「佐伯……なんで……」
個室の中で押し寄せる吐き気を解消してから、彼女はフラフラになりながら研究室へ戻った。
ドアを開けた瞬間、鋭い視線が彼女に突き刺さった。ゼミ生たちが一斉にこちらを見てくる。
「え」
彼女は凍りついた。佐伯の『遺書』らしきメモを、中の一人から渡されたのだ。
そこに並んでいた言葉に、彼女は吐き気以上の衝撃を受けた。
『ごめん。あんたのこと、好きだった』
それは、決して友情としてではなく、純粋な慕情として。その「恋心」は、佐伯をそこまで追い込んだというのか。
(……なんで謝るのよ)
「佐伯を追い詰めたのが自分だなんて、思わないことだよ」
最初に彼女に声をかけたのは、保坂だった。保坂は沈痛な面持ちで彼女に歩み寄る。
「本当に、君たちは、仲が良かったからね」
「……やめてよ」
「誰も君を責めてないよ」
嘘だ。だったらその視線は何だ。このメモをわざわざ自分に見せる必要などあったのか。
「泣かないで」
悔しかった。保坂の優しい言葉もすべて嘘に聞こえる。何より、涙を易々と流してしまう自分が悔しかった。
彼女の懸命の処置も虚しく、佐伯は搬送先の病院で死亡が確認された。
荼毘に付される前の晩、彼女はようやく佐伯の遺体と面会が叶った。いや、覚悟ができたという言い方の方が正しいのかもしれない。本当に死んだなんて、信じたくなかった。
雨が降っていた。すっかり憔悴しきった佐伯の母親は、それでも気丈に彼女に応対した。母親にメモの存在は知らせていない。彼女はただ、生前一番仲の良かった親友として、会いにきた。
母親は涙ぐみながら、
「この子もきっと、喜んでるわ」
「……」
彼女は何と言っていいのかわからなかった。しばしの沈黙の後、絞り出すように、
「二人きりに、させてください」
そうして、いよいよ彼女は佐伯の顔にかけられた白い布をとった。死んでいるなんて信じられないくらい、きれいな死に顔だった。――首に青黒い痣が残っている以外は。
「……なんで……」
もう涙は出てこなかった。吐き気もしなかった。ただ、今度は虚無感が襲ってきた。
「何が?」
一瞬、彼女の時が止まった。何が起きたのか、わからなかった。
「よく来てくれたね」
??、!?
「燃やされる前にさ、どうしても伝えなきゃって思ってた」
「……アッ!!」
「でも、あんな事知ったら、もう会いに来てくれないかと思った」
「あああっ」
「よかったよ、『サイゴ』に会えて」
「佐伯……ッ?」
しゃべっている。死んだはずの佐伯が、しゃべっている。瞳孔は完全に開ききっている。血の気の失せた唇から、それでも言葉が発せられている。
「あ、あ」
誰か呼ばなきゃ。
「無駄よ。誰も信じちゃくれないわ」
「どういう、ことなの」
それは、いつかの学園祭を彷彿とさせるフレーズだった。ただし、その持つ温度はまったくの別ものであった。
「私にもよくわからないけど、あんたには通じるってことはわかってる」
「……」
「真実を知ることがいつも正しいとは思えない。だけど――」
佐伯は不自然に『ひと呼吸』を置いてから、
「あんたには本当のことを教えなきゃって。これは私の最後のワガママ」
「何、何なのよ」
「私ね、殺されたの」
「え!?」
「――保坂に」
「ちょ、ちょっと待って、佐伯、どういうこと!」
「……確かに、伝えたよ」
それきり、佐伯は何もしゃべらなくなった。少しの間余韻のようにヒューヒューと空気の抜ける音が聞こえていたが、それもやがて消えた。
佐伯は、保坂に殺された。
「まさか……そんな」
彼女は、自分が絶望の淵から絶望の淵へと渡り歩いているような錯覚を覚えた。
その日の夜は一睡もできなかった。死者としゃべってしまった、それがたとえかつての親友であれ、底なしの恐怖感が彼女を襲った。だがそれ以上に、強い疑惑が彼女の思考を縛りつけた。
保坂が、佐伯を殺した? そんなはずない、そんなはずは―――