PHRASE 1 冬の朝

工藤征二は中学時代から陸上を始め、以来ずっと中距離ランナーだった。中距離は、短距離の瞬発力と長距離の持久力が必要とされるハードな種目である。征二は決して運動神経のよい方ではなかったが、父譲りの努力家の血が彼の才能を伸ばした。

その一方で勉学にも長けていた。特に文化系に強く、高校は市内でもトップクラスの学校に入学、その中でも上位の成績を修めていた。高校時代は陸上部の傍ら、教師である母の影響で本をたくさん読むようになり、モノ書きに憧れて文芸部にも入部した。

受験の荒波を乗り越え、とある有名校の文学部に合格。大学進学後は専らサークル活動に熱中した。もちろん陸上と文芸のサークルに入った。

どちらかというとハキハキと物を言える性格ではなかった。物静かに、確実に地に足をつけて歩んでいくタイプだった。特に異性に対しては不器用であった。

初恋は中学二年生の時。彼はクラスの女子に夢中になった。だが、この感情をどうすることもできなかった。今思えば、彼はそのイラつきムラつく思いを、陸上にぶつけることで折り合いをつけていたのかもしれない。

佐々木ユイはごく普通のサラリーマン家庭の長女として生まれ育った。目はあまり大きくないが、整った顔立ちをしている。ほどほどに明るく、ちょっと尖った性格であった。高校時代からは陸上部のマネージャーをつとめた。

征二との出会いは大学入学後すぐ。大学でも陸上部のマネージャーになった彼女は、みんなが飲み会にくり出していく中で、毎日、日が暮れるまで一人グラウンドを走る征二の姿を見ているうちに、自然と心が惹かれていった。

異性として、というよりは母性本能が刺激された、のが始まりだったのかもしれない。しかし、それでもかまわなかった。ユイは物事をはっきりと、思ったことはすぐ言わないと気が済まないタイプだったのである。

 

練習を終え水道で顔を洗っていた征二に、タオルとスポーツドリンクを差し出してユイは言った。

「先輩、今から映画、観に行きません?」

「え、あ?」

「夜遅くならレイトショーで安く観られるんですよ、あの、ほら、今話題の……」

「俺、今日これから居酒屋のバイトなんだけど」

「じゃあ明日は?」

「明日は、別に……」

「じゃ、決まり」

ユイは強引に征二の手をとり小指を絡ませ、

「約束ですよ」

言い残すや否や走って帰ってしまった。

「おい……」

大学二年の時、征二に初めて恋人ができた。こういった、半ば唐突な展開で一つ下の後輩から交際を申し込まれたのである。彼は戸惑った。

 

……どうしたらいいのかわからない。

 

だが初めての経験、喜びの方が断然大きかった。征二はその時思った。

恋愛に関する意思疎通、両想いこそ最上の自己肯定である、と。

 

――そうして砂時計が、ゆっくり傾きはじめる……。

 

 

付き合い始めて初めての冬の朝。自宅生だったユイは、一人暮らしをしていた征二の家に度々泊まるようになっていた。

 

征二がベッドに寝転がったまま、何かうなった。

「どうしたの?」

「……なんか、頭が痛いんだ」

「大丈夫?」

ユイは料理の支度をやめ、征二の額に手をあてた。

「別に熱くはないみたいだけど……」

「レポートの締切近くて、あまり眠れなかったから」

「かぜ薬、なかったよね。どうする?」

「自分で買いに行くよ」

「薬局まだ開いてないんじゃない?」

「そこのコンビニのサプリでいい。ついでにタバコも買ってくる」

「上着ちゃんと着てってね」

ユイは気をつけてね、と出かける征二に声をかけた。

返事は無かった。

 

朝食ができあがって20分経っても征二は戻らなかった。ユイは、せっかくのゴハンが冷めちゃうよ、とメールを打った。返事は返ってこない。それから更に15分待っても音沙汰が無いので今度は電話をかけた。

 

『この電話は、ただいま電波の届かない場所にあるか、電源が切れております』

 

「?」

ユイはつっかけを履いて、エプロンをつけたまま外に出た。コンビニまでは徒歩で十分とかからない。きっと征二は雑誌を立ち読みでもしているのだろうと思い、頬をふくらませ歩き出した。

それにしても、ケータイの電源まで切ることないのに。

 

 

アパートの階段を降りてすぐ、ユイの視界に異様な光景が映った。郵便受けの真下に、ビーズのストラップが落ちている。ユイが彼の誕生日に手作りで贈ったものである。そのビーズが散乱している。ヒモがちぎれている。見覚えのある携帯電話が、地面に叩きつけられたような状態で見つかった。

これって、征二の……。

ユイは、嫌な予感に襲われて口を手で押さえた。急に動悸がした。おそるおそる、辺りを見回した。

「ユイ」

突如背後から声をかけられ、彼女は悲鳴をあげそうになった。

「せ、征二、どこに行ってたの? 驚かせないで――」

言いかけて、ユイは絶句した。振り向いた征二の手に、バタフライナイフが握られていたからだ。

「もう、大丈夫だから」

征二はそう言うと、ナイフをカチャカチャ言わせながら、鼻歌を歌い始めた。

「え?」

戸惑うユイを尻目に、征二は『きよしこのよる』を歌い続ける。

「征二、何の真似?」

ユイが征二の『悪ふざけ』をにらみ返しても、征二は中空を見つめながら、最後まで歌を歌う。

「……征二?」

「―――」

突如として征二は地面に這いつくばり、ユイの足首をつかんだ。

「きゃっ」

そしてその体勢のまま、ナイフで落ちていた携帯電話をざくざくと突きだした。

「ユイ、これ、で、これでもう大丈夫だから」

「やめて征二、何やってるの?」

「ユイは、俺が守る。俺が、奴らを、こ、ころ、」

携帯電話は無惨な状態になり、征二はそれを再度地面に叩きつけた。

「ハ……」

征二はそれを悦に入った表情で見届けると、

「ははは……ッ」

ユイの聞いたことのない声で笑った。ユイの背筋に寒気が走った。征二はゆっくりと立ち上がると、右手にナイフを持ったままユイの肩に触れた。

使命を得た充実感と異常な緊張感を濃厚に宿した目をユイに向け、征二は言った。

「ユイ。俺、は、選ばれたんだ。奴らを、君から守るって」

「征二、何言ってるの? どうしちゃったの?」

ユイは膝がガクガクと震えだした。彼女の顔が青ざめるのに反比例して、征二の顔は紅潮していく。

「ユイッ!」

力まかせにユイを抱きしめた。ユイは息詰まりそうになりながらも必死で抵抗した。だが、陸上で鍛えた征二の筋力に勝てるわけがない。

「やめて、征二やめて、お願い」

「君を傷つけるものは、みんな――」

征二はユイの耳元でゆっくり、ささやいた。

「殺してやる」

「征二っ!?」

PHRASE 2 逃走