「おわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
突如として葉山は絶叫した。激しく取り乱し、頭を掻き回し、声を上げながら篠畑に掴みかかった。そのまま壁に打ち付けられるように篠畑の体は葉山に覆い被される。
「お前が、あ、あああっ!」
葉山はまさに肉食獣の眼で、獲物を追いつめる瞬間の興奮を全て篠畑にぶつけるように、
「お前が殺したんだ、お前が!」
そう叫んで、激しく叫ぶも、篠畑は冷たい眼で葉山を見上げるばかりだ。
「困りましたね……」
篠畑は当の葉山を無視するように、ミズをちらっと見やった。
「余計なことをしましたね」
ミズはクスッと笑い、
「この子は、優秀なの。お宅の出来損ないと違ってね」
そう言い捨てた。よくできましたと言わんばかりに若宮の頭をくしゃっとなぜるミズ。智謀にして秀麗。これ以上の褒め言葉が彼女にあるだろうか。
篠畑は視線だけで葉山を牽制した。肉食獣を狩るハンターの様な鋭さと、血を凍らせたような冷たさを以て、彼を一瞬にして圧倒する。
「何を、世迷言を仰るのですか」
「な……」
「殺したのは、君でしょう」
「――」
「弱さの証が、このザマですよ」
「……」
絶句する葉山。先程から篠畑の白衣の袖を掴んでいた腕が、力無くだらんと垂れる。
「う、う」
振り上げた拳の行方を失った葉山は、こみ上げてくる真の絶望と虚無に耐えきれずに、頭を抱えてその場にうずくまった。
それを見下ろす、篠畑の冷たい視線。その目は暗い光を燈しながら、次にミズと綾香を捕えた。
「こうも乱してくださると……逆に気分がいいですね」
「あらそう。負け惜しみにしか聞こえないわ」
ミズも負けてはいない。他方、綾香は涼しい顔で鎖に繋がれたまま、篠畑愛用のロッキングチェアに座ってゆらゆらと揺れている。勝手にクッキーに手を伸ばしながら、
「紅茶、飲みたいなー」
そんなことを言うのだから、呑気なものである。篠畑はそんな綾香の言葉に、不快と快楽、愛憎といったある種の強烈なアンビバレントさをもって、何人もの命を奪ったテノールで、
「天使……」
初めて綾香に話しかけた。綾香は首をちょこっと傾げて、
「私は、お姉ちゃんじゃない」
「大竹幸彦を、葬りましたね」
「知らない」
「哀れな男です。せっかく導いてあげたのに。天使、貴方の歌は凶器だ」
「そう?」
綾香は事態がわかっているのか、いないのか、ニコニコと笑い、
「私は知らない。それは本当。篠畑先生、アタマ大丈夫?」
その言葉に噴き出したのはミズだ。
「いやね、綾香ったら。精神科医に言うセリフじゃないわ」
直後に「ま、『元』なんだけど」と付け加えてから、篠畑を嘲笑うかのように言った。
「天使に易々と話しかけないで頂戴。篠畑、貴方、自滅したいの?」
それを聞いた篠畑は、珍しく声を出して笑った。
「忘れましたか? 僕はもう死んでいることになっているんですよ」
「法と紙の上では、ね。でも、あんたはそうやって今この瞬間も、生きている。空間図形としてそこに在る。それ自体が罪になるなんて、つくづく可哀想だわ」
「おや、同情してくださると」
「ええ、大いにね」
綾香はその様子を見ながら、チョコレートも頬張った。これは一体どういう光景だろうか、とふと考える。対峙する都市伝説、その傍らで「あぁあ」と呻きながら縮こまっている葉山、そして鎖に繋がれたままお菓子を食べる自分と、立ち尽くしたままの死体さん。
これが実際の舞台ならばとんだアクシデントだ。主役は挙動停止するわ、演出は不機嫌になるわ、観客は舞台に上がり込んでくるわで。そこで綾香は彼女らしい提案をした。
「ミズ、篠畑センセ。お姉ちゃんに逢いたい?」
篠畑は天使に、やはり両価的な視線をぶつける。ミズはしめたとばかり、
