の息遣いが間近に聞こえる。ミズは敢えて抵抗しない。いざとなればどうにでもなるといつでも「覚悟」なら決めているからだ。

「僕が死ねば、アンタが解剖してくれるんだろ? 正義とやらもこんな世界も何もかも!」
「そうね。あなたが死体ならね」
「だったら今すぐ……」

葉山は自分の力で喉元のメスを動かそうとした。だが一時的なヒステリーからくる人格の揺らぎのせいだろうか。葉山は力んでいたかと思えばふっと全身の力が抜け、今度は床に崩れ落ちた。

「なんで……」

葉山は自分の両手をじっと見つめながら、

「……っ、ううう……」

泣きだしてしまった。嗚咽はしばらく続いた。ミズはその様子を、椅子に腰かけながら蔑むような目で見ていた。

自分の罪を自覚した者は自身の命のみならず、他者の命も軽視しやすい傾向にある。「自分は罪を自覚した」ということを免罪符に、こじつけ、あるいは勘違いを陶酔して罪を重ねる者がほとんどだ。

しかし葉山は違った。どこまでも自分の罪に苛まれ、元来の正義感の強さゆえ意志が折れかかっているのであろう。同時に、自分自身が「モグラ」に支配されることで罪の意識から逃れようという葛藤をしたといったところだろうか。

「でもそれじゃ、何の解決にもならないんですよね」

ポツリと葉山はこぼした。ミズは別に、彼に救いの手を伸べるつもりでこの部屋に呼んだわけではない。ただ、ありのままを受け止めろと、現実を見せつけただけだ。それが彼を救うか否かは問題ではない。

「篠畑……あの変態と私が唯一、一致している考えを教えてあげる」
「……え?」
「問題とは、すべて解決すればいいというものではない」
「どういう、意味ですか」
「謎は謎のままでいいって意味」
「……」
「あなたがこの先どうなるのかは、申し訳ないけど興味がない。私、生きてる人間が苦手って言ったけど、本当は怖いのかもね」
「怖い?」
「そう。ま、どうでもいいことだけど」
「……」
「医師として進言させてもらえれば、あなた、一時的とはいえ精神的にかなりキちゃってるから、ちゃんとメンタルクリニックとかに通った方がいいわよ」
「……はい」
「あ、でも決してあの変態にだけは診られちゃダメよ。あなた、格好の玩具にされることが目に見えてるから」

葉山はようやく立ち上がると、頭を深々と下げた。

「あ、あと大丈夫だと思うけど、この場所のことは――」
「誰にも話しません」

ミズは少しだけ口角を上げた。「彼」の言葉なら、信じてもいいだろう。葉山が扉を開き、部屋から去っていく。ロッカールームを抜け、長い「診察」は終わった。