第七章 正しい紅茶の淹れ方

信仰というのは人を救う一方、非常に冷酷な側面を持つ。信じていることを理由に、相手に全責任を放り投げることができるからだ。
「私はあなたを信じています」
という文言は、相手を束縛するには最適の言葉である。しかしその拘束力に気付かないまま、一時の清らかな感情に任せてそういう言葉を口走る者は実は結構多い。
この「信じる」という言葉の恐ろしさを知っているからこそ、誰をも信じないことを固く誓っている女性が、この街には存在する。言わずと知れた、ミズ・解剖医である。
彼女はその日も仕事だった。
「悔しい!」
解剖台の上で、30代半ばと思しき女性が死んだ眼をギョロつかせてミズを睨んでいる。
「こんな最期ってないわ。恨んでやる、あんたを恨んでやる!」
ミズは女性の言葉に耳を貸すこともなく、淡々と手元を動かしている。
「だって他に誰を恨めばいいの? 誰のせいにすればいいのよ! 悔しいわ、あんなことで死ぬなんて!」
女性の目元から、濁った液が漏れだした。それは涙などという美しいものではなく、その女性の恨みを溶かしたような汚い液体だ。
「ぎいぃ!」
段々とその叫び声も汚くなってくる。いくら叫んでもミズの興味など引けないというのに。
「あまり騒ぐと、声帯切るわよ」
「あんたに何の権利があるのよ! 私は、まだ生きたかったのよ」
「ここに来る人はみんなそう言うわ」
「あんなもの信じた私が悪いの? 今流行りの自己責任ってやつ?冗談じゃないわよ!」
「ずいぶんと激昂されるのね」
「だって、私はただ信じただけなのに!」
ミズは最も手に馴染んだメスを手にする。
「恩を仇で返したのよ。アイツは!」
「それはご愁傷様」
ミズはため息をついて、女性の首元にメスを立てる。しかし、次の言葉にミズはその手を止めた。
「許せない……許せない! 土竜の分際で!」
「モグラ、ですって?」
「そうよ。土竜! 信じられる? それとも土竜なんか信じた私が馬鹿だったの? あああ、悔しい!」
「ちょっと待って。話をよく聞かせてちょうだい」
「あああ、許せないぃぃ!」
「……」
解剖台の上で取り乱す死体に、ミズは一瞬迷ってから、手早く頭部だけを切り離し、
「……少し、『頭を冷やす』必要がありそうね」
そう言って大判の保冷カバンを取り出し、
「狭いけど我慢して」
女性の長髪を掴んで、頭部だけを中に詰めた。
ミズは解剖用の手袋を外して、依頼主――捜査本部から送られてきた書類に初めてまともに目を通した。
「荒木祥子、34歳、独身。会社員。4月3日早朝、港区内の公園にて刺殺体で発見」
――刺殺?
ミズは頭部を失った胴体を観察した。よく見れば、胸元に3か所の刺し傷がある。そのうちの一つが肺動脈を貫通しており、それが致命傷になった。そこまでわかっていて、なぜ気付かなかったのだろう。
3か所の、深い刺傷痕。土竜。
「ちょっと! あたしをどうするつもりよ!」
カバンに詰められた頭部――祥子が抗議する。ミズは、多少の動揺を覚えつつもそれを悟られないよう至ってクールに、
「あなたから訊きたいことがある。申し訳ないけど、もう少し付き合って頂戴」