「確か日本橋交差点だったかな。スピード違反のワゴン車が、『信号を待っていた若宮恭介に突っ込んだ』そうです」
それを聞いた葉山は、まるで子どもをあやすような口調で、若宮にこう話しかけた。
「……郁子の、お父さんの話だね」
彼の手の中の若宮は。言葉を発することはない。篠畑は息を吐いた。
「……ああまで約束に忠実な男だと、つくづく惜しい人間を失ったと思いますよ」
心から楽しんでいるのだろう、無邪気に笑いながらそう言う。
「あの日確かに幕は開きました。即ち、愛に背かれ自分の中に己の正義を作りだした『土竜』の誕生と共に。そこへ君が入庁してきたのは、偶然という名の運命とでも言いましょうか」
葉山は若宮の唇を指で弄っている。篠畑はそれを一瞥すると、
「彼女は本当によく踊ってくれました。最高の主演女優でしたよ。君のパートナーに相応しい、ね」
「……」
依然として葉山は無表情のままである。
「よかったね、郁子」
「しかし開いた幕はいつか下ろされる。では、如何なる形が御望みでしょう、Mr?」
「……」
葉山の虚ろな目が、篠畑の暗い光を捕える。篠畑は葉山に微笑みかけ、腕を伸ばすとそっと頬に触れた。
「君は、至高のアクターです」
「……」
「詠いなさい。他ならぬ君自身の愛と正義を。それは間違いなく既存の世界を否定し、このような認識を是正するでしょう。強大な力となって破るでしょう、愛に肯定された平和な人々が賞賛する『希望』とやらを」
葉山は首を抱きしめると、駄々をこねる子供のように首を振り、
「僕には、何も、できない」
「そんなことはありませんよ」
「できないよ」
その返答に、一転して篠畑は厳しい口調で、
「これは、演出家命令です」
そう言った。尚もおずおずと口ごもる葉山に、篠畑は片眉を上げ、先程まで優しく触れていた手で、軽く葉山の頬を打った。
「――っ」
「痛いですか?」
「痛い」
「それは、君が生きている証ですよ」
あまりにも素直な反応に、篠畑は純粋な好奇心からもう一度葉山の頬を叩いた。呆然とする葉山。
「ほら。感じる痛みが生の証ならば、生きるとはつまり、あらゆる刺激に耐えることに他なりません」
「あっ」
呆けた声を漏らす葉山。
「君は、生きるんでしょう? 彼女を差し置いて」
「あ、あ」
「ならば、感じなさい」
されるがままに頬を打たれ続ける葉山。
なんという光景だろう。惚けた葉山の両手から、無情にも若宮が離れる。
「あ、あ」
人間が堕ちていく瞬間や過程というのは、恐らくこのように陳腐で淫靡なものなのだろう。葉山は徐々に目に涙を浮かべ始める。それは誰のための涙なのか。ただの欲望の凝縮体ではないだろうか。
若宮郁子は死んだ。死してなお、篠畑に利用され、葉山はみたび己を失ったというのか。否、篠畑に言わせれば、今のこの姿こそが彼の本来の姿であり、それを表現することを邪魔していたのが、人間が本能を正当化させるために身に付けた『理性』であって――それを剥ぎ取るのが篠畑の「人形遊び」であるのだ。
黙したまま葉山を見つめる若宮。それは愛しい人。生と死の狭間に在る不可逆の現実は、葉山をこうも歪ませてしまったというのか。
彼だけではない。篠畑礼次郎その人もまた、愛した人の死によって、愛に背かれ、世界に否定された人間なのだ。独善的な正義は毒然である。篠畑と葉山はさながら、悪夢の演出家とそれを体現する役者だ。
演出家は冷徹に命じる、
「その声で、詠うのです。このような世界を肯定する天使の羽を燃やしなさい」
しなやかな指先で、物語の結末を指し示しながら。
「Dr……僕は……」
「詠いなさい」
静寂の中に、頬を打つ乾いた音と、葉山の無抵抗な声だけが響く。
その陰惨でどこか官能的な空気を引き裂いたのは、艶やかで透き通ったこの声だった。
「人形遊びは楽しいかしら、Dr?」
篠畑は手を止めて、声の方へ視線だけを向けた。
「……おや」
邪魔されたと言わんばかりの不快感を露わにして、篠畑は声の主を出迎える。
