最終章 誕生

ミズは諦観にも似た奇妙な恐怖感の中で、たった一言、彼の、真の名を呼んだ。

「Mr.……」

葉山は、いやMr.は笑う。愛しい人の命を奪った凶器が入った、その箱に頬を寄せて。地獄の底から湧きあがった様な呻きにも似た声で、彼は恍惚とした表情で呟く。

「ああ……郁子。君を否定する世界など要らない……」

それは何色に喩えられるだろう。どんな音で奏でられるのだろう。その瞬間というのは、恐らく、何にも比喩が不可能なのだ。ただ、そこに在る。それだけで、存在意義という言葉など超越してしまう。底知れぬ意味を包含する具象体、一つの悲劇で、一つの喜劇。それでいて、なんてことない、ただの出来事。

祝福、するべきなのだ。赤子の誕生は、多くの場合祝福されるではないか。彼の誕生は、否定された世界を新たに肯定するのだ。これを祝福せずしてどうしようというのだろう。

篠畑はすべてを見通したかのような笑みを湛え、

「おはようございます」

その言葉にMr.は純粋に嬉しそうに頷いた。その笑顔の晴れやかさは、この場で起きていることにひどく齟齬がある。その齟齬は、ミズにさえ恐怖を与えた。綾香などはすっかり怯えて、先程から目を閉じてミズの腕にしがみついている。

「長い夢から覚めた気分です」

Mr.は安らかな声色で、静かに語り出した。

「僕はようやく僕になれた。それが、こんなに素晴らしいことだったなんて。僕は、この想いを人々にこうむるために生きていきます。郁子と一緒に。世界が僕の中で一つになった。僕と彼女は1になれた。正答を得られたんです。僕は自分の成すべきことを知ることができた――幸せです。Dr.、もう貴方の言葉も、Ms.、貴女のメスも要りません。僕は僕であるだけで、自分で在れるんだから。必要なのは永遠を歩くための彼女だけ」

ミズは眩暈と共に、初めて彼に会った日の言葉を思い出した。

「僕を、解剖してください」

あの時、必死に赦しを乞うていた弱い眼は、もうどこにもない。たった先刻、失われたのだ。それこそ永遠に。そして生まれたのは、誰の言葉も武器も必要としない強さという名の、純粋な狂気。

新たな伝説の誕生。

「Mr.、あなた、彼女の声が聞きたい?」

ミズは何かを引きとめようと、そんなことを言った。しかしMrは首を横に振り、

「聞きたいんじゃない。聞こえるんだ」
「……!」

自分の言動一つが、誰かを喪い、そして生み出すとしたら。ミズは今更ながら、己の弱さや卑怯さを呪った。

(あの時、貴方を解剖していたら、こんな舞台は疾うに終わっていたのかもしれない。あの時私が、貴方の銃を受けていれば、こんなことには。待って、お願い。貴方はこちらへ来てはいけない)

そんな想いは素直に言葉にはならない。

なぜ、人は繰り返すのだろう。命が連綿と続く限り断ち切れない因果――セイは存在し、それに嘆き、傷つき、壊れる細胞一つも、ミズには解剖できなかった。無力以上に、悪質だ。だからこそ、失ったのだろうか……目の前で泣き崩れる天使一人、救うこともできないくせに。

ミズは目頭が熱くなるのを感じた。こんな感覚、人生で二度目だ。数えられるくらい少ない体験。

ミズに涙は似合わない。たったそれだけの理由で、ミズは涙を流してこなかった。流すだけ、ロイシン・エンケファリンの無駄遣いだとすら思ってきた。しかしここでこみ上げるものにもしも意味があるとしたら、それは悔しさや悲しみの代物ではない。

赦し、認め、受け入れた結果、流れるもの。

ミズはただそうするしかなかった。儘に流れる涙は、Mr.への赦しで、認めで、受け入れで、何よりも祝福だ。

だから、ミズは伝えるしかなかった。

「――Happy Birthday」

Mr.は微笑む。

「Ms.、光栄です」

傍らで泣き続ける綾香。ミズは艶やかな唇を噛み締めた。そして無念さを隠すことなく、悪夢の首謀者にしてMr.の生みの親に、

「Dr.……」

目を潤ませたまま、ミズは美しい顔に険しさを滲ませてこう問うた。

「ご満足かしら」

篠畑の顔から、笑みがふっと消える。

「珍しく、愚問ですね」
「……」
「Mr.は、肯定のための方程式を解いただけでしょう」
「こんな世界を、肯定するの?」
「自己肯定は、誰もが欲しがる境地。言い訳、または正当化のための方便。しかしMr.はそれらが必要無い世界を拓いた。そして人々を啓いていくために永遠を歩み始めた。それがこの空間で、たった今、起こった。それだけです。僕が満たされるかどうかは、どうでもいいこと」

ミズの涙は止まらない。流れ続けるそれに、誰が意味を与えるのだろうか。それとも、流れていることに既に意味があるのだろうか。わからない。

わからなくても、そこに涙が在る様に、理など解さなくても、起きていることは現実だ。それをどう真実として受け取るかは、各々の認識の域を出ない。

世界は、それを認める個体の数だけ存在する。世界はその個の集合体であるとも言い換えられる。

なぜ、人々は求めてしまうのだろう。赦されることや、認められることを望んでしまうのだろう。赦される前に赦せばよいのだ。望む前に祈ればいいのだ。居りもしない神に向かって、満たされるために満たせば良いのだ。

