第九章 彼は気まぐれにキスをする

歪んだ天啓が厳かに降り注ぐ朝。雨は怒れる神を代弁するかのように容赦なく降りつける。この都市を包むように、そしてこの都市を恐れるように。

都市伝説の一人、篠畑礼次郎は、部屋に設えられた柱時計が閑寂に時を進める、その秒針の音に耳を傾けていた。

短針が10時を指した時、「――そろそろ、ですかね」と、誰にともなく呟いた。


大竹が連れて行ったはずの廊下には、二人の姿は見当たらなかった。他の課の人間たちが忙しそうに動き回っている。ぽつんと廊下に現れた若宮は目線だけで二人を捜した。しかし見当たらない。どこまで行ったのだと半ば立腹して歩き始めた時、彼女の鼻をある香りが掠めた。

紅茶だ。場違いな芳香は、給湯室の方からのようだ。まさか、と彼女が覗いてみると、葉山が穏やかな表情で紅茶を淹れていたのである。

「ちょっと」

若宮の口調はつい、責めるようなものになってしまう。

「何してるの」
「何って、見ればわかるでしょ」
「あのね!」

若宮は両手を腰に当てて(これは怒った時の若宮の癖である。もちろん自覚はない)、言葉をぶつけた。

「何、優雅なことしてんのよ。葉山君、あなた、自分が何してるのかわかってるの?」

葉山は首を少しだけ傾げる。その態度に、若宮はイライラが一気に高まっていくのを感じた。そんな若宮に構うことなく、葉山は手を止めない。給湯室に設えられている器具では満足な紅茶は淹れられないが、それでも香りは非常に良い。緑茶用の湯呑にそれを注いで、若宮に差し出した。

「いらない」

若宮はそれをつっぱねた。

「冷めちゃったら美味しくないよ。アイスにはアイスなりの淹れ方があるんだからさ」
「そんなことはどうだっていい」
「そう」

呑気に自分の淹れた紅茶の味を確かめる葉山。

「……」
「……」

嫌な沈黙が落ちる。若宮は自分の苛立ちに参ってしまいそうで、それでもそこで耐えきれなくなるのは一種の敗北だと思い、深呼吸して葉山の言葉を待つことにした。

そうしてしばらくの静寂の後に発せられた葉山の言葉は、若宮の想像の外の言葉であった。

「紅茶の香気には200種類以上の精油成分があると言われているんだって。まさに『飲む香水』なんだよ」

確かに、その香りは若宮の闘争心を削いでしまいそうになる。それでも若宮は言葉を続ける。

「あいつの受け売り?」
「あいつ?」
「とぼけないで」
「とぼけてないよ」

葉山は至って落ち着いて見えた。が、若宮が次の質問をした途端、その表情は豹変した。そう、それこそ『人が変わった』ように。

「大竹君はどこへ行ったの」

一瞬だけ、葉山の目が泳ぐ。全ての挙動が止まったように、葉山は硬直したように見えた――が、それもすぐ消えて、葉山は湯呑をゆっくりとシンクに置いた。

若宮に嫌な予感が走る。説明はできないが、とにかく嫌な予感がする。次に開かれる葉山の口元を見ることができない。

わかっている、つもりだった。葉山は疾うに『彼』の支配下なのだと。それでも信じたかった。

彼が誰であれ、信じることでしょうね。

他ならぬ篠畑の言葉がリフレインする。そうだ、甚だ悔しいが、その通りなのだ。彼が誰であれ、信じること。

そして告げられた言葉は、またしても若宮の思考の範疇を超えていた。葉山は微笑みを隠さぬまま、こう言ったのである。

「彼なら、使命を果たしに行ったよ」
「使命?」
「認識できなければ、否定されていいの?」
「何を言ってるの」
「彼は世界に否定された……だから彼は世界を否定するのさ」

若宮は言葉に詰まる。

瞬転、葉山は壊れた人形のようにケラケラ笑いだした。笑い声が狭い給湯室に反響し、重なって聞こえる。

「何がおかしいの!」

若宮が食って掛かるも、葉山は口角を上向きに歪めたままだ。

「彼もまた、優秀なアクターだよ」
「……?」
「アクターという名の殉教者に祈りを捧げるか、それとも共に舞台に溺れてあがくか? 若宮さん、君に選択権をあげよう」
「何を、言っているの」
「今ならまだ、器物損壊で済むだろうね」
「は?」
「彼を、殺人犯にはしたくないだろう」
「大竹君が、なんで……」
「信じられないのならその眼で見るといい。彼がより重い罪を犯すも主役の君次第なんだから」

若宮は葉山をキッと睨むと、すぐに給湯室を飛び出して走り出した。葉山の甲高い笑い声を背に受けながら。