最終章 誕生

愛を肯定する者たちの口元には何故、常に笑みが張り付いているのだろう。それも、口角部の筋肉を上向きに攣った様な。
愛に肯定された者たちの目元はなぜ、だらしなく垂れ下っているのだろう。それも、こめかみの筋肉を弛緩させた様な。
否定された者たちは思う……愛を謳う者たちの呆けたさまに、世界はつけ入るのだろうと。愛の信奉者が認識する世界とは、愛という道具で洗脳された結果の産物だということを、彼らは激烈な痛みを以て知り尽くしている。知る者の意識は世界を紡ぐ。愛など必要ない、新たな世界を。
「僕らはいわばガン細胞の様なものです」
篠畑は白衣の襟を整えながら、医師らしい口調でそう言った。
「愛に溢れた世界において、否定された部分。必然悪とでも言いましょうか。敢えてそういった表現をしますが――善と悪は、美しいか否かだと考えれば多少の語弊はありますがね。僕らは、孤独の素数『2』だ。そうでしょう、Mr」
葉山はそれを聞いているのかいないのか、紅茶を片手に、もう片手で『彼女』の髪の毛を弄りながら頷き、
「うん」
短く応答した。子どものように無邪気で、密漁者のように強かで、欲望に極めて素直な状態の葉山。彼は、篠旗の淹れたファーストフラッシュを一口飲んで、カップを若宮の唇に押し当てる。ボタボタ滴る紅茶が葉山のスーツに染みを作るが、彼はそんなことは気にしない。彼は人形遊びに夢中なのだ。
その様子を楽しそうに見つめる篠畑。
「簡単な足し算です。小学生にでも理解できましょう、個と個を足して孤独。孤独な素数は2。しかし孤独は足すことができません。2+2=4、即ち『死』だからです」
葉山は、『死』という単語にぴくりと反応して、ぽつりと
「でも、僕らはそれを越えるから」
呟いた。
篠畑はわざとらしく深呼吸して、白々しい拍手をする。
「さすがですねMr、よくわかってらっしゃる。いや、理解したというよりは、実感をされているのでしょうか」
葉山は不思議そうに篠畑を見る。言っている意味がよくわからないことを、隠すことなく伝えているのだ。篠畑は尚更楽しげに、
「考える必要はありません。感じればいいんですよ、君のその純真な心で。自由に認識すればいいし、解釈していい。その結果の一つが若宮郁子の死だった。それは決して変えることのできない事実ですが、それをどう捉えるかはご自身次第ですからね」
葉山はしばし、若宮と見つめ合った。いや一方的に凝視した。愛した人の肉塊に、じっと見ているのだ。そして、
「郁子。のど乾いた?」
その様子を「狂っている」と片付けるのは容易だろう、肯定された者の漫然とした正義の前では。だが、篠畑は思う、このように美しい光景は、理解し得るものだけが理解できればよいと。
「せっかくのお茶の時間です。楽しい昔話を、もうひとつして差し上げましょうか」
葉山はそんな篠畑の言葉には反応せず、若宮の首元を撫でまわしているのだが、篠畑はそれでも十分で、むしろ彼の瞳の色が仄暗い光を宿していることに、満足を越えた一種の快楽を覚えた。
「君の中にいる、『彼』の昔話です」
篠畑は紅茶を一口飲んでから、ロッキングチェアに腰かけて足を組んだ。懐かしい友人との楽しい思い出話でもするような口調で、
「雪の日でした」
心底嬉しそうに、篠畑は話し始めた。
「若宮恭介『事故死』の一報が入ったのは」