「やはり、いらっしゃったんですね、ミズ」
「お楽しみのところ、悪いわね」
ミズは不敵に笑う。事実、ミズに敵などいるだろうか。目の前の演出家でさえ手を焼く、とんだ高潔な観客ではないか。
「葉山クン。随分と『晒しちゃってる』わね」
艶やかな唇でそう嗤った彼女は、どこで入手したのか、羽毛で覆われた白い鎖を持っていた。ジャラジャラ音を立てて床を這っている。それを辿ると、一人の女性―――綾香の首元へ繋がっていた。綾香は置物のように、それこそ天使のように静かに佇んでいる。白い頬を、少しだけ赤らめて。
それを見た篠畑の片眉が上がった。
「いい趣味をしていますね、ミズ」
「お互い様よ」
奇妙な沈黙が落ちる。赤いワンピースと白のロングスカートという、一見対照的なミズと綾香だが、この殺伐とした舞台に見事に花を添えているようだ。華やかかつあでやかでありながら、嫌味がない。
先手を打ったのはミズだった。ミズは相貌をそのままに、こんなことを言ったのだ。
「綾香。いえ天使。彼らを否定しなさい」
「んー」
綾香は口元に人さし指を宛て、ほわっとした笑顔で
「ごめんミズ、今はまだ歌えない」
「そう」
ミズは綾香を責めるどころか優しく頭をなぜた。そして、
「しょうがないわね」
打つ手ならまだあると言わんばかりに、ミズはつかつかと篠畑と葉山に近寄っていく。惚けた表情の葉山と、少し警戒しているのかやや目を細める篠畑。ミズは、葉山から少し離れて立っている若宮に近づくと、
「それならこの子に歌ってもらおうかしら」
そう言って、彼女の唇に触れた。
「――!」
一転して、はっと息を飲む葉山。呪縛から解かれ、新たな呪いを受けた人形のように、ガチガチと歯が震え始める。
死者と会話するミズのことだ、彼女の意思にすら関係なく、死せるものたちは『その後の会話』を始める。だとしたら、『彼女』もまた――
「この子とおしゃべりしたい? Mr」
ミズには誘惑がよく似合う。それにしても酷な質問である。葉山は首を縦以外に振れない。
「あ……、う……、あ……」
思うように言葉を発せられない中で、ようやく彼の口から漏れたのは、
「……声を」
という一言だった。
ミズはニヤリと笑い、
「そう。聞きたいのね」
勝ち誇ったように篠畑を見やった。
「Mrはそう仰ってるわ。いかがかしら、Dr?」
しかし、というか当然ながら篠畑は動じない。不快感はそのまま表現し、それでもどこか余裕を感じさせる笑みを浮かべている。
「ご自由に。主役に任せてあげましょうよ」
「そう。随分と放任主義な演出家殿ね」
「鷹揚なのですよ。貴方と違ってね」
ミズの嫌味も篠畑は嫌味で返す。何とも湿度の高い舞台である。
当の葉山は、目を見張ってミズに抱かれた彼女を凝視している。未だ黙している愛しい人を、まるで拐かされたかのように、視線だけは追い求めるのだ。しかし無力な両手は空を掴んでいるだけだ。
ミズはそんな葉山を鼻で嗤うと、彼を挑発するかのように若宮の服を鷲掴みにし、背中に穿たれた無残な傷口(と簡単に呼ぶには残酷すぎる)を彼に見せつけた。
「『死』は、ここにあるわ」
変色した血肉。それは不可逆の事実を物語っている。
そんなミズに対して、ごく素直な反応を示すのが綾香である。
「うわー、始めてみたよ、ヒトの死因なんて」
「もう二度と貴女には見せたくないわ、綾香」
微笑む綾香の笑顔は、天使のそれだろうか。
「さぁ。選びなさい。引くか、弾くか」
それは宛ら急所にあてがわれた銃のトリガーの選択。迫るのは、艶やかで高慢な唇。
篠畑はじっとその様子を見ている。舞台を統率する演出家の、そして患者を観察する医師の眼で。
葉山は苦悶の末、ぼそっと呻いた。
「ミズ、貴方は、鬼だ」
「私が?」
あまり笑わせないで、と前置きしてから、
「私が鬼なら、Drは差し詰め悪魔かしらね。葉山君、あなた人間関係に恵まれすぎよ」
ミズは葉山をなだめるように(それも白々しいのだが)、
