第十章 沈黙の詩

何処へ向かって走っているのか。それはきっと、待つべき人の居る場所だ。

都会の夜はコンクリートが熱を奪って、春の暖かさを奪いどこまでも冷たい。吐く息はまだ白かったし、スニーカーの靴音さえも鋭利に跳ね返すコンクリートジャングルを、若宮は必死に駆け抜けた。

次の頁をめくったのは私。
あの時、彼を次の舞台へ上げたのも私。
あの時、彼を止められなかったのも私。
……だったら、全てを終わらせるのも私だ。

彼女は半分以上、本能で走っていた。直感と言った方がいいだろうか。

そう、それはまるで一本の糸に導かれるかのように、予め決められていた場所ではなかったか?

ひと気の少なくない、某駅の高架下。全てが始まった場所。そう、『終わり』さえもが始まった場所。土竜が罪を告白し、葉山によって射殺されたあの場所である。
若宮は高架の隅、一番暗い場所まで走り抜けると、ばっと振り返った。まだ頭が少しだけ痛い。しかしそれでも、彼女は刮目した。

「……いるんでしょ?」

若宮は闇に向かって声を上げた。

「いるんでしょう、葉山君!」

声は、コンクリートと鉄に吸い込まれていく。夜の静けさが若宮の声を炙り出すように拡散させていく。だからこそ、若宮は声を張り上げた。

「待たせちゃったね」

暗闇からは尚も返答はない。

「ごめんね。私、やっと気づいたんだ」

その昔、嫌々やらされた応援団で発声練習をしておいてよかったと、こんな時に彼女はそんなことを思った。

「理由なんて、後からでいいんだよ」

若宮の声は、夜に吸い込まれていく。

「答えなんて、いつでもいいんだってば!」

若宮はその瞬間、何故かしら目頭が熱くなるのを感じた。

「大丈夫だから! 君は君のままで、十分過ぎるよ!」

涙は、熱い思いを代弁するように流れ落ちる。

「私は、待ってるよ。もう逃げない。銃なんて向けない。凶器なんて要らない! バカでもいい、なんでもいい、私はずっとこのままで、君を待っているから――」

若宮は、思いきり息を吸った。

「だから、大丈夫だから!」

なんと後先の無い言葉だろう。なんと軽率で、ありきたりで、使い古された言葉だろう。しかし、それでも、若宮はこれ以上の言葉を知らない。だから、全力で闇に向かって叫んだ。

「君を待っているから!」

想いの全てを込めた叫びは、深い闇に吸い込まれていく。

再び静寂の落ちた場所で、若宮はふっと力が抜けて、徐に崩れた。立っていられない。よくぞここまで走ってこられたものだ。震える両足に手を添え、若宮は深呼吸した。

大の字になって見上げた夜空には、星が散っている。よく、都会には星空が無いと人は言うが、目を凝らせば星々は変わらずに瞬いているのだ。人々が夜空を見つめる余裕を失っているだけで。

