最終章 誕生

「篠畑礼次郎。罪状・医師法違反で逮捕する」

そう告げた恭介は、夕暮れのクリニックで一人カルテに筆を走らせていた篠畑に告げた。更に何かを乞うように、言葉を続ける。

「付け加える――自殺教唆もだ」
「そう」

静寂の中に、ペンのインクが滲むような沈黙が落ちる。

「僕、捕まるの?」

とぼけてみせる篠畑に、恭介は自分が今掲げている逮捕令状を破り捨てたい衝動に駆られた。捕まるのなら、自分が先だとわかっているからだ。自分は他でもない、愛する人を殺した。しかしその事実は、目の前で今カルテに書きものをしている男だけが知る秘密であり、彼が守秘してくれているおかげで自分はこうして彼を逮捕しに来られたのである。

なんという、皮肉だろう。
篠畑はため息をついた。

「じゃあもう、君を診られないね」

その言葉に、恭介の顔色がみるみる青ざめる。

「他の医師にでも処方はできるよ。紙一枚に薬の処方を書き込むことは」

でもね、と篠畑は寂しそうな目で、

「君を診られるのは、僕以外にいない」
「黙れ」
「本当にいいの? 僕を捕まえることは、君にとって自殺行為だ」

篠畑はカルテから目を離さず、

「君は、自分の罪を告白する勇気があるんだ」

首を横に振りながら、

「無理だろうね。君ほどの権威ある人間が、一人でわざわざ現場に来ること自体、君の弱さの露呈に他ならない」

篠畑は頭の後ろで手を組み、背伸びをした。

「せっかく一緒に、十字架背負ったのに」

そして足を組みかえて、

「恭介。君と秘密を共有するのは、とても楽しいよ」
「黙れと言っている」

そう言った恭介の頬が、瞬時に引き攣った。篠畑が一瞬だけ、死神のように冷酷な目をしたからである。ややあってから篠畑が徐に告げた。

「過労による自殺」
「何?」

ペン先で恭介を指しながら、

「君の、死因」
「何を言っている」
「ドラマチックに、Route No.1にでも飛び込もうか」
「バカバカしい……」

吐き捨てる恭介。篠畑はクスリと笑った。

「決して、忘れないことだよ。君の犯した罪の重さを」

そして近くにあったメモ用紙の裏に、さらさらと『promise』と書き記し、恭介に見せた。

「君は……、雪の降る日に、自ら命を絶つでしょう」

医師の口調ではなく、『耽美なる死を導くもの』のそれで、篠畑は断言した。

「最後の約束だよ、恭介。君はこの言葉を必ず守る」
「約束?」
「そう。約束。それを守ることが、君が唯一救われる道だから」

篠畑の眼に、暗い光が燈る。

「こころのままに、逝くがいい」

布石なら敷いてきた。もう充分だろう。恭介は、篠畑が千枝の死をきっかけに警視庁を辞めてから開業した、最初の『患者』なのである。

篠畑の言葉は、今この瞬間、恭介の海馬に刻まれた。器官が潰されない限り決して癒えることのない、心の傷として。

「黙れ!」
「君が守った正義も、なかなか面白かったよ」
「黙れ、篠畑」
「傷つく程度の箱庭は、とても温かかったでしょう」

恭介は首を横へ、何度も振った。しかし篠畑は動じない。

「逃げ続けた者の辿り着く道は一つだよ。わかっているでしょう」

篠畑の顔から笑みが消える。それはまるで、死神が讃美歌を歌うかのような、皮肉や欺瞞をも凌駕する力。

恭介は息を飲んだ。

「僕を迎えに来るのに随分と時間をかけたね、恭介」

呼ぶその名は、何を宣告されるのか。

「25年。尊属殺人ですら時効だもの。ましてや、ね」

篠畑は白衣の襟を整えたかと思うと、両手で顔を覆うようにして頬杖をつき、

「幕が上がる……」

そう言って、笑いだした。

「篠畑、お前――」

恭介は篠畑の言葉に純粋な恐怖を覚え、続けるべき言葉が継げない。ただ、地獄の底から湧き上がるような絶望的な篠畑のテノールの笑い声に、恭介は心臓がはち切れんばかりに身を震わせ、