「第一、僕が満たされる必要が、何処に在るのですか」
「……」

ミズにもわかっているのだ。恐ろしい分岐点に自分は居たのだと。そして見送ることしかできなかったと。

3=結びつきを必ず分解する裏切り者。
2=無視された『彼』の遺した孤独。
1=即ち、存在。
0=死。
3―1=2、裏切りから正答を消せば孤独。
2+1=3、孤独に存在を求めれば裏切り。
1×1=1、世界の肯定式。
1×0=0、不可逆にして絶対的な数式。

「Dr.、あなたは結局、何も失わないのね」

ミズは綾香を抱き寄せた。

「0からは何も引けないもの。マイナスの世界にだって絶対値が存在するんだから」

己の頭脳が疎ましい。こんなこと、理解したくなかった。

「綾香。あなたは何も悪くない」

敗北はイコール、この舞台で死を意味すると思っていた。しかし、それ以上の屈辱がミズを迎えたのだ。天使はその詩を穢され、羽を失った。揚句、ミズは己の弱さを露呈させ、舞台を止められず、みすみす認め、祝福せざるを得なかった――Mr.の誕生。

ぐったりとうな垂れた綾香を支えながら、ミズは舞台に背中を向けた。

「……さようなら」
「ええ」

応じたのは篠畑だ。

この空気に到底似合わない、芳しい香り。いつの間にとっておきのファーストフラッシュを開封していたらしい。

「また何処かでお会いしましょう」

そんな世辞にもならない約束には応えず、ミズは敗者のそれと同じ力無い歩みで、この『拘束された自由』から去ろうとする。

「――」

その歩が、止まる。もう一度だけ、Mr.の顔を見ておきたいと思ってしまった。『あの面影』を、網膜に焼き付けたいと。天使の羽を散らせてなお、そんなことを考えてしまう自分は、とんだ偽善者、いやただの馬鹿だ。

振り返れば、待っているのは裁きか。振り返らなければ、未練が残るのは明白だ。後からこみ上げてくる涙に、どんな意味を見出そうが、ロイシン・エンケファリンが分泌されようが、すべて、ただの『出来事』。

だが、満たされる必要など、何処にある?

「ありがとう、――」

ミズは瞠目した。涙がぴたりと止まった。Mr.の口から自分の名前が出されたのだ。

なぜ、その名を。そんな問いは恐らく、それこそ愚問であろう。ミズに、なぜ死者と会話できるのかと質問するのと同等だからだ。

「――、感謝しているよ」
「やめて」
「どうして? ――」

あの日と同じ、問いかけ。
やめて。やめて、お願いだから。
どうしてその声で、私を呼ぶの。

これ以上は、耐えられない。
ミズは堪りかねて、いや衝動的に振り返ってしまった。
当然、あの日の光景など、何処にも無かった。
舞台の袖で佇むDr.に、スポットライトの中のMr.。それだけ。
ミズは心底後悔した。Mrの笑顔に、やはりあの笑顔を重ねてしまったからだ。

「……Mr.、私は貴方を、許さない」
「ありがとう」
「………」

許せないのは、己の弱さだというのに。そう見透かされているようで、ミズはひどく居心地が悪かった。

ミズは今度こそ舞台から降りるのだ。背を向け、決して振り向かない。綾香の力ない歩と共に、静かに去っていく。

拘束された自由から真の自由を繋ぐドアノブに、ミズが手を掛けた。これで本当にもう、お別れなのだ。『葉山大志』と呼ばれた人間は二度と戻ってこない。

「Ms.、どうかお元気で」

メスでその喉元を切り裂いてやりたいと思った。ぐっと唾を飲み込んで、その秀麗な相貌を保ったまま、ミズは遂に残酷な選択をする。

「これが最後よ」

そう言って、彼女は若宮を指差した。

「愚かなMr.に一言だけ、与えておやりなさい」

少しだけ怪訝な顔をするMr.。しかしミズの言うところの真意をすぐさま汲み取り、ハッとして箱を開けた。

その場が凍りついていく。

Mr.は長く息を吐いた。

一言たりとも聞き逃すものかと、両目を開いて彼女を食い入るように見つめる。瞳は、カニバルのそれだ。

悪夢の首謀者もまた、興味深そうに若宮に注目した。そう、『彼女』が『彼』に何を伝えるのか。

伝えることに意味があるというのなら、伝わらないことには意味がないのか。認識されなければ、否定してよいのか。否、それは世界に拒絶されることを暗に甘んじて受け入れることを意味する。ただそこに、在る。それだけで空間を切り裂いて個の認識する世界に侵襲する。その媒体として、言葉とはあまりにも強大で、無力だ。

Mr.は傲慢な神に祈るような気持ちで、彼女の言葉を待った。歪んだ永遠を共に歩むための、『その一言』を。

――そして舞台は、あまりにもあっけない形で終焉を迎える。