第十章 沈黙の詩

……20世紀末、世界が慌ただしく回転する中、貴方は静かに現れた。その姿は、僕の海馬と網膜に焼き付いている。生涯忘れることはないし、とてもそんなことはできないだろう。
何故なら貴方は、春色のワンピースを身に纏い、ステップを踏むように軽やかに、不思議な歌を歌いながら現れたのだから。

199×年4月28日、快晴。
「こんにちは、宝飯さん」
「……~♪♪~……」
「歌がお好きなんですね」
「……♪~」
「何の歌ですか?」
「……も……」
「え?」
「貴方も、歌いたいのね」
「いいえ……」

199×年6月22日、雨。
「先生、糸車に自ら身を投じた姫君をご存知ですか」
「姫君?」
「ええ。彼女は自ら破瓜を願ったのです。あまりにも残酷で美しい物語です」
「童話か、何かですか」
「ご存じないんですか」
「僕には、ちょっと……」
「私のことです」

199×年7月17日、晴れ。
「最近、暑いですね。調子はいかがですか」
「そうですね。あまりに鬱陶しかったので、天使の羽を毟りました」
「……」
「二人称を期待しているのに」
「え?」
「先生、貴方は三人称で私を理解しようとしているでしょう」
「それは……どういう意味ですか」
「泣いてもいいですか?」
「お辛いんですね」
「違います。空が晴れ過ぎているから、空の代わりに私が泣くんです」
「……どうぞ」

199×年9月19日、曇り。
「……あの場所で待っていると、あの人は言っていました」
「あの人?」
「忘れもしません。私の世界を犯した人です」
「その人は、今はどこにいるのですか」
「あの場所で、貴方は待っていてくれますか?」
「僕、ですか?」
「……何が?」
「……お疲れのようですね。新しい薬を処方しましょう」
「要りません」
「いけませんよ。ちゃんと飲んでください」
「それは、貴方の願いですか」
「願いというか……まぁ、お願いです」
「ふふ……可笑しいわ」

199×年11月21日、雨。
「寒くなってきましたね。風邪など引いていませんか?」
「大丈夫です。私が風邪を引いたら、世界が肺炎にかかってしまうから」
「何か最近気になることはありますか」
「何もありません」
「ここへいらっしゃることは苦痛ではありませんか」
「生の全てを否定する必要はどこにもないわ。けれど一部を拒否せざるを得ない部分もある」
「ここへ来るのがお辛いと?」
「貴方は詩を詠まないの?」
「特には」
「私の鳥かごは空っぽのまま。満たされる日が来ればどんなに幸せか。けれど胸が満たされたらなら私は、呼吸ができなくなってしまう」
「……少し、辛そうですね」
「生を肯定すれば、罪を丸飲みすることになる。あの時、破瓜を望んだ姫君のように、見苦しく生きていくのは嫌」
「『死にたい』と?」
「ずっと歌っていたいわ」

199×年12月24日…………雪。
イルミネーションに彩られた街は宝石箱のようだった。けれど、そんなものは僕には関係なくて、僕はただ、生まれたままの恰好で寒い街を彷徨っているであろう貴方の姿を想像しては息を飲み、自分の中で何かが張り詰めていくのを感じていた。

「ああ……」

12月の夜を彩るヒステリックな光の群れを、貴方は笑いながら否定した。世界に拒否された貴方は、ただ一人、世界を否定する権利を得たんだね。
それはもしかして、幸せなことだった?

どうして私の歌を歌ってくれなかったの? あなた。
あなた、さようなら。.

そうして、舞台のラストに、降り注ぐ真白な雪を穢すように、貴方は天から降ってきた。それは羽を毟られた天使のように美しく悲惨な姿で。
街を飾るポインセチアの赤よりも鮮やかな緋色が僕の目に広がった瞬間、僕は貴方がずっと歌っていた歌のサビを思い出した。

Montrez un chiffre reel♪

あのクリスマスに、貴方は、僕に無力感と絶望をプレゼントしてくれた。それは、結果僕を導く天啓となった。
貴方の歌声をただ聴くことしかできなかった僕の中で、いつの間にか芽吹き始めた花の名は、アルラウネ―――『死刑台に咲く夢』。

「あああああ!」