第十章 沈黙の詩

舞台は無情に流転し続け、乾いた街に潤んだ瞳と湿った凶器を運ぶ。悪夢の首謀者は、疾うに壊れているその両眼に薄暗い光を灯し、歌い続ける少女の歌声を味わっている。
ミズは面白くなさそうに足をトントンと動かしている。若宮は堪らなくなって綾香を抱きしめた。力の入らない両手で、必死に。
「もういいから……綾香さん、もういいから」
「lu……lulu……lalala……lala……」
「もういいから……!」
篠畑はそんな若宮に首をちょこっと傾げて、
「若宮君。君にも聞こえませんか? あの日のメロディが」
「先生……あなたの描く舞台はもうお終いです。お願いです。終わりにしてください」
「おやおや……」
篠畑はわざとらしくため息をついた。
「……可哀そうに」
その言葉が放たれると同時に、ミズのハイヒールがガツンと鈍い音を立てて床に打ちつけられた。
「篠畑、あんたはとんだ驕れる支配者ね」
「それは、どうも」
「褒めてないわよ」
「そうですか」
篠畑はあごに手をやりながら「ふむ……」と呟いた。
「支配者だなんて、大げさですよ。僕はただ、きっかけを与えたに過ぎない。ミズ、そもそもあなただって楽しいでしょう?」
「バカおっしゃい!」
ミズはポケットの中に無造作に入れられているメスに手をかけかけた。
「篠畑先生」
若宮はぐっと堪えて声を張り上げた。
「この子に手を出したら、私はあなたを許せません」
篠畑は「ほぅ」と興味深そうに言ってから、
「許さないのではなく、許せない、と?」
「言葉遊びなら結構です」
「大事な部分ですよ。可能か能動かの違いは、大きいですからね」
「そうやって……」
若宮は綾香を抱きしめながら、キッと篠畑を睨んだ。
「そうやって、何人もの心を翻弄してきたんでしょうね。何人もの人生を、狂わせてきたんでしょうね……!」
篠畑は、それを聞いて肩を竦めた。
「君らしくない」
そしてソファから立ち上がり、突如として若宮に接近した。若宮は引き攣る思いを飲み下し、綾香を守るようにその両手に力を込める。
篠畑の右手が、若宮に急接近する。ぐっと息を止めた刹那、
「……熱が、あるようですね」
篠畑の手は若宮の額に添えられ、彼はそんな事を言ったのである。
「頬も若干、赤い。あんな雨の中で無理をしたせいでしょう」
ポカンとする若宮。
「僕の診察室に来なさい。解熱剤くらいならすぐに処方しましょう」
「え……」
添えられた篠畑の手は、予想外に温かかった。
「ミズ、そのお嬢さんはあなたに預けましょう。僕が絡むとどうやら若宮君の眉間のシワが取れなくなるようですからね」
「あら、宝飯玲子を手放すの?」
ミズは意外な顔をした。こうもあっさりと篠畑がそうするとは思えなかったからだ。しかし、篠畑は少しだけ目を細めて、ゆっくりとこう言ってのけたのである。
「……籠の中では、自由にして差し上げたいのですよ」
「勝手ばかり言って」
ミズは糾弾するも、
「ま、今に始まったことじゃないわね」
そう言ってため息をついた。
若宮はすっかり脱力してしまい、綾香の身を解放してしまう。
「大丈夫よ」
思いきり上からの目線で、ミズが高慢に言い放つ。
「別に、何も手は出さないわ」
「……ミズ。信じてます」
若宮のこの言葉に、ミズは遠慮することなく吹き出した。
「とんだ責任感だこと」
しかし、ミズのアイロニーに応じる気力も、体力も失ってしまった若宮は俯いたまま、
「……頼みます」
篠畑に手を引かれながら、その場を去るしかできなかった。
無力感。若宮は打ちのめされた。
雨は容赦なく降り打ちつけ、街を濡らしている。雨粒は動物にも、植物にも、犯罪者にも、聖者にも、等しく降り注ぐ。かつて、『雨が命を愛でるなど嘘だ』と歌った歌手がいた。いや彼は恐らく叫んだのだ。その叫び声すら、雨音に掻き消されることをわかっていながら。それが慈雨だなどと、最初に言ったのは誰だ。
「lulu……lu……lulu……」
ミズは腕組みして、ふっと息を吐き、
「最近はどうも、預かりものが多いわね……」
そう言って苦笑いした。