風が吹いている。彼女はその美しい髪を任せてなびかせる。春がやってきた。
この魔都市にも、相変わらず季節は巡る。時が漫然と進んでいる。誰もそれを止められないし、いちいち気にもしない。彼女だってそうだ、目が回るほどに忙しい日々の中で、季節の変わり逝く様をこころに留めることなど、意味がないと認識しているのだから。
嫌味なくらいにうららかな太陽と、一寸の静寂も与えない鳥の喚声と、優しすぎる風。何もかもが微妙にずれても軋んで回転する歯車のように、彼女には新しい時間が流れ始めている。
彼女はふと、颯爽とした歩を止めた。
春さながら、蠢く虫どもの知らせか。
いつもの手順でその部屋に入った彼女は、いつも通りに準備をすると、いつも通りに被された水色のシートを外した。
――息を、飲んだ。
でも、どこかで確信があった。
だから、懐かしいその面影に語りかけるように、彼女は言う。
「……おはよう」
解剖台の上に横たわる『彼』。だが、彼女の挨拶に彼が応じることはない。あれ以来もう二度と、死体達は彼女に話しかけなくなった。
彼女は使い慣れたメスで、最初に死体の両目を刻んだ。
もう絶対に、光など求めないように。
次に、唇を糸で縫った。
もう決して、ぬくもりを求めないように。
仕上げに胸元にメスを入れようとした、その手がふと止まり――
「……さようなら」
冷たく硬まった屍肉の上に、熱い雫が落ちた。
主を失った『拘束された自由』の空間は、静かにその舞台の終焉を物語っている。別れを代弁するかのように、空になった紅茶の茶葉入れの缶が、彼の愛用した机に転がっている。
彼は、弱かった。
弱さゆえに、最期まで満たされなかった。
弱さゆえに、自分すら信じられなかった。
弱さゆえに、愛と正義を否定し続けた。
だが舞台は、ここに終わった。
彼女は結局、観客としての使命を全うしたことになる。ラストまで見届け、舞台が終了した後はカフェなどで感想などを話すのだ、仕事帰りに六本木で、アイスティーでも傾けながら。
彼女の目の前から去って逝った者たち。ある者は己の愛と正義を信じ貫き、ある者は愛に祝福されて愛を歌い、ある者は世界に否定されて世界を否定した。
誰の笑顔も思い出せないのは、何故だろう?
何故、彼らは去ったのだろう。
何の為に、その命を散らせたのだろう。
もう、誰にも知る由が無い。知らずとも、この魔都市は蠢いていく。
そうだ、彼は口癖のように言っていたではないか。
「謎は謎のままが、美味です」と。
彼女はその言葉を噛みしめるように、心の中で幾度も反芻した。
アイスティーのグラスが汗をかいて、太陽が完全に沈んだ頃、彼女はようやく席を立った。あの舞台に別れを告げるために、伝票の裏に、Bye とだけ走り書きして。
突然ですが、あなたは誰かを愛していますか?
その愛は、誰の正義を肯定するためのものですか?
決して、忘れないことです。あなたの主張し縋るその愛と正義を肯定する世界は、己に都合のいい方向へ傾き、あなたをいびつな方向へと導くでしょう。それはつまり、他者の愛と正義を凌辱する行為そのものです。
ほら、寂しいでしょう? お話なら、いくらでも聞きましょう。どうぞこちらへ――。
END