天使の羽を炙ったら、どんな匂いがするだろうか。神の遣いの歌声を逆再生したら、どんな音がするだろうか。
あらゆる嗜虐を見てきたミズにとっても、この決断には時間がかかった。誰の、何のための舞台だろう。そもそも自分自身、東京では都市伝説だなんて呼ばれる、くだらない存在だ。そんな自分が下す決断が、誰かの人生を左右する、それがどれほどの大罪かなんて、考えたこともなかった。メスで切れないものなどないと、ずっと思ってきた。全てはメスで決まるとすら思っていた。
しかし、自分の存在そのものが誰かの、具体的には愛した人間の面影を感じる『彼』の、今後を決めてしまうとしたら。
ミズは自らに宿る不条理な属性を呪った。自分がそこにいても、いなくても、彼にとってそれが決定打になってしまう。
伝えることに意味があるとしたら、そしてその意味が「未来」なんてものを紡ぐとしたら。
今までの自分ならば、バカバカしいと一笑に付しただろう。「他者の肩に掛けられるほど、貴方の未来とやらは軽いのかしら?」と。
だが、若宮郁子の『死』と、葉山大志の『決意』がミズを徐々に変えつつあった。だからこそ、迷いが生まれた。本当にいいのだろうか。正しいこととは何だろう。正義とは誰の胸に仕舞われているのだろう。何故、人はセイを紡ぎ、セイを繋ぎ、それを愛だと叫び続けるのだろう。
今までどれだけの人間が、愛に辿り着けずに果てていっただろうか。愛という名のもとに溺れ滅んで逝っただろうか。
こんなことを迷うような自分ではなかったはずだ。しかし、ミズは頭痛を覚えるほどの迷いの中にいた。迷っているということは即ち、どちらにも可能性を残しているということである。
その場所へ行くか、行かないか。極めて単純な二者択一。
「ミズ、顔色が悪いよ」
綾香は心配そうにミズに氷水を差し出した。
「……平気よ」
「嘘。ミズは強がるときに瞬きが増えるもの」
それを聞いたミズはふっと笑い、
「私は、貴女の前で強がったりしたかしら」
綾香は、けろっとした顔で
「いつものことじゃない。特に『お仕事』の前なんて」
「……」
ミズは艶やかな唇をくっと上げた。
「強がりついでに、弱音も捨てていいかしら」
「どーぞ」
ミズは綾香の顔を自分の胸元へ導きながら、栗色の髪をなぜる。息を長く吐いて、天井を見つめながら呟く。
「因果な商売よ」
「そうなの」
「いつまで私は……罰を受けるのかしら」
「罰?」
「そう」
ミズは、憂いの瞳を瞬かせる。
「死者との会話。楽しいと思ったことなんて、一度もないわ」
「うん、すごいとは思うけど、気味悪いね」
「綾香。貴女は素直すぎるわ」
えへへ、と微笑む綾香の額を撫でるミズ。その白さと反比例して、彼女の手は赤黒い血で汚れている。汚れすぎている。ミズは躊躇する、そんな手でこの天使に触れてもいいものかと。だが背徳にも近いその感情は、ミズの偉大なる傲慢の前に正当化される。
死者との会話。呪われた因果律、とでも表現しようか。
倫理的にどうこうという次元の話ではなかろう。実際にミズは死者と会話できてしまうのだから。
しかしミズは思う、死者の腐食しゆく粘膜から零れる言葉は、生ける者が無神経に吐き出すそれよりもずっと美しいと。一線を越えたものが紡ぐ人生というのは、常に美しくあるのだ。もっとも死者の「人生」というのも甚だ皮肉な表現だが。死者たちには、道が一つしかない。朽ち果てる未来しか。
散るからこそ美しいのは、花だけではなかろう。砕け散ったガラス片の方が、光を反射して煌めくではないか。人間の肉体、そして精神とて同じ。崩壊した後に、いかに輝きを増すかに耽美心を見出すという意味では、もしかしたらミズも同類なのかもしれない。他でもない、『都市伝説』と並び称される篠畑礼次郎と。
ミズ自身、自分にはまだ、良くも悪くも人間らしい部分が残っていると思ってきた。だから、こうして迷うし時として誤る。人に傷つくし人を恐れる。だから強がりが必要だったのだと。
だが、ミズは気づいてしまった。疾うにその領域を超えてしまっていた自分に。
迷う。
誤る。
傷つく。
恐れる。
――それが、何?
