第十三章 決意

あれは蝉の喧しい時期だったか。午後、医務室で万年筆を握っていた篠畑に唐突に飛び込んできた一報は、彼に容易く他の仕事を忘れさせた。若い看護師が駆け込んできて、こう告げたのだった。

「篠畑先生、若宮さんが――」

その言葉だけで、状況を把握するには十分だった。15分ほど前に病室を訪問したときには、何の異変もなかった、はずだった。
まさか。
その「まさか」が起きたというのだ。

それでも、彼の明晰な頭脳は、即座に自分が今、何をすべきかを導き出し、その場にいた看護師に、冷静を保ちながら、指示を出した。

「ご家族に、すぐに連絡を」

携帯電話など存在しない時代。篠畑は祈るような気持ちで、恭介からの連絡をひたすら待った。

「……」

人工呼吸器や心電図、あらゆる医療器具に囲まれた千枝の表情は、しかし篠畑が今まで診てきた中で、最も安らかで柔らかなものだった。首元に強く残った青い痕が痛々しい。シーツを裂いて作った紐で括ったらしかった。こんなことを、見逃したなんて。

「恭介、早く」

頬を伝う汗は、暑さのせいだけではなかった。僕はもう、見守るしかできない。何も出来ない。

確かに最善は尽くしてきた。しかし、結果に繋がらない最善に、何の意味がある。

篠畑は椅子に力無く座り、額に両手を当てるようにして俯いた。一分一秒が、その流れる砂に鉛でも入っているのではないかと思えるくらい、重く感じた。徐々に日が傾き、西陽が病室を照らし始める。

時計の短針が5から6に移動しきった頃、ようやく恭介が千枝の元へ駆け込んできた。

「千枝!」

流れる汗もそのままに、妻の名を呼ぶ。しかしたくさんの医療器具の管に繋がれた千枝の姿に、恭介は力無くその場に座り込んでしまった。

「恭介……」

篠畑がうな垂れて、恭介に手を差し伸べた。が、それを恭介は取ろうとはしなかった。

恭介が彼を責めるつもりは毛頭なかった。そんな筋合いもない。これは自分で望んだ選択肢なのだ。

辛うじて「生存している」千枝に対して、恭介は怒りや悲しみや、様々な感情がこみ上げてくるのを感じた。座り込んだまま篠畑とは目を合わせずに、

「見込みは」
「え?」
「回復の見込は」
「……」

ここで気休めを言ったところで意味がないと判断した篠畑は、

「ありません」

そう、医師の口調で言った。

「このまま、なのか」
「ええ」

正確には、回復の可能性は0とは言い切れない。しかしそれは数字の上での話にすぎず、現実的ではない。その数字を伝えれば、恭介にまやかしの希望を与え、ますます追いつめることがわかっていた篠畑は、あえてそれを話さなかった。

外の蝉の声はすっかり、ヒグラシの声に変わっていた。

黙り込んだ恭介は、それからしばらくの間、白い天井を見上げていたのだが、ふと顔を篠畑に向けて、

「郁子に、どう話そうかな」

そんなことを言った。

張りつめた空気の中で、それを打ち破るためではなかったが、恭介は話を続ける。

「今日も、保育園で男の子と殴り合いのケンカしてさ。ったく、誰に似たんだが。生傷が絶えた日が無い気がするよ」

まいったよ、と恭介は笑った。

「郁子は元気だよ。大丈夫だ」
「恭介?」
「篠畑。俺はあの約束を守る。だから言い出したお前もちゃんと、守ってくれよ」

突然すっくと立ち上がった恭介は、人工呼吸器の前に立ち、

「千枝。散々苦しませて、ごめんな」

おもむろに延命装置のスイッチを切った。

「恭介!」

赤いランプが点滅し、警告音が鳴り響く。

「何をするんだ、おい!」

しかし恭介はどこか晴れやかな表情だ。

「……これで、いいんだ」

篠畑は恭介を押しのけてスイッチをもう一度入れようとする。だが、恭介は頑として動かない。警告音が悲鳴のように鳴り響く病室で、篠畑は恭介の悲しい決意を見て取った。

「恭介、君は……」
「俺たちは、永遠の共犯者だ」

何かを感じ取ったかのように、ヒグラシたちが一斉に鳴き止んだ。