「わ、悪かった」

その場で篠畑に縋りつくように一言、そう漏らした。しかし篠畑の笑い声は止まらない。恭介はこの数秒間が永遠に続くような錯覚を覚えた。

「許してくれ、頼む」
「許す?」
「頼むから、」

篠畑は堪らないといった表情で、細い指先で恭介を指しながら、

「それを僕に乞うんだ」
「あ……」
「千枝さんじゃなくて?」
「うるさい!」

感情の臨界点を迎えた恭介が叫んだ。逮捕令状をヒステリックに破り捨てる。篠畑は首を傾げ、

「あーぁ、大切な書類だろうに」

そう嗤った。

「そういえば、お嬢さんが入庁されたようだね」
「頼む、篠畑。郁子には手を出さないでくれ」

篠畑は椅子の背にもたれながら、指先でくるくるとペンを回し、

「約束したじゃない。覚えてないの」
「……?」

まるで優しい天使のようにニコリと笑う。

「僕が、護るって」
「篠畑……! お前は変わってしまった、もうあの頃のお前は死んだんだ! お前は狂っている、あんな約束、もう反故にされたも同然だ」

篠畑は一転して、その穏やかなテノールで仄暗い嘲笑を放ちながら、

「心外だなぁ。せっかく作ってあげたのに」
「『作った』?」
「赤いファイル。君からもらった情報で」
「何の話だ」
「あらら、本当に覚えてないの? わかってはいるけど、面白いね」

恭介は、筆舌に尽くしがたい不安にかられた。この男は一体、何を言っているのだ?

「恭介。君はなぜ僕のもとへ受診していたんだっけ」
「それは……」

恭介が力なく、

「お前の話では……神経症の一種だと……」

そう訴えた。篠畑はよくできましたと言わんばかりに白々しい拍手をする。だが、篠畑は意外な言葉を続けた。

「そう。君は千枝さんの一件で神経症になった。……便利な言葉です。大抵の『正常からの逸脱』状態には大抵この表現が利用できる。恭介、君に精神医学について話してもしょうがないし、もったいぶっても今更だから、いっそわかりやすく言うけどね」
「何だと?」
「君は一度も僕に、診断書を書けと言わなかったでしょう。でもね、もし書けと言われていれば、僕はこう書きました――『解離性妄想障害』と」
「何だ、それは」
「『君』には何度か説明したんですけどね……。だって『君』は何度も訴えるんだもの、『俺は誰だ』って」
「何の話をしている」

そう言う恭介の表情が、徐々に引き攣ってくる。

「だから教えてあげました、『君こそ、正義だ』と」

そうだ。俺が正義だ。

恭介は突如、激しい頭痛に襲われ、その場に立っていることができなくなった。ドアにもたれるようにして、

「く……あっ……!」

苦悶の表情を浮かべる。篠畑はあくまで冷静に、

「薬が切れてきたのかな、それともこの言葉に『反応』しちゃった?」

そうクスクス笑い、

「じゃあ出てきてもいいですよ。お話しましょう、土竜さん」
「何を……言って……」
「太陽に嫌われた、哀れな存在」
「うあああ!」

恭介の至って滑稽な絶叫が、孤独を嗜好する診察室に響く。

「苦しいの? 恭介」
「篠……畑ぁっ……!」

恭介は激痛の中、目を剥いて篠畑を睨みつけた。しかし篠畑はため息混じりに、こう宣告する。

「愛を知らない正義は、ただの暴力だというのに」
「何だ、これは――」

恭介の中にいつしか生まれた、愛する人を手に掛けた罪悪感が、愛に飢えた存在を生み出したとしたら。それは間違いなく太陽に嫌われた土竜の姿形をするだろう。

土竜は生態的に盲目だ。真実の愛とはどこまでも盲目である。そして盲目の正義を、無力な人々は振りかざす。すなわち、土竜が恭介の、いや孤独な人間の真の姿、本質なのである。

「おいでなさい」

篠畑はしなやかな指をパチンと鳴らした。

それを合図にしたかのように、恭介の自我意識は途切れる。バネで弾かれたように恭介の体は脈打ち、生々しい音を立て、両手先には禍々しい3本の鋭い爪が生えた。

恭介は虚ろな目で中空をしばらく見つめる。それを微笑みながら観察する篠畑。

「……」

やがて、『彼』はゆっくりと立ち上がると、

「……聞いたぞ」

そう呟いた。

「出来上がったんだな?」

篠畑は満足げに頷き、

「ええ。選んだのは、何の因果でしょうね、貴方の……いや若宮恭介の娘さんと同期の子です」
「ほう」
「貴方の部下になる子ですよ」
「どんな按配だ」
「不安定な自我と強い罪業妄想の持ち主です。そしておそらく、『こちら側』になる人間でしょう」
「ふん……」

恭介は、いや土竜は鼻を鳴らして笑った。

「要するに、そいつも世界に否定されるんだな」
「ええ。貴方や僕のように」

土竜はニヤリと笑うと、篠畑が差し出したファイルをめくり、そこに記されていた名前を指で、いや爪でなぞった。

こうして物語の幕は確かに上がった。世界に否定された者たちの復讐劇として。