ミズは徐々に不思議な可笑しさがこみ上げてきて、それをそのまま表現するように「ふっ」と笑った。
綾香はやや驚いた様子で、
「ミズ、何が可笑しいの」
「自分は、とんだ存在だと思ってね」
「今更?」
ミズは不敵な笑みと艶かしい瞳で綾香を見つめた。綾香は首を少し曲げてそれを見つめ返す。なんとも不可思議な光景だ。
ミズは白い両手で綾香の肩をなぞると、そのまま首をそっと撫で始めた。
「天使を屠る罪は、どんな味かしら」
綾香はただ、目をつむって抵抗一つしない。黙ってされるがままだ。
「苦しい?」
「……」
綾香は首を横に振った。
「そう」
ミズの手に一層力が入る。綾香の額よりも先に、ミズの手に汗が滲んだ。
「……」
「……」
華やかな空間に不穏極まりない空気が流れる。ミズはまるで自分が首を絞められているような息苦しさを覚えた。
「お願い……」
天下のミズと言われる彼女にしては珍しく、懇願するように言う。
「綾香。一緒に、来て頂戴」
「……」
「『拘束された自由』へ」
首を撫でられたままの状態で、綾香は緩やかに、ピンク色の唇でこんなことを言った。
「ミズ、……怖いの?」
「かもね」
「そう」
会話を楽しんでいるような余裕すら感じさせながら、綾香は、
「可愛いね」
そう悪戯っぽく笑った。そんな彼女を堪らなくなって解放するミズ。咳き込んだ綾香の体を支えるようにして、そのまま抱きしめた。
「天使。その羽を散らせたのは誰?」
呼吸を整えながら綾香が、くすりと笑う。
「綺麗な、雪の日、だったよ」
「逢わせてあげて。あいつに」
「どうして?」
「せめてもの罪滅ぼし、かしら」
自分の言葉にミズは自嘲する。天使を利用して自分の罪を消すことなど、できはしないのに。しかも自分は今、更なる罪を犯そうとしているのだ。
私が今、あの空間へ行けば、『彼女』と『彼』は再び言葉を交わせるようになるだろう。だがそれは果たして、正しいか否か?そしてそれは誰が決めることなのか?
別に自分は、いつも通りにクリニックで診察をすればよいのだ。誰も義務を求められてはいない。いつも通りに診察をし、いつも通りにあちらの仕事をこなし、死者と会話し、打ち捨て、知らん顔でシャワーを浴びればよい。そう分かっているのに、それでも自分を今の世界から離さないのは、あの日真っ黒に焦げて現れた『その面影』の持ち主のこと。
……何もかもが今更なのだ。だが、目の前の天使は、舞台の首謀者を葬るかもしれないと、ミズは半ば本気で考えている。少なくとも、ミズの認識する世界において、悪夢の演出家が完全なる敵となった今となっては、綾香は打って付けの道具であった。しかし、人間を「利用する」という意味で、憎むべきあの男と自分は、一体何がどう違うというのだろう。
そして自分は、いつまで『面影』を求めているのだ。そんな自分も全て、『彼』を救うことで他でもない自分が許せるのならば。その救いが、いわゆる狂気の向こう側にあったとしても、『彼』の世界を今度こそ、彼自身が認識できるようになれるのならば―――私はいい加減、己の弱さを認めてもいい。
「行きましょう、綾香」
「うん」
ミズのクセだろうか、それとも習慣なのだろうか。彼女は強がるときには左からハイヒールを履く。ヒルズのショップで気まぐれに買った赤い一足をおろし、やはり左から足を入れた。それを見た綾香は笑って、
「都市伝説も乙女だね」
「そんなもの、衆生が勝手に喚いているだけよ」
「おお、気高きミズよ」
「ちゃかさないの」
「うん」
そう言って綾香は、ちょこっと首を傾げ、
「気が向けば、唄うわ」
そう言って微笑む。そんな彼女を、ミズは玄関先で抱き締めた。