第九章 彼は気まぐれにキスをする

「……」
「……」
その緊張の膜を裂いたのは、
「伝染ったのなら、解毒すればいいだけじゃない」
その一言と同時に放たれたミズ愛用のメスだった。メスが空を切り、大竹の右手を掠めて見事に地面に突き刺さる。
「くっ」
皮膚を裂かれた大竹は、出血する右手を押える様にしてうずくまった。その隙に、若宮が駆け寄って大竹の手を蹴り飛ばし、拳銃を遠くへ弾いた。ザラザラ鈍い音を立てて地面を転がっていく凶器。
「ミズ、何を……!」
「ちゃんとよく見なさいよ。彼が殺人犯? 笑わせないで」
「え?」
若宮は近づいてようやく気が付いたのだが、大竹が発砲して散ったのは、綾香ではなく祥子の血と脳であった。当然祥子は永遠の眠りにつく。今度こそ、どうしようもない状態で。ミズだけはしかし、祥子からの最期の言葉をしっかりと聞いていた。
呆然とする大竹を嘲笑うようにして、
「あなたを愛してた、ですって」
ミズは冷たく言い放った。
「なんて便利な言葉なんでしょうね。その場の欲と情の処理にしか使えない言葉だと思ってたけど」
「う……くっ……」
「過去形になっちゃ、どうしようもないわね」
「あああああ!!」
大竹が自棄になってミズに掴みかかろうとしたのを、負傷していることに勝機を見出した若宮が拳を突き出した。怒りや戸惑いやあらゆる負の感情の籠ったパンチが、大竹の左頬にカウンター状態で入る。若宮には確かな手応えと発散されない怒りだけが残った。
「……」
その場に大の字に倒れた大竹の体を、ミズはつまらなそうに真紅のハイヒールのつま先で突いて、
「随分と荒療治ね」
そう若宮を皮肉った。若宮は息を短く吐きながら、
「ミズ……あなたにお礼を言うべきかどうか、迷っています」
「果敢さは認めるわ。蛮勇とも言うけれど」
「あなたが何を知っているのかは知りません。でも、私は私の正義に則って行動するのみです」
「正義、ね。ここへ来て、その単語は禁句に近いんじゃないの」
「何故ですか」
「世界に否定された者達が、最も忌み嫌う言葉だから」
「世界に、否定された者達?」
「日蔭者、とでも言うのかしらね」
それは自分のことだな、とミズは内心自嘲した。
「真相だけ手早く伝えておくわ。捜査に役立てて頂戴」
「え?」
「荒木祥子は自殺。あるいは世界に否定されてモグラに殺された」
「え、え?」
ミズは戸惑う若宮を残し、踵を返してその場から足早に去っていく。
「待って!」
若宮は上ずる声を必死に制御しながら、ミズを呼びとめた。
「意味がわからない! 大竹君は、どうなるの?」
その声と、遠くから響いてきた救急車のサイレンに重なるようにして、ミズは振り返らずにこう言った。
「……謎は、謎のままがいいこともあるわ」

からっぽの小さな鳥かごに両手を取られたのは私
見上げる月に照らされて両目が赤く光ってる
かわいい天使の着地点

優しいギターの旋律と逆回転する柱時計が
2時を指し示すとき
私自身も天使になれるの

ミズは一旦家に戻って、雨に汚れた全身を洗い流していた。シャワーの音がやけに耳に心地よい。マイナスイオンのヒーリング効果などあって無いようなものだと思っていたが、今の自分にはちょうどいいらしい。それが非常に虚しく感じられもしたが。
しかし、鏡に映ったミズの唇は、何かを企む女性のそれであった。艶めく唇は、ニッと上向きに引き締められた……。