翌日、夕方にひどい頭痛とともに彼女は体を起こした。何も喉を通らなかった。気づいたら、ふらつく足取りで彼女は保坂のアパートの前に立っていた。
『真実を知ることが、いつも正しいとは限らないけど』
佐伯の『最後』の言葉が脳裏に焼き付いて離れない。ここで真実を暴くことは、自分に『遺書』のメモを突き付けてきた奴らと大差ない。それでも、知りたかった。否、知らなければならないと思った。
「やぁ」
保坂は相変わらず飄々とした笑顔で彼女を出迎える。部屋の中に入っても、彼女は心ここにあらず、といった感じでヨロヨロとベッドに腰かけた。保坂がインスタントコーヒーを勧めても、口にする気になれない。
外は夕暮れ時だが、厚い雲が空を覆い今日も薄暗い。カーテンから入る光もわずかで、お互いの顔をようやく浮かび上がらせる程度だ。
「顔色悪いよ。ちゃんと眠れたの?」
「……」
「もうすぐ解剖の実習始まるだろ。体調、整えないと」
誰のせいだと思ってるのよ。余計な言葉を飲んで、彼女は単刀直入にこう切り出した。
「佐伯がね、あなたに殺されたって言うの」
「……何を言ってるんだい」
「嘘よね。ねぇそうでしょう」
「本当に、疲れているみたいだね。よかったらこのまま休んでいくかい」
「嘘だって言って」
「落ち着くんだ。親友があんな形で亡くなったショックはわかるけど―――」
「嘘だって言ってよ!」
珍しくヒステリックに叫ぶ彼女に、しかし優しい声をかけるでもなく、保坂は『対象を観察する』ように見た。
「君が、そこまで感情的になるなんて、初めてだね」
違う。求めているのはそんな言葉じゃない。
「佐伯がそんなことを言う訳ないだろう」
そうだ。佐伯は、死んでいるんだから。しゃべるわけがない。私は、錯覚を起こしたのか?幻聴でも聞いたというのか。
彼女は彼の次の言葉を待った。『何もしていない』という言葉を保坂の口から聞きたかった。だが、保坂は何かをひどく抑圧したような声色で、言った。その一言は、彼女を絶望どころか奈落へ突き落した。
「――なぜわかったんだ」
「……!」
純粋に疑問に感じたらしく、保坂は不思議そうに訊いた。
「もしかして本当に佐伯がそうしゃべったのかい? まさかね」
彼女の中で、思考回路が混線を始める。
(何を、言っているの。あなたは一体、何を言っているの)
「そんなわけ、ないもんなぁ」
目の前にいるのは誰だろう。ゼミでいつもちょっかいを出してきたあのウザい保坂か。学園祭に便乗して想いを伝えてきた気障な保坂か。自分より早く起きて似合わないエプロン姿で朝食を作ってくれる保坂か。
――あなたは、誰?
「困ったな、君にだけは知られたくなかったのに」
そう言う保坂の表情からは、しかし焦りや戸惑いは読み取れない。むしろなぜ彼女が自分の行為を知っているのか、好奇心すら感じさせるほどだ。
「君は不思議な子だよ。泣き顔は相応しくない」
まただ。また彼女は泣いてしまっていた。こんな時に流す涙になど、意味が無いというのに。自分の弱さを露呈するだけだというのに。
「君を守れるのは、俺だけだ」
その言葉が、全てを物語っていた。
「……――冗談じゃないわよ」
彼女は迸る感情に任せて、言葉を吐き出し始めた。
「それが殺される理由になるなら、 やっぱり佐伯が殺されたのは私の所為じゃない」
「自分を責めても、らちは明かないよ」
「それはあなたが言うべき言葉じゃない。あなた、自分が何をしたかわかってるの!?」
それを聞いた保坂の表情が、静かに翳っていく。彼女は恐怖と怒りとで、肩で息をしていた。湿った静寂が部屋に落ちる。
重苦しい沈黙を破ったのは、保坂のこんなセリフだった。
「――、愛してる」
あまりに陳腐で的外れな言葉に、彼女は虚を突かれた気分になった。
「――、君のことを愛しているよ」
「やめて……」
「――、ねぇ――、君はどうなの?」
その声で、私の名前を呼ぶのはやめて。怖い。気持ち悪い。嫌だ。
「――……」
「いやぁっ!」
彼女は、徐々に近づいてくる保坂を渾身の力で突き飛ばし、アパートを飛び出した。
雨はかなり強く降っていた。化粧などとっくに落ちている。スニーカーのかかとを踏んだまま、全力で走って逃げた。あとからあとから込み上げてくる恐怖を、必死に抑えた。しゃくりあげる声と乱れた呼吸とが混じって、
せっかくの美貌が台無しの顔だったが、そんなことはどうでもよかった。
自分のアパートに戻った彼女は、憑かれたように必死になって、ドアの鍵をかけてチェーンを何度も確認した。
そしてそのまま玄関先に倒れ、心身ともに及んだ強烈な消耗感から泥のように深い眠りについた。