「Drに孤独とやらの足し算と習ったようだけど。残念ね。それは間違い。何故、『2』が孤独な素数と呼ばれるかご存知?」
首を横に振る葉山。視線は生首に釘付けのまま。ミズはわざとらしいほど優しい口調で、こう断言した。
「『2』はその実、掛け算でもあるの。足しても掛けても『死』になる。生きようと前に進めば、死にいずれ辿りつく。√4は2。死を解剖すれば、孤独になる。そういうことなの」
ここで篠畑が少し興味を示したのか、口を挟んできた。
「ユニークな論理ですね。しかしミズ、ここで貴女とディベートをするには間と場が悪すぎる。そう思いませんか」
「そうね。六本木でも相当妥協したんだもの」
「そうですか」
思わず苦笑する篠畑。公費で養われている身としては少々耳の痛い話だったようだ。
ミズは鎖を冷たい床に打ちつけるようにして、ぴしゃりと音を鳴らした。
「Mrのご生誕を記念して、私からも贈り物があるの」
そう言うと、ミズは華やかな胸元からメスを取り出した。
「それは……?」
驚いたように反応する葉山。
「見覚えがあるわよね。ええ、その筈よ」
「僕のだ」
子どものように手を伸ばす葉山の腕を、ミズは華麗に掃った。
「がっつかないで。見苦しくてよ」
高慢も、ここまでくれば芸術ではなかろうか。無様な格好を晒した葉山は、おずおずと腕を引っ込めた。篠畑も多少は驚いたようで、しかし恐ろしく回転するその頭脳ですぐに状況を飲み込み、
「……用意周到ですね」
そんな軽い皮肉を吐いた。ミズは余裕で目を細めるばかりだ。
「容赦は、今更必要無いわよね」
そう言ってミズは、本当に容赦なく、また相手に狼狽する隙も与えずに若宮にメスの切っ先を向けた。何が起きるか。そう問うのは愚かだ。
誰もが、そう、誰もが息を飲んだ。葉山はもちろん、篠畑でさえ。悪夢の舞台はここで全てを断裁され、断罪されるというのか。
贖罪の方法などもはやどこにも無いのだ。彼女は死んだ。それは揺るぎない事実である。そしてそれを認識の上で否定して、セイと死を凌辱した罪を、今こそ彼らは問われるのだ。それは他でもない、愛した人の紡ぐ言葉によって。これを悲劇と呼ばずして何と呼ぼうか。
飲み込んだ唾が鉛の様な気がするほど、冷たく重かった。葉山にとっては生き地獄の様な沈黙の後、ピチュ、と誰かが唾を飲み込む音ののちに、それは聞こえてきた。
それは、まるで穢れを落とすような清音。静寂に舞い降りる、唐突すぎる「メッセージ」。
「決して、私を忘れないで」
若宮が、ミズの力によって言葉を紡ぎ始めたのだ。
「あ……!?」
葉山の眼球がぐるぐると動き回る。焦点の定まらない目で、何かを探しているようだ。
「寂しかったでしょう」
「いく、こ……?」
「ごめんね」
「郁子なの?」
「私、死んじゃった」
「………………」
「けれど伝えなきゃ、想いまで死んでしまうから」
「………………」
「どうか忘れないで」
「―――――」
「貴方を、愛しています」
カツンとあまりにも無機質な音がして、ミズがハイヒールを鳴らした。後には恐ろしいほどの虚無が、葉山を待ち受けていた。「愛している」と紡がれた言葉は、既に死せる者のものなのだ。
葉山は立ち尽くした。彼女に訪れた途方も無い永遠の前に。
彼女は死んだ。この現実が、恐ろしい牙を剥いて彼に襲いかかる。彼は逃げ続けることで、目を逸らしてきた。彼女の死をも乗り越えて、いつか笑える日が来るとまで妄想していた。そこに希望を見出そうと、その証明を得るために、篠畑との決着をつけようとした。
しかし、どうだろう。彼は結局彼女の遺した言葉すら守れず、己を見失った。結局己が本性を引きずり出され、弄ばれ、歌われ、失って―――
(だって、また微笑んでくれると思っていたんだもの)
そんな生ぬるい期待があったことは否めない。いや彼はそれを認めなければならない。失われたものは返ってこない。決して返ってこないのだから。