第九章 彼は気まぐれにキスをする

自分の身が一つしかないことを、若宮はひどく呪った。気がつけば彼女は弾かれたように走り出していたのだが、行くあてが多すぎて足がもつれそうになる。雨の中、傘もささずに走った。運動神経に恵まれた若宮だったが、それでも息があがるほど必死に走った。代官山駅を降りてからというもの、何か叫びたい衝動を抑えてとにかく走った。
しかし、街道を一本入った公園に着いた瞬間、彼女の足は何かに絡めとられたかのように動けなくなった。視界に、信じられない光景が飛び込んできたのである。
「……!」
公園には大竹幸彦が立っていた。しかしただ立っていたわけではない。彼の周囲には花という花が散らばり、その中心には宝飯綾香が倒れている。大竹の手には鈍く光る拳銃。それが雨を反射して光っている。
「どういうこと」
若宮は恐る恐る声を絞り出す。何が起きているのかわからない。理解できない。理解したくもない。ただただ、足もとがグラつくような感覚に襲われる。信頼とか友情とか、そういう類の感情がひっくり返されたかのような、ごちゃごちゃに混ぜ返されたかのような、嵐のような感情が若宮を一瞬にして襲った。
バラバラのピースが嫌な形で結びつき始める。
「あ……!」
若宮は思わず声を出した。その場にもう一人、いる。雨のせいですぐわからなかったが、雨煙に視界が慣れていくにしたがって、人影がはっきり見えてきた。横たわる綾香を挟んで大竹に何かを向けているのは――
「あなたは……!?」
雨の日でもなお、鋭い光を放つメスを持つのは、もちろんミズ・解剖医その人である。その切っ先を大竹に向けて、もう片手には何か大きな塊が握られている。その物体を見て若宮は我が目を疑った。マネキンなどではない。人間の生首だ。若宮の背筋に寒気が走った。この光景は、いったい何だ?
「大竹君!」
若宮はその名を呼んだ。しかし、それに応じたのは大竹ではなくミズだ。
「無駄よ。彼はオオタケではないから」
「どういうことなの!? あなたは何を知っているの!」
「何もわからないわ。可能性を述べているだけ。でも彼がオオタケではないのは確かよ」
「大竹君!」
若宮は尚も彼の名を呼ぶ。だが、大竹は綾香に銃口を向けたまま微動だにしない。
「どういうことよ……何がどうなってるのよ」
若宮の戸惑いは、しかし雨と霧に邪魔されて大竹には届かない。それどころか、大竹は若宮以上に苦悶の表情をしているのである。
「苦しいようね?」
ミズが挑発するように言う。
「放ってしまえば楽になれる……しかしその代償は大きいわよ。わかっているからこそ、苦しいのよね」
ミズの言葉が氷のように空間を裂く。握られたメスが威光を放っているようだ。雨の日にも映える赤いワンピース。血よりも赤い。しかし、注目すべきはその鮮やかさよりも、彼女の左手に掴まれている生首である。それが流暢にしゃべりだしたのだから、若宮は目を見張った。
「これが彼の選択なの!? ミズ、どういうことなの、私にも教えて。したり顔なんてしないで!」
「あら嫌ね、私を誰だと思っているの」
これが、篠畑が言っていた、ミズの『その後の会話』なのか。死者との会話というのは、比喩などではなく、そのまま死者との会話だったのだ。
首は叫び続ける。
「意味分かんない! 彼は一体誰なのよ!」
「あなたがわかっている筈でしょう。『彼だけど彼じゃない』」
「こねくりまわさないで! さっさと説明しなさいよ!」
ミズはニヤリと笑うと、
「教えてあげる」
そう言ってなんと、祥子を大竹に投げつけた。宙を舞う生首。悲鳴というよりは奇声を上げながら抗議する祥子だが、大竹の足もとに無残に転がった時に、
「が」
頭を打って気絶した。死んでから気絶というのも甚だおかしい話だが。
しかし、足もとに生首が転がっても、大竹は動揺一つしない。というよりも、反応を示さない。
ミズは大竹のリアクションを鼻で笑った。
「大して感動もない再会になっちゃったのね」
「……」
「彼女は完全に世界に否定された。それで満足かしら?」
「うるさい……」
若宮は完全に呆然としてしまっている。蚊帳の外だ。次々に目の前で繰り広げられる信じられない光景に、すっかり足が竦んでいる。
「仕掛けは、単純ね」
ミズはペン回しのようにメスを回転させ、ポケットにしまった。そして、
「folie a deux?」
「何?」
