「――、おはよう」
彼女の記憶から唯一欠けているものがあったとしたら、それはきっと彼が呼ぶ彼女の名前だ。
名前そのものを忘れたわけではない。あの人が彼女の名を呼ぶその声が、どうしても思い出せないのだ。
「……おはよう」
寝起きでぶっきらぼうにそう言う彼女の頭を、彼――保坂晃は、ぽん、と叩いて、
「素っ気ないね」
と言ってニヤッと笑った。保坂はエプロン姿で卵を片手に持っている。どうやら朝食の準備をしてくれているらしい。
「全然似合わないね」
と、彼女は彼をからかう。
「ありがとう」
「褒めてない」
「ありがとう」
保坂は飄々とそう答えると、鼻歌交じりに台所へ去っていく。料理をする保坂の後ろ姿を、彼女はボーっと眺めている。保坂の細長い指が器用に箸を操り、片手で卵を割り、絶妙な塩コショウ加減を生み出す。
「シェフにでもなったら?」
彼女はなんとなく呟いた。
「そうだね」
保坂もなんとなく答える。このいい加減さが、まさに「よい加減」だった。
「昨日も遅くまで論文と格闘してたんだろ。食事はちゃんと摂らなきゃね、ミスの名が泣くよ」
「それ、やめてって言ってるじゃん」
「はは」
一年前の学園祭での、あれはアクシデントだと思った。元々興味の無かった学園祭の、彼女は主役に祀り上げられたのだ。
所属していたゼミが、どうしても学園祭に店を出すということで、嫌々その焼きそば屋の店番をしていた時だった。解剖学専攻のゼミが作る焼きそばなんて、何が入っているかわかったもんじゃない。自分が何をするわけではないが、いささか変人の多いウチのゼミのことだ、誰かは何かをやらかすだろう。
――例えば、豚肉じゃなくてカエルを使うとか。
いわゆる有効利用ってやつだ。
彼女は、祭にしては閑散とした中庭の一角で暇を持て余していた。ちっとも繁盛しやしない。ちら、と腕時計を見た。店番交替の時間まであと五分。あーぁ、と彼女はあくびをした。はばかることなく大きくあくびしてやった。
その時だ。ゼミ同期の女子が息を切らしながら駆け寄ってきた。
もう交替してくれるとか。ラッキー、と彼女は内心で呟いた。
「今年のミス・白零が決まったってさ!」
「は?」
(なんだ、そんなこと。どうでもいい)
彼女は、あきれた口調でこう言った。
「店番、変わってよ。もう退屈なの。焼きそばだって冷めちゃったわ」
「そんなこと言ってる場合? ミス・白零さん」
「……は?」
ゼミメイトの佐伯愛子は意地悪い声で、とんでもないことを言い出した。
「いや~、おめでとう」
「ちょっと佐伯、それどういう意味?」
「どういう意味もなにも、そのままの意味よ」
彼女は一瞬、頭が真っ白になった。佐伯に引っ張られるまま、彼女は中庭の中央に設えられたステージに上った。まだ、頭が真っ白だった。
当然何の準備もしていない。水色のTシャツにジーパン。化粧だって眉毛を書いてる程度だ。
「今年のミス・白零です!」
学園祭実行委員の司会者が、高らかに彼女の名前を呼ぶ。「ミス・白零コンテスト」は、そんなに人の集まらない学園祭の、それでも目玉企画だ。拍手と同時に、少々のやっかみと祝福が混じった複雑な歓声が起きる。
彼女はめまいを覚えた。何が何だかわからないうちに、商品の図書カードを渡されて、手作りと思われる賞状を渡されて、企画は終了した。
「続きまして、カラオケコンテストでーす!」
司会の明るい声は、彼女の退場を促していた。流されるままに彼女は壇上から降りる。周囲の微妙な温度の視線が鬱陶しかった。
「すごいじゃん、やったじゃん」
佐伯がやはりからかうような口調で言ってくる。
「どういうことなの」
「さーね」
「佐伯、あんたの仕業ね」
だが佐伯はいや、とそれを否定した。
「私がそんな気の利いたことすると思う?」
「余計な御世話、の間違いでしょ」
「まぁまぁ機嫌、直してよ。せっかくの王子様の努力が報われないわよ」
「王子様?」
訝しげに問うたのだが、佐伯はニヤッと笑って、
「邪魔者は消えますわ」
そう言って店番のシフトに入ってしまった。元から身の置き所に困るような学園祭で、却って店番をしていた方がまだ落ち着いたというのに。
ざわめきの中で少々疲れて立ち尽くしていると、彼女は後ろから声をかけられた。
「――」
名前を、呼ばれた。振り返ると、そこにはゼミ同期生の保坂晃が両手にフライドポテトを持って立っている。
「あ、保坂」
「やぁ、ミス・白零」
彼女は怒りと恥ずかしさと戸惑いとで、思わず一瞬だけ保坂を睨んでしまった。
「その呼び方、やめて」
「どうして? 名誉なことじゃない」
「ふざけないで。とんだ恥さらしだったわ」
「もっとオシャレをすべきだったね」
「そういう問題じゃない」
「ポテト、食べる? 河野ゼミの奴らの。油っこくて、まっずいの」
「そんなの勧めないでよ」
「俺が自分で作った方がまだ美味くできるね」
「あ、そ」
涼しい顔で保坂はフライドポテトを次々に頬張る。まずいという割には食べっぷりがいい。
彼女は、店番ばかりで朝から何も食べていなかったことを思い出して、急にお腹が減ってきた。
「図書カードあげるから、そのまずいポテトちょうだい」
「等価交換じゃないな。ポテトに過大評価だね」
「いいからちょうだいよ」
「はいはい」
保坂は紙コップに入ったフライドポテトを彼女に手渡した。彼女は礼も言わずに一本、口にする。それは、思ったよりは美味しかった。もう少し温かかったら、もっとマシな味だっただろう。空腹を埋めるため、彼女はそのまま三本続けて食べた。その様子を、保坂は満足げに眺めている。まるで観察されているようだが、悪い気はしない。
「……あ」
彼女は気づいたことを、そのまま口にした。
「王子様って、まさか」
「王子様?」
「さっき佐伯が……」
口ごもる彼女に、保坂は笑い声をあげた。
「陳腐な比喩だねぇ、佐伯の奴も」
「じゃあ、まさか保坂が?」
「俺が、何?」
意地の悪さなら佐伯より保坂の方が数段上だ。保坂は彼女の口から「言わせたい」のである。彼女も意地っ張りだ、そう簡単に相手の意図には乗らない。だが、
「ミス・白零。いや……、――」
再び名前を呼ばれた瞬間、周囲の雑音が消えた気がした。保坂の唇が確かに、自分の名前を辿っている。それだけで彼女の感情のメーターは振り切れそうになる。
「王子、さま?」
呟いた刹那、彼女は保坂に笑われるだろうと覚悟した。赤面して俯く。だが、次に彼女の予想していなかった言葉が保坂の口から聞こえた。
「はい。正解」
「……は?」
「『は?』ってのが、まったく君らしいよ」
苦笑しながら、保坂は彼女の髪を優しくなでた。