あの日の篠畑の言葉が、今日のカプチーノにも溶けているような気がした。くるくると白い泡が、ティースプーンにかき回されて流転している。
悔しいが、ここのアイスティーを飲む気になれないのは、いくら金を出したって篠畑の淹れる紅茶に敵わないことを知っているからだ。
今夜は少し霧がかかっている。カフェテラスから見える風景が霞んで、夜景をぼかしている。街のネオンが幾分か柔らかく見えて、気持ちを落ち着けるにはちょうどいい。
若宮は一通り書類に目を通し終えると、カプチーノを飲みほしてカフェを後にした。
帰り道は、いつも決まっていない。今日のように寄り道することもあれば、終電に間に合うように職場から一目散に走ることもある。どうせ途中で抜け出してきた身だ、あんな視線に晒されてまであの職場にいるだけの根性というか度胸が、若宮にはまだ足りなかった。しかしそれを認めることは難しい彼女であるから、「今夜は金曜日だから」、とやや苦しい言い訳をして自分を正当化する。
駅に続く道から一本奥まった道を行く。街灯が彼女の顔をぼやっと照らしてくる。夜になればまだ少し肌寒い季節だ。若宮はスプリングコートのボタンをかけて、少し早足で歩いていた。
ここは一本違えば面白い店に出会える街である。閉店後の雑貨店のショーウィンドウを眺めたり、装飾された信号機を見上げたり。路傍に置かれた花壇には、チューリップの葉がすっくと生えている。もうじき咲くのだろう。何色だろうか。
そういえば、久しく花を買っていない。近頃はそんな余裕がないことに、花屋の前を通りかかった時に思い出した。午後8時、この時間になってもまだ、小さなランプを灯して営業していたその花屋に、若宮は立ち寄ることにした。
何ともかわいらしいブーケやアレンジメントフラワーが並んでいる。ガラス越しに冬を乗り越えたスプリング・エフェメラルたちが踊っている。元々静かな街ではあるが、そこだけファンタスティックな雰囲気が漂っていた。
「いらっしゃいませ」
春の花のように可愛らしい店員が奥からやってきた。
「何かお探しですか?」
「あ、いえ」
しかし、まさかただ冷かしに来ただけとも言いづらい。咄嗟に若宮の口を衝いて出たのは、
「部屋に、潤いが欲しいかなって」。
その返答に、店員はニッコリ笑って、
「今、女性にはこちらが人気なんですよ」
と、スイートピーとアネモネを見せてくれた。
「春のブーケには欠かせない花なんです」
「そうですか」
でも、アパートにこんな可憐な花を飾るのは、いささか花に申し訳ない気がする。若宮が躊躇していると、店員はショーウィンドウの手前にあった小さな鉢植えを指した。
「ご自宅用なら、サボテンもお勧めですよ」
「サボテン?」
「ええ、お世話も楽ですし、大事に育てれば綺麗な花が咲くんです」
「ふーん」
小柄な店員の掌に収まるサイズだ。持って帰るにはちょうどいい。寄ったからには何か買わないといけない気もして(若宮は買い物が下手である)、
「じゃあ、それください」
「ありがとうございます」
「あの」
若宮は小銭を探しながら、ふと思ったことを店員に訊いてみることにした。
「このお店、いつもこんな遅くまでやっているんですか」
「ああ」
店員は何かを指折り数えるような仕草をした。
「今の時期は夜の9時過ぎまでやっているんです。仕事帰りの女性のお客様が多いんです」
「なるほど」
「最近は若い男性の方も寄ってくださるんですよ」
「なるほど」
「もちろん、ご年配の方も。花は年齢を選びませんからね」
「……なるほど」
若宮の返答ぶりに、店員はサボテンを梱包しながら、
「お客様、なんだか刑事さんみたい」
「えっ」
と、愛らしく笑った。
つい、口調が尋問くさくなってしまうのだろうか。こりゃ職業病ね、と若宮は内心苦笑した。
「ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる店員に手を振って、若宮は店を後にした。時刻、午後9時10分過ぎ。少しおしゃべりが過ぎてしまったかな、とほんの少し反省して、霧がかった街を、若宮は先ほどよりも軽やかな足取りで歩いた。こういう余裕が、最近の自分には無かったんだな。
若宮と、丁寧にリボンまで付いた手さげの紙カバンに入れられたサボテンは、その直後の出来事の目撃者にならずに済んだ。それが果たして幸運だったのか不運だったのかなんて、一体誰に判断できるのだろうか。