翌日は予報通りの雨で、朝から湿った空気が街を包んでいた。
その日、職場についてすぐに大竹から知らされた報告に、若宮は自分の目と耳を疑った。
「今、何て?」
「朝だからってボーっとすんな。だから、金銭などは一切盗まれていないんだよ。不自然だよな」
「だから、何が」
「お前な、ちゃんと朝食食って来たのか?」
若宮は首を横に振った。実のところ、昨日は疲れてすぐに眠ってしまい、朝に慌ててシャワーを浴びてきたので食事を摂る余裕が無かったのだ。
「だから、代官山の花屋がだな、」
「あの花屋が何か?」
「お前、知ってんのか」
「知ってるっていうか、昨日……」
大竹から渡された現場の写真を見て、若宮は絶句した。そこに映っていたのは、フラワーショップ『FLOW』。紛れもなく彼女が昨日の夜、気まぐれで立ち寄ったあの花屋だ。だが、現場の光景は惨憺たるものであった。花という花が散乱している。無残に倒された花瓶から、折れた花々が見える。断片的に散っているのは何という名前だろうか。花に蒙昧な若宮にはわからなかった。割られたショーウィンドウの向こうで唯一、原形を留めていたのはあの愛らしい店員が教えてくれた、アネモネの花だけだ。
「被害者は?」
咄嗟に口から出た言葉がこれだ。若宮は自分に一瞬だけ嫌気が差した。大竹はさらに写真を数枚差出し、
「行方不明だ」
「え?」
「まただよ。被害者不明。誰もいないんだ」
「…………!」
若宮は息を飲んだ。あの子が、行方不明?
「行方がわからないのは、宝飯綾香29歳。このショップのオーナーだ」
「そんな……」
若宮は、改めて自分の仕事がどういう仕事なのかを考えざるを得なくなった。昨日まで一般人だった者が、いきなり捜査の対象になってしまう。何気ないと思った出会いが、事件解決のための手がかりに成り下がる。とんだ職業だ。
若宮はすっかり肩を落とした。そうして、自分のパソコンに向かって腕組みをして、しばらくの間黙っていた。
そんな若宮を気遣ってか、大竹がインスタントコーヒーを淹れようと席を立った。彼の机に広げられた、現場と宝飯綾香の写真が若宮の視界に入る。
嫌でも、キーワードが勝手に結びついてしまう。
連続する、被害者不明の事件。
散らばった花びら。
モグラ。
そして……。
若宮が足を組み換えた、まさにその瞬間を計っていたかのように、突如として職場がざわつき出した。しかしそんな騒音も、若宮の耳には入らない。だが、コーヒーを作りかけていた大竹が慌てて戻ってきて、若宮の肩を強く叩いた。
「おい……若宮、おい!」
「何」
思考を邪魔された若宮は素っ気なく答えるが、大竹は明らかに動揺している。一体、何が起きたというのか。
「澄ましてる場合かよ!?」
「何がよ」
「だからっ、ああもう、お前、自分の目で確認しろ!」
大竹に押し出される形で、若宮は椅子から立ち上がらざるをえなかった。だが、不機嫌そうにそのざわめきの先を見た彼女の表情は、一瞬で硬化した。
「え……!?」
その視線の先には、なんと自宅謹慎中のはずの葉山が立っていたのだ。
「あっ」
葉山は若宮を見つけると、ニッコリほほ笑んだ。いつも通り、スーツ姿で。ただ違和感を覚えたのは、彼の手に、若宮の知らない花が握られていたことである。
若宮の賭けは、失敗に終わったというのか。まるで時が凍ったかのような気持ち悪い非現実感を若宮は味わった。
場は騒然としている。謹慎期間中の外出。これはどう見たって処分に反した行為だ。許される筈がない。だが、誰ひとりとしてそうした声を上げないのは、その非難の矛先をほとんどの者が若宮に向けたためだ。
若宮は、そんな周囲の視線を、一回の咳払いで除けようとした。勿論そんなもので跳ね返せるほど生易しいものではなかったが、それに屈しない強さを若宮は持ち合わせているつもり、だった。
それでこそ、主演女優。
「おはよう、若宮さん」
若宮は、葉山の不自然な頬笑みの裏に篠畑の笑み、その面影を見い出さずにはいられなかった。
第九章 彼は気まぐれにキスをする へつづく