「綾香。できるのね?」
「わかんない。でもさ、逢いたいんでしょう? 篠畑先生は」
「篠畑。天使が直々にご質問よ」
篠畑はミズの言葉の投げかけには反応せず、
「……」
綾香に歩み寄って鎖を手に取った。
「天使……」
それをぐっと引っ張ると、綾香の体がロッキングチェアから落ちてしまいそうになる。彼女は慌てて体制を立て直した。
「何するの!」
綾香の抗議も篠畑には効かない。ミズは多少動じたようで、しかしそれを相手に見せないように軽く咳払いをしてから、
「随分と手荒なことをするのね、Dr.」
「……いいですか」
篠畑は鎖を握りしめたまま、綾香に忠告という名の宣告をするために、極めて威圧的な声色で、
「貴女はあの人じゃない。今度穢したら絶対、許しませんよ」
そう断言した。
「うー……」
困り顔の綾香はミズに目で助けを求める。ミズは篠畑の態度に腹を据えかね、半ばヒステリックに篠畑から鎖を奪った。
「他人のものは、いくらでも笑って穢すクセに」
そう吐き捨て、綾香を庇うように抱き寄せた。
「わ、わ、ミズ、胸の谷間がまる見えだよ」
「よく見ておきなさい。せっかくの機会だもの」
何がどう「せっかく」なのかはさっぱり不明だが、綾香は息を飲んでそれを思わず見つめてしまった。
「Mr.……」
苛立った篠畑の口から、残酷な演出家命令が下される。
「いつまで其処でそうしているのです。天使の羽を炙れるのは君しかいないのですよ」
葉山はハッとして篠畑を見上げた。憎むべき相手に縋る弱さは、この舞台では致命的かもしれない。
それを知っていて、篠畑は、奥の手ともいえる言葉を葉山にかけた。
「君は、選ばれたんですから」
「――」
ぴたりと呻き声が止まる。しばし静止したかと思うと、ゆらりと体が起こされた。しまったという表情のミズに対して、篠畑は苛立ちから一転、やや悦に入った顔をしている。葉山を促すように、
「世界を憎む、その目に――」
「……光を」
小さいが、しかし確実に葉山の口からそれは紡がれる。
「僕の認識する世界に於いて許されないのは、愛という名の欺瞞と、正義という名の素数」
ミズはハイヒールで床を小突いた。一体、何度堕ちれば気が済むのだ。何度、弄ばれれば救われるのだ。何度、露呈すれば許されるのだ。綾香を解放してやると、ミズはわざとらしく舌打ちした。
葉山は尚も、滔々と詠うように言葉を紡ぐ。
「僕らは世界に否定された。だから、今度は僕らが世界を否定しなきゃならない。セイを繋ぐため。愛と正義に肯定された忌まわしい天使は、その羽を僕らに焼かれなきゃならない」
ミズは堪らなくなって、彼に言葉をかけた。
「葉山君、しっかりなさい。貴方には、これ以上失うものなど無い筈よ」
「そうだ。僕はこれ以上何も失わない。本当の自分に出会えたのだから」
その言葉に思わず、ミズは吐き捨てた。
「自分の性癖を晒して、何が『本当の自分』なの」
殆ど暴言に近いが、真を突いてはいる。そうなのだ、理性の部分を剥がされた葉山は、今やただの篠畑の愛玩・操り人形なのだ。どこまで他者を弄べば、篠畑は気が済むのだろう。言い方を変えれば――篠畑は、どうしたら満たされるのだろう。
「僕らは愛と正義を否定する。そしてセイを繋ぎ、死を超える」
若宮郁子の死を以てしても、そんな言葉ばかりを吐く葉山にも、葉山にそんなことを言わせる篠畑にも、ミズは怒りを通り越して同情しかけた。
若宮郁子はもう死んでいるというのに。そう、正解などない舞台の上に正答を求めたことこそが誤答なのだ。ミズは思わずぎゅっと綾香を抱きしめた。柔らかい頬の感触だけがそれに応じる。その温かさは、誰にも越えられない温度。
愛に背かれ、独善の正義に溺れた土竜のなれの果てが、今こうして眼前に在るのならば、その舞台に引き出された者の使命とは何だろう。
