第三章 さようならだけはいわないで

その翌日、明け方まで資料を作っていた若宮は、眼の下にクマを作ってしまった。事務的な手続きを手早く済ませ、約束の時間より5分ほど遅れて『拘束された自由』の空間に足を踏み入れた。

篠畑は新聞を読みながら足を悠然と組んで待っていた。部屋中にコーヒーの香りがする。

「おはようございます」
「おはようございます。君が遅刻だなんて珍しいですね」
「ちょっと、手続きがまごついて」
「へぇ」
「先日お伝えした事件の資料です。どうかお読みになってください。さっそくですが、所見をいただきたいのです」
「それは全然構いません、が」

逆接で終わった篠畑の言葉が、若宮は妙に気になった。

「その前に、君に訊きたいことがあります」
「なんですか」
「寝不足ですね? クマはちゃんとコンシーラーで隠すべきです。若い女性が、もったいない」
「そんなこと今は関係ないじゃないですか」
「僕の直感は結構当たるんですよ」
「何がおっしゃりたいんですか」
「君は何か忘れている。重要な何かを。それを自分でも実はわかっている。けど思い出せない。違いますか」
「え、え?」

篠畑は苦笑しながら、今もらったばかりの資料をくるくると丸めてしまった。夜を徹して作った資料をぞんざいに扱われ若宮は腹が立ったが、寝不足には勝てず、怒りがしぼんでしまった。

「表情を見ればだいたいわかりますよ。そうですね、例えば、誰かに何か頼みごとをされたとか」
「あ!」

若宮はこの時、今日初めて葉山からの手紙のことを思い出した。悔しいが、篠畑の言うとおりであった。彼の直感とやらは何故かしら当たってしまう。篠畑の底の知れなさの所以の一つである。

「葉山警部補からお手紙です」
「ほぅ。あのキャリア組の若手さんですね。僕に手紙? 今どき面白い方ですね」
「先生に会いたいと言っていました」
「どれどれ」

篠畑は封筒を手でちぎり、中にあった便せんを広げた。そして凄まじい速さで読みえると、手紙を折り戻した。

「……若宮君」
「はい」
「彼に会わせてください」
「えっ」
「筆跡、文体、そのどれを取っても、彼が一種のノイローゼであることは明白です」
「ノイローゼ?」

そんな風には見えなかった。が、篠畑の判断が誤りであることは滅多にない。

「君もこれ読みますか?」
「いいんですか?」
「そもそも君に託している時点でOKと受け止めていいはずです。それに、気になってるでしょ?」

図星である。若宮は、篠畑から手紙を受け取って、その場で読み始めた。

 

見えざる影 様

突然のお手紙という非礼をお許しください。

世界というのは、知的生命体が認識する数だけ存在すると言われていますが、今の僕にはそれが途方もなく恐ろしいのです。もしかしたら、僕の世界だけが、他の世界と齟齬を起こしているかもしれないのです。僕は自分が何に苦しんでいるのかわかりません。ただ、不安と焦燥は日々積もり、このままでは自分はどうかしてしまうのではないかと思っています。どうか一度、僕と会ってください。そして僕を救ってください。お願いです。

葉山大志 拝

「……」

若宮はショックを受けた。至って平穏に見えた彼が、内面でこんな葛藤を抱いているとは思わなかったからだ。

「わかりました……彼を連れてきます」
「いえ。彼をこちらへお招きするだけで結構です。第三者はいない方がいいでしょうし」

第三者とは、つまり若宮のことだろう。橋渡しをしたのに部外者扱いとは少々不服だったが、確かに他に誰かがいる時に、自身の内面というデリケートな話はしづらい。

「じゃあ、連絡しますね」
「ええ。ぜひ、彼を救いたいと思いますので」

篠畑の言うところの『救い』が、どのような結果を招くかなど、その時の若宮にはそこまで思い至る余裕が無かった。