大竹が怪訝な顔をする。
「狂気の感染、とでもいうのかしら。あいつの思いつきそうな『遊び』ね」
「……」
「葉山クンの取り調べをほぼ単独で行ったのはあなたね。身内のことだからあまり大っぴらにできない……というのが建前だけど、実際はあいつが仕組んだことだろうなんて、容易に想像がつくわ」
「ミズ!」
若宮は思わず声を上げた。
「どういうことなんですか!? あなたは、何を知ってるっていうんですか!」
ミズは初めて若宮に視線をやった。この子が、篠畑の見染めた主演女優か。
「はじめまして、ね。若宮郁子さん」
「ミズ!」
「落ち着きなさい。せっかく認識できるものもできなくなるわよ」
「意味を、意味を教えてください!」
「あくまで推測よ。要は、風邪と一緒だって言いたいの」
「は?」
「大竹幸彦は葉山大志の取り調べ時に、葉山の狂気に感染した」
「そんなことが、あるの……?」
「フランスで事例が報告されているわ。あの篠畑がそれを知らないとは思えないし、利用することは十分に想定できる」
「大竹君っ!」
若宮は大竹に駆け寄ろうとした。しかし、その瞬間、大竹は右手の拳銃を若宮に向けた。当然、若宮の足は竦み止まる。ベルトのないジェットコースターに乗っているような恐怖を若宮は覚えた。大竹の目は、まるで肉食獣のように光っているように感じられたからだ。
「放ちたい願望、ね。悲しいけど女性にはあまり理解できない感情よ。そうよね若宮さん?」
「何を……言って……」
若宮の口元を雨が容赦なく濡らす。そうして雨粒が言葉を奪っていく。雨の降り注ぐ音だけがサァサァ聞こえ、しばしの間、誰しもが黙した。
――その沈黙を破ったのは、意外な人物のこんな言葉だった。
「からっぽの小さな鳥かごに……」
その声は、囁くように紡がれる。しかし、不思議と雨音にかき消されずに、しっかりとその場にいる人間たちに届くのだ。
「両手を取られたのは私」
若宮はハッとして大竹の足もとを見た。
うずくまっていた宝飯綾香が、祥子の生首を抱きしめながらしゃべっているのだ。
「見上げる月に照らされて……」
綾香の声は、何かの宣託のように神聖な雰囲気を帯び、聞く者の耳と心にまっすぐ響く。
「……両目が赤く光ってる……」
綾香の言葉の一片一片が、大竹をなぜか追い詰めているようなのだ。
「かわいい天使の着地地点」
綾香は祥子を掲げるように持ち上げながら、ゆっくり起き上がり始めた。その挙動に、大竹は大きく反応を示した。目を見開いて、忌々しそうに目の前の綾香を睨みつける。若宮に向けていた銃口を、再び綾香に向けた。
それでも綾香は続ける。
「優しいギターの旋律と逆回りする柱時計が」」
「う、ぅ」
「……2時を指し示すとき」
「やめろ」
綾香はまるで聖女のように透き通った声で不思議な言葉を並べる。だが、その手には生首。それを高く掲げながら、
「私自身も天使になれるの」
「やめろっ!」
大竹は、ついに我慢できなくなったとばかりに、引き金を引いた。パン!と軽率な音がする。その場に、濁った血と脳漿が飛散した。糸が切れた人形のように、その場に倒れる綾香。
「きゃああ!」
若宮の悲鳴にはまったく意味が無い。何の抑止力にもならないからだ。しかし悲鳴など、意図的に出そうと思って出すものでもないだろう。
若宮は自分の無力さを心でどうにか握りつぶして、
「なんで!」
大竹を問い詰めた。
散らばった花びらが血と脳漿で汚れていく。雨も、そう簡単にはそれを洗い流してはくれない。
「その子が何をしたっていうのよ!」
しかし若宮の叫ぶ声は虚しく消えていくだけ。大竹は、世界を憎むその瞳と銃口を、今度は若宮に向けてしっかりと引き金に指をかける。歪んだ微笑みしか思い出せないその名を呼びながら。
「篠畑……礼次郎……っ!」
若宮は歯を食いしばって、自分もまた銃を構えた。
「こんなこと……なんで……!」
だがその手はガチガチに震えている。
「嫌よ……あなたが人殺しだなんて、信じたくない!」
「うるさい」
「なんで!」
しかし倒れた綾香の姿が、若宮を残酷な現実から離さない。
「大竹君っ……!」
自分が泣いているのかどうかも、雨のせいでわからない。若宮は必死で彼の名を呼んだ。だが、彼は呻きのような声を発し、息を吐き、じっとこちらを睨んでいるばかりだ。
ここで引き金を引かなければ、恐らく自分が殺される――彼女のように。