ミズはその類稀なる頭脳をしても、理解できない事象がこの魔都市には溢れていると痛感した。数字や理論では解き明かせない、孤独と裏切り。その闇は、辛うじて理由を説明するならば血によって媒介し、繋がることが証明はされているが――神など本当に存在したら、とんだサディストに違いないと、改めてミズは思った。
そうして、理屈抜きに、こんな言葉が出てしまうのだ。あのミズから、こんな言葉が。
「可哀想に……」
それに激しく反応する葉山。まるで闇をそのまま燈したような呪われた瞳でミズを睨みつける。
「憐れみなど要らない。僕らが欲しいのは、愛と正義を否定する世界だ。そうでしょう、Dr.?」
篠畑はいつの間にか、ロッキングチェアに腰かけて悠々と足を組んでいる。頬杖をつきながら、余裕の笑みで、『Mr.』の出来上がり具合を確認するように、
「貴方が求めるものが『全て』じゃないですか?」
そう問い返した。
「僕が、求める、もの」
「そう。例えば――天使の残骸とか」
葉山の口元が歪む。それも、決定的に絶望的な方向へ。つり上がった唇からは、地獄から湧きあがったような笑い声が漏れ始めた。
――君を、待っているから!
「郁子……!」
葉山のその底無しの欲望に満ちた声に、ミズは眩暈を覚えた。
葉山はうっとりした表情だ。
「ミズ、貴方なら彼女の言葉を聞き出せるでしょ」
「……」
「また聞かせてよ」
「……」
ミズは黙って若宮を抱きしめる。
「リクエストにはお応えできないわ」
ピクリと反応する葉山。瞬転、彼はそれこそ土竜の様な俊敏さで、床に落ちた拳銃を広い、飛びかかる様に綾香に接近し(綾香は一瞬のことに体が反応しなかった)、
「綾香!」
ミズの叫びも鉄壁に吸い込まれてしまった。綾香は恐怖で声も出ない。葉山は綾香の首を腕で締めるような格好で、右手に握られた拳銃を彼女のこめかみに宛がい、左手で羽まみれの鎖に触れる。葉山は、それこそ『狂人』と呼ばれるに相応しいほど不気味に潤んだ目と、残忍につり上がった口元を隠すことなく、ミズにこう告げた。
「じゃあ、取引をしようよ」
「取引?」
ミズは思い切り眉間にしわを寄せる。葉山は喉の奥を震わせて笑いながら、
「そう。お互いの大切なものを交換しよう」
「……、随分と陳腐なことをおっしゃるのね」
ミズの皮肉も今の葉山には通用しない。篠畑は傍らで、心底楽しそうにその様子を眺めている。それがまたミズの神経に触るのだが、形勢がこうではしょうがない。そもそも、『彼』に警鐘を鳴らそうとしたこと自体、無理があったのだ。ミズは葉山の腕の中で怯える綾香を守るため、悔しさを堪えて言った。
「……わかったわ」
ミズは無念さを噛みしめるように、葉山に歩み寄ると心底蔑んだ目を彼に向け、
「綾香を離しなさい。『彼女』ならお返しするわ」
鎖の擦れる金属音がして、綾香が解放される。駆け寄った綾香は、ミズの豊満な胸の中で安堵の溜息をついた。それと引き換えに、ミズの手から葉山の腕の中へ、再び若宮は戻る。
「おかえり」
葉山は若宮にそう話しかけると、冷え切った屍肉の頬にキスをした。そして髪をなぜると、おもむろに傍に置いてあった白い箱から再びナイフを取り出した。それをしげしげと眺めている。
ミズは怪訝な顔をする。
「どうするおつもりかしら」
「んー……。ずっと郁子と一緒がいい」
若宮は沈黙したままだ。ミズは吐き捨てるように、
「なら一生、そうしてなさい」
「言われなくても、そうするよ」
ミズが再び舌打ちする。葉山は泣きそうになったり笑ってみたりと、ころころと表情を変えている。長い間ずっと、彷徨っていた瞳の色。しかし篠畑のこの言葉で、彼は遂に導かれた。
「君は、君の思うように在ればいい」
「……」