白い呼吸が消えていく。若宮はしばらくの間、半ば呆然として夜空を見詰めていた。

春の星座の向きが、少しだけ変わったような気がした。空間を侵すような物音がした瞬転、若宮は素早く立ち上がった。視界に入ってきた人物に、固唾を飲みこむ。

「葉山君」

何も驚くことはない。ここは導かれて然るべき場所なのだから。

若宮の叫びが届いていたとはとても思えない。それでも、彼は、出血のせいで不器用な歩き方ではあるが、若宮の視界にその姿を現した刹那、一言だけ、

「……ありがとう」

そう告げた。多くを語らなくてもいい。そんな必要はないし、それはきっと野暮だ。それでも若宮は若さゆえか、確認せずにはいられなかった。だから、こう問うた。

「届いているよね?」

葉山は力ない笑顔で、ゆっくり頷く。若宮もそれに応え、力強く頷く。

「今すぐじゃなくてもいい。ずっと待っているよ。君が君に戻る日まで」

若宮は葉山に向け、その小さな手を伸ばした。葉山もそれに応じるように傷を負った手を差し出す。

その、一瞬の隙だった。

若宮の背中に、奇妙な衝撃が走った。

熱いような冷たいような、今まで味わったことのない感覚。それはすぐさま、痛みへと変わった。

「あ……?」

一転して焼けるような痛みに襲われ、若宮は意識を持っていかれそうになる。すぐ背後に、もう一人の存在を感じたのはそれからだった。

「大竹、君……」

若宮はその人物の名を呼ぶと、その場に倒れた。現れたのは、血に濡れたナイフを持って立ち尽くす、大竹幸彦の姿。

「なんで……」

若宮は激しい痛覚に負けずに、声をかける。

「なんで、君が」
「……」
「……なんてね」

若宮は、気丈にも笑ってみせた。

「理由なんてどうでもいいんだよ。ただ、どうでもいいことで生命は、……生命は、失われてはいけない。誰がね、どう笑おうと、それが私の正義なの」

若宮は歯を食いしばった。自分の血で服が汚れたら、ちゃんとクリーニングで落ちるだろうか。クリーニング代は請求できるだろうか。

「だから、私だって負けない。誰が上から見てたって、裏で操ってたって、私は私だもん。関係、ないね」

急速に体温が失われていくのを、若宮は感じた。だから、今のうちなのだと思う。時間は、無い。

「だから君も、どうか負けないで――」

若宮が言いかけた刹那、破裂音がした。若宮の視界が一瞬だけ紅くなる。自分を虚ろな目で見下ろしていた大竹の体が、左胸に一点の赤を作り静かに倒れていく。あっという間だった。

二人の向かいには、厳しい表情で銃を構える葉山の姿があった。

若宮は何が起きたのかを理解しきれず、

「どうして!」

と声を上げた。声を出すとそれだけで痛みが倍増するというのに。

「どうしてよ、なんでよ!」

葉山は何かの終焉を告げるように、ゆっくりゆっくり近づいてくる。いや、負った傷でもう、まっすぐに歩けないのだ。

凶器の先からは白煙。それが、全てを物語っている。

「なんてことを……おっ」

若宮は血を吐いた。これ以上は声を張れそうにない。葉山は険しい表情のまま、若宮のもとで体を屈めると、何も言わずに若宮を抱きしめた。

これでもかという程、ぎゅっと抱きしめた。深い怪我を負った若宮にとって、それはダメージにしかならない。
彼は何をしたいのだろう。彼は何を伝えたいのだろう。彼は、何を想っているのだろう。

言葉が力を持っているとしたら、それを超えるのは言葉では表現できない気持ちだろう。心だろう。想いだろう。それを言葉で縛ることはできない。想いは溢れて、彼に一つの答えを導き出した。

それは、あの時気まぐれに触れた唇よりもずっと温かい、血の味のキス。葉山はほのかに、仄かな甘い香りを感じた。

彼の抱擁と口づけで全てを悟った若宮は、残された時間で朦朧としてきた意識の中でも、

「葉山、君……」

この言葉で、必死に彼を肯定した。

「……ありがとう」

葉山は初めて、声を出して泣いた。

「葉山君……」
「ああああああ」
「大丈夫、だ、から……」
「ああ、ああ、ああ、」
「一緒に、美味しい、紅茶……飲みに……」

若宮は、震える手を懸命に葉山の頬に添えた。触れた指先の冷たさに、葉山は嗚咽が止まらない。

「泣か……ないで……」

若宮は最後の力を振り絞り、彼に言葉を伝える。

「君は、君のことを……愛して……だから、わた……しは……」

若宮の言葉が不自然に途切れる。抱きしめていた体から力が抜けた。その意味するところを察し、葉山の思考が真っ白になる。

自分を肯定してくれる。たったそれだけが、どれだけ尊いことなのかを、葉山は何人もの血を以てようやく理解することができた。そして、失うことの恐怖と絶望も。そして、その闇に飲まれてはいけないことも。

理由など初めから要らなかったのだ。正義などただの方便にすぎなかったのだ。ただ、心のままに自分を導く。それこそが彼の追い続けた『答え』であった。陳腐だと人は笑うだろうか。遅過ぎたと人は怒るだろうか。それでも、彼は、ようやく舞台から降りることができたのだ。

「ありがとう……」

彼の涙が、彼女の頬を伝い、地面に落ちる。それはすぐに熱を失って夜の一部になる。雫はやがて空へと還るだろう。葉山はもう一度だけ、若宮の体を抱きしめた。