第八章 その面影

代官山はここ数年で大きく変わった。いつの間にか住宅街からお洒落な街に変貌し、若い女性のメッカになった感がある。若宮は流行り物に乗ってキャーキャーはしゃぐタイプではなかったが、この街のこの変わり様は決して嫌いではなかった。
駅前のカフェにてサラダとベーグルで軽い夕飯を済ませた彼女は、カプチーノを飲みながら大竹から受け取った『部外秘』の資料を堂々とテーブルに広げていた。
バレたら誰の首が飛ぶんだろうとか、そういう野暮なこと(若宮に言わせれば)は気にしない。これくらいの秘密なんて、持っててもいいじゃないか。
そう、この東京、魔都市に潜むあの変人が持つ秘密に比べたら、随分と可愛いものだ。
篠畑礼次郎。あの変人と最初に会った時のことを、若宮はふと思い出した。そもそも篠畑と若宮は、彼女の父のコネクションで出会ったのだ。

「『約束』を果たせなかったから」
ずいぶんと昔のことだが、父はそう言って笑っていた。いつか紹介してやるから、とも言っていた。しかしその約束は果たされないまま、父はスピード違反の車に轢かれて逝ってしまった。あまりのあっけなさに、若宮は泣くこともできなかった。当時交通安全課に籍を置いていた若宮にとっては、なんという皮肉だったろうか。
刑事になったばかりの若宮と、法と紙の上では死者となった篠畑の邂逅は、若宮の父の葬儀の直後。父の遺品を篠畑に届けに行った時であった。

