第六章 正義の定義

 とある晴れた日。晴れ過ぎた日。釈放された葉山大志は、嫌味なくらい爽やかな朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。
(―――ああ、土の中じゃ味わえねーな)
まだら様に変容する自分の思考を、彼は制御することができなくなっていた。
(俺は……俺は、僕で。僕はあの人を殺したけど、でも……俺は! ここにいるじゃないか……。だから、俺は……僕は、誰だ?)
(俺は、僕で。僕は、あの人を殺したけど、あの人は、俺だ。だから……僕は、誰だ?)
彼はこみあげる感情をかみ殺すのに必死だった。今すぐにでも全力で走りだしたかった。しかし、そんなことをすれば『壊れて』しまうことは自明だったので、彼はムズムズする頭をやや乱雑に掻いた。
「はは……ハハハ……!」
かすれた笑い声が空気に溶けてゆく。それからしばらく、久々の自由を謳歌するべく歩き回っていた葉山だったが、突如として強い疲労感に襲われた。立っているのがやっとなほどに、精神的に激しい消耗をしたらしい。
ややあってから、大通りから一本入った場所にある小さな公園で、彼は祈るような、まるで不自然な姿勢で力なくベンチに座っていた。
「俺は……」
どこにも届かない言葉、それは欺瞞にすらならない、独善という名の苦悩。
「僕は……」
言いかけて、喉の奥から熱がこみあげてくるのを彼は感じた。
(違う。何かが、違う。……何が、違う?)
目を閉じても逃れられない自意識は、しかし湖面の泡のように呆気ない。
「大丈夫ですか?」
早朝ランニング中の壮年男性が、ベンチの葉山に声をかけた。
「具合が悪そうですね」
「……」
「大丈夫ですか?」
「……」
葉山はゆっくりと顔をあげた。壮年男性の履いているランニングシューズについた泥と朝露をじっと見つめる。
「あ……」
葉山の脳内に、パズルピースのようにカチリと嵌まる言葉が祝福と共に降ってくる。
(――『君は、選ばれたんですよ』――)
「……ええ、大丈夫です」
葉山は至って柔和な笑みを浮かべた。壮年男性はホッと胸を撫でおろす。
「それはよかった」
「――僕に、ヒントをください」
「え?」
瞬転、葉山の手元が素早く動き、鋭利な3本の爪状の凶器が男性の胸元に突き刺さった。葉山の方へ倒れこむ男性。返り血を浴びた葉山は、しかし苦悩に顔を歪ませる。みるみる冷たくなっていく男性の体温に、虚しさしか感じなかったからだ。
「わからないな……」
葉山はそう呟いた。彼はそれからふらふらと歩いて、ある駅に辿り着いた。ひと気の少ない朝のホームで、混濁する自我意識に体が強い疲労を覚え、彼は再びうずくまった。
『彼』からもらった言葉が、彼の内的世界を膨張させている。葉山はその言葉をそのまま反芻した。
「……君は、選ばれたんですよ」
その声は、駅のコンコースに響かずに消えていった。
それは、新たな事件の序章に過ぎなかったのだろうか。彼の正義は、いびつな天啓に導かれるままに暴走を始めようとしている。それは、見えざる影の描く舞台の上で。
「俺は、正義だ」

第七章 正しい紅茶の淹れ方