それを聞いた葉山の脳裏に、今まで自分に降り注いできた天啓が走馬灯のように駆け巡り始める。
はじまりは葉山本人のほんの些細な好奇心だった。好奇心が不安を生み、不安は恐怖を生み、いびつな導きによってその恐怖は狂気となって熟成した。実った果実は、一つの結末。罪が果実に喩えられたアダムとイブを追放した天使からの、祝福。
篠畑にとっては、出た芽をじっくり大切に育てるような感覚でもあっただろう。そう、『彼』が誕生するまでを見守るような心境で、篠畑はただ弄び続けたのである。
水を打ったように静まり返る空間。ミズですら、息を飲んだ。
葉山は、緩慢な動きで白い箱を抱きしめると、沈黙を破る様に詩を歌い始めた。
「からっぽの小さな鳥かごに……」
ミズは刮目する。
「両手を取られたのは君」
ミズの引き攣った表情とは対照的に、篠畑の目元がきゅっと細められた。
「見上げる月に照らされて」
「――っ」
途端に、綾香の様子が一変する。急に震えだし、ミズにぎゅっとしがみついたのだ。葉山は構わずに続ける。
「両目が赤く光ってる」
綾香の手が震えている。
「綾香、どうしたの」
葉山の歌声は、この場にあってあまりに冷たく、また滑稽であった。
「かわいい天使の着地点」
「……嫌。それは私の詩なのに」
「――優しいギターの旋律と逆回転する柱時計が」
ミズが制しようとする。
「やめなさい、葉山君」
「――2時を指し示すとき―――」
綾香の目には涙が浮かぶ。
「私の詩なのに」
「葉山君やめて!」
「――君自身も天使になれるんだ」
「きゃあああ!」
綾香が絶叫する。鎖に装飾された羽を散らしながら、錯乱して喚きながら床に崩れ落ちた。憑きものが落ちたかのように脱力する綾香。
篠畑は白々しく拍手をした。
「よくできました」
冷たいコンクリートの上に散った羽。それは何の比喩でもなく、散った天使の羽だ。
羽を毟られた天使は、力なく泣くばかり。その姿に、ミズは深い悲しみと怒りを覚えた。即ち、綾香をこの場へ連れてきてしまったことに対する後悔と自分の弱さへの恨みである。
その負の念は、羽を毟った張本人へと向けられる。ミズは唇から、艶やかな声で恨み事を吐きだす。
「よくも……穢したわね」
ミズは本気で怒っている。むざむざ、目の前で大切なものを失ってしまった自分への怒りだけではない。愛しい天使が羽を散らせた。それは、勝機を逸したばかりか、篠畑の救いの道すら失ったということだ。
甚だ、可笑しな話だと思う。自分の認識する世界で否定しなければならない存在となった篠畑を、どうにかして自分の認識に『取り戻そうと』している自分がいるのだから。わかっているはずだ、彼は疾うに壊れている。修復など、そう戻ることなど二度とできない罪を犯しているし、他でもないこの舞台の演出家なのだ。
それでも、高慢な観客は口出ししたくなる、演出家と主演に―――もうこんな舞台は御免。あなた達はいい加減に、自由になりなさい、と。
「葉山君、貴方もDr.と同じ道を辿るつもりなの?」
葉山は詩を吐きだしてから天井を見上げていたのだが、ナイフの入った箱を撫でながら、ぽつりとこう言った。
「それが、因果だから」
「は?」
そこに口を挟んできたのは篠畑だ。
「ミズ、受容と理解の相違は何ですか」
「何ですって?」
「理解できなくても受け入れなければならないのが、現実ではありませんか」
「私の理解力が足りないとでも?」
「いいえ。ただ、純粋に祝ってあげましょうよ」
篠畑はロッキングチェアから立ち上がり、白い箱を持った葉山の肩を抱いてこう告げた。
「ここに『彼』が誕生したことを」
その言葉に、ミズは寒気を覚えた。とんでもない瞬間に立ち会ったと、気付いてしまったのである。
そう――――都市伝説の、誕生。Dr.、Ms.に並ぶ、新たな存在の誕生に。