その日は梅雨明けした7月下旬にも関わらず、しとしとと雨が降っていた。
父の言っていた人物は若宮の目には最初、非常に奇妙に映った。他の受刑者と隔離され、壁紙まで丁寧に張られていた部屋で、篠畑はラタン製のロッキングチェアに座ってウトウトとしていた。本棚には本が並んでいるし、木製のテーブルには紅茶が置かれている。ご丁寧にティーコージ付きだ。まるでどこかの書斎かアトリエのようだった。
若宮は躊躇した。入室の許可を得ているとはいえ、相手は連続自殺教唆犯だ。何をされるかわからない。父から預かっているファイルを持つ手に、汗が滲んだ。しかし、鉄製の扉に設えられた小窓から垣間見える長閑な光景に、若宮はちぐはぐな違和感を覚えた。本当に、今そこで居眠りしている人物があの『見えざる影』なのだろうか?
しばらくその場で足踏みしていると、見回りにきた警吏に何をしているのかと訊かれた。当然だ。
若宮はオドオドしながら、
「えっと、篠畑先生に会いに。警視庁捜査一課の若宮郁子と申します」
そう名乗ると、警吏はピッと敬礼をした。若宮もそれに応える。
「この部屋、どうすれば入れますか」
若宮のこの問いかけに、しかし警吏は肩をすくめてみせただけだ。代わりに、部屋の中から声がした。
「どうぞ。鍵なら開いているから」
第一声を聞いた時、いい声だな、という印象を若宮は抱いた。静かだけれど、重たくはない。低さならテノールくらいの、とても優しい声だ。
若宮はその声に従って、鉄製の扉のノブを回した。手には相変わらず汗が浮かんでいる。一歩部屋に踏み入れると、若宮はつま先から、何らかのプレッシャーを受けたような感覚に陥った。しかし、当の篠畑といえば寝起きの目をこすっているだけなのだ。欠伸をしながら、
「午後2時。時間どおりなのはいいことですが、ちょうど僕、昼寝の時間なんですよ」
「すみません」
「別に謝ることじゃないです」
「……すみません」
若宮はどうしたらいいものか、まるで思考が真っ白だった。篠畑にファイルを渡す。ただそれだけだというのに、ひどく重大な仕事を押し付けられた気分だった。天国だかに行った父を恨めしく思った。
若宮のそんな様子を、篠畑はしばし、ロッキングチェアにもたれた姿勢のままで観察していた。それがわかって、ますます居心地が悪くなる若宮。
「あの、」
思い切って若宮は声を発した。たった一言なのに、えらく気力を削がれる。
「ファイル、父からの……」
「ああ、ええ。聞いていますよ。若宮の娘さん」
「どうも……」
少しだけ、若宮はムッとした。しかしそれはしょうがないことだと諦めもついている。彼女は何処へ行っても未だ、『若宮郁子』としてではなく、『若宮恭介の娘』として見られてしまうのだから。
「これ、どこに置けばいいですか」
若宮はファイルを篠畑に差し出した。
「僕に下さい」
そう言って、ようやく篠畑はロッキングチェアから立ち上がり、チェアの背もたれに無造作にかかっていた白衣に袖を通した。しわの取れていない白衣ではあったが、そんなに汚れてはいない。白衣特有の権威のせいだろうか、若宮には、急に篠畑が医者らしく見えた。と同時に、その姿で何人もの人生を翻弄した結果として今、この場に彼は居るのだという事実が現実味を増し、彼女は息を飲んだ。
篠畑はパラパラとファイルに一通り目を通して、一人で頷いたかと思うと、若宮にこう提案した。
「ご足労ありがとうございます。よかったら、紅茶でも飲んでいきませんか」
「えっ」
篠畑はにっこり微笑む。
「あなたの話なら、若宮刑事からよく聞いていました。とても活発なお嬢さんがいらっしゃると」
若宮は途端に、恥ずかしさで冷や汗をかいた。私の知らない場所で、父が自分のことを彼に話していたのかと思うと、一体どんな噂をされていたのやら。緊張が余計に増してしまう。
「うん、目鼻立ちが、お父さんにそっくりだ」
「そうですか」
「特に、目。いい目をしていますね」
「ど、どうも」
篠畑の意外な言葉に、若宮は目をパチクリさせた。そんなことは言われたことが無い。どう返答していいのかわからず、若宮は取り敢えずそんな言葉を返した。
「女性は星占いの類が好きと言われますが、あなたはどうですか」
「え?」
「今日のてんびん座の運勢は、『忘れものに注意』だそうです」
「なんで私の星座を。それも父から?」
おしゃべりな父なら、そんなどうでもいい情報まで篠畑に伝えかねない。しかし、若宮は占いを信じないタイプだ。血液型や生まれた日付で運勢が決められるなんてまっぴらだし、そんなものに金を出してまで信じることに、どうしても意味を見いだせないからだ。
篠畑は、しかし首を一回横に振った。
「10月12日生まれ。ここにそう書いてありました」
自分が渡したファイルの内容を、若宮は知らずにいた。自分の個人情報が載っているとは、どういうことなのか。
「そんなに警戒しないでください。あなたが渡してくれたこれは、今年度の警視新規入庁者・異動者のリストアップファイルです」
「あー」
何とも間が抜けた声だ、と自分でも思う。と同時に若宮はホッとした。だがこの時の若宮には、この『リストアップ』が後に何を意味するのかを知る由はなかった。
「星占いは、今朝支給された新聞の隅に載っていました」
「そんな細かいことまで、覚えているんですか」
若宮の率直な質問に、篠畑はちょこっと首を縦に振った。
「右脳に貯蓄される記憶の容量は、無尽蔵なのです。その引き出しの出し方と場所さえ覚えておけば、こんなこと何でもありませんよ」
「へぇ」
純粋に感嘆の声を上げる若宮を、どうやら篠畑は気に入ったらしい。
「一人で飲む紅茶も気ままでいいけど、正直退屈な時もあるんです。昼寝を遮ってくれた代償に、少しお付き合いいただけませんか」
「はぁ……」
別に、私は言われた時間に伺っただけなんですけど。内心でそうぼやきつつも、差し出された紅茶の芳しさに、若宮は思わず頬を緩める。一口飲んで、思わず、
「美味しい……」
と呟いてしまったほどだ。そんな若宮を、篠畑は目を細めて見ている。いや観ている。
「また、いつでもどうぞ。僕にはもう、何も無いから」

僕にはもう、何も無いから。