最終章 誕生

彼女が告げた、彼への真のラストメッセージ。

「それでも私は、貴方を許すから」

突如として、舞台に堕ちた言葉。

「――……」

Mrが表情を一変させる。
「嘘だ」
ぽつりと、呟いた。
「君が、僕を許すわけがない」
Mrは激昂と興奮を、一瞬にして覚えた。
「嘘だ」
「――」
『彼女』は絶対的な沈黙を結ぶ。
「嘘だと言ってよ」
ミズは険しい顔でMrを見据えている。篠畑は両目に暗い燈を灯したまま、じっと舞台を見つめている。
Mr自身が選んだのだ。彼女からのメッセージを聞くことを。そうして今、『彼』は今、抗えない感情の奔流に飲まれて立ち尽くしている。

許さないで、こんな僕を。どうか憎んで。
そうして僕を、決して忘れないで。
決して、決して。

Mrの目から大粒の涙が零れる。どうしようもない体温を宿した液体が、落ちて床に染みを作った。
(僕は君を愛しているよ。だから君は僕を憎まなければならない。許してなどいけない。決して忘れてはならない、君を殺したのはこの僕だ。だからお願い、僕を憎んで。絶対に許さないで。お願い、お願い、ねぇ)
「決して僕を忘れるな!」
黙して冷たい肉塊。それがイコール彼女だ。彼女は死してなお想いを告げた。それがどんな愛情をも凌駕していることを、なぜMrは認識できないのか。それは、Mrも所詮、己がために満たされることにしか腐心できなかったからであろう。
それを彼女は断罪した。死後に言葉を紡ぐという、これ以上ない優しさで。存在を忘却し去るという、極上の残虐さで。
「それなら」
しかし愚かで弱いMrの涙は、すぐさまいびつな色に染まる。そう、彼はもう『彼』ではないのだから。存在の否定などMrの認識の上では最早、大前提だ。
「また君の世界に、僕が認識されるために――」
個の認識を超えない世界を縛るもの、
「この世界の愛と正義をすべて否定しよう。そうすれば、君と一つになれるでしょう? その『正解』を探しに行く」
Mrは、彼女に、そう言った。涙に濡れた顔を拭うこともなく。
「答えは何処かに在る筈だよ。多くの詩人も喚いている……明けない夜は無い、都合のいいように解釈すれば、世界はどこまでも美しいんだ」
Mrの一挙手一投足を、ミズと篠畑は見守る。最早それしかできない。演出家は舞台が始まったら演技に口出しできないし、観客は舞台が終わるまで見届けることしかできないからだ。
そう、ここからMrの舞台が始まる。新たな都市伝説の誕生。訪れたオーヴァーチュア。そこに至るまでに払われた犠牲は、あまりに多大だ。
彼ら彼女らの命が散ったことに理由を求めるとしたら、ただ一言。篠畑に言わせれば、
「幕は上がった……」
この瞬間を迎えるためである。
Mrは、生まれたての命がそうであるように、誰からも祝福され、いびつな存在がそうであるように、忌まれる運命を選んだ。
Mrは涙を流しながらニコリと微笑み、DrとMsに別れを告げる。さらに若宮に近づくと、
「これは君が持っているのが相応しいから」
そう言って、ナイフを若宮に手渡した。死んだ瞳が彼を見つめる。
「ありがとう」
篠畑は手を振って応じた。ミズに笑顔はない。篠畑の、
「いつかまた、何処かで」
という約束にもならない言葉に、Mrはゆっくりと頷いた。その姿が見えなくなるまで、誰も、何も言わなかった。
やがて、舞台を演出し終えた篠畑は、ロッキングチェアに身を沈めた。その直後、綾香は両手を組んで祈るような姿で、歌を歌いだした。
澄んだ、それでいてとても悲しい声色。それをBGMに、舞台は一気に終焉へ傾いていく。
「―――Début!」
ミズは渾身の力でもって、若宮にメスを向けた。バネのように弾んだ動きで、ナイフを手にした若宮は、切っ先を篠畑に向けたまま彼に覆いかぶさった。返り血を浴びても、若宮は表情一つ変えない。
「なるほど……」
吐血しながら、篠畑は笑った。
「こうして、……ミズ……あなたは、僕を永遠にするのですね……」
「黙りなさい」
「言われなくても……もうすぐ……」
若宮の頬には、一筋涙が伝っている。綾香はあまりの出来事に、壁際で怯えながら言葉を発した。
「ミズ、あなた、なんてことを」
「うるさい! これ以上、私に愛を向けないで!」
叫ぶミズと対照的に、微笑む篠畑。彼は若宮を抱きしめると、
「……一緒に、逝きましょうか」
最期にそう遺した。