PHRASE2 逃走

ユイは力を振り絞って征二の腕から逃れようとした。しかし、もがけばもがくほど、征二のユイを抱きしめる力が強くなる。

「苦しいよ、征二、離して」
「ユイ、聞いてくれ、俺は――」
「離して!」

ユイは自分の肩に絡められた征二の腕に、爪を立て抵抗を試みた。

「うあっ」

征二が怯んだ隙に、非力ながら思いきり体ごと突き放した。征二は郵便受けに体を叩きつけられた。この時、ナイフの切っ先がユイの指先に触れた。

「……っ」

少しだけ皮が裂け、じんわりと血がにじみ出る。それを見た征二の顔色が一変した。目を見開き、ナイフを投げ捨て、

「あああ」

瞬転、今度はそっと傷ついたユイの手をとり、ひざまずく。

「ごめんね、ごめんユイ」

ユイは状況が自分の把握処理能力を超えていることと、形容しがたい恐怖感に襲われていることだけは辛うじて自覚できた。

「征二?」

再び、何かを確認するように恋人の名前を呼ぶ。だが彼はユイの傷口をじっと見入っているだけだ。

「大丈夫よ、こんなの、ちょっと舐めれば治るから」
「……こう?」

突然、征二はユイの指をゆっくり口に含みだした。

「やだ、ちょっと」

征二の口の中に血の味が広がる。それは彼の衝動をひどく刺激した。鼓動がドクドクと疼きだして自分を高めさせるのだ。

「やめて」

ユイの鼓動も高ぶっていた……しかし恐怖によって、だ。征二の興奮とは裏腹にユイの本能は警告を発した――異質な体験を拒否する自己防衛機能が発動して。

「やめて、自分でやるから」

ユイは手をさっと胸元に引き戻した。

「ごめん、ごめんユイ。痛かっただろうね」
「……平気よ」
「ユイ……」

征二は再び彼女を抱きしめた。いわゆる血の酩酊状態に陥り、愛しさと欲望の区別がつかなくなっていたのである。

「もう一度、抱いてあげるから、さぁ、早く家に、入ろう」
「何言ってるの?」

ユイは自分でも気づかないうちに、恐怖心から征二を睨みつけてしまっていた。

……この行動が、この表情が、征二には己を拒否されたように感じられてしまった。

「……なんで、俺は、ただ、君を心配してるだけ、なのに」

征二は頭を大きく横に振って、何かをぶつぶつ呟きだした。

「違う。征二ちょっとおかしいよ。どうしちゃったの? ねぇっ」

ユイは捲まくしたてるように征二を問いつめた。今度は彼女が征二の肩につかみかかり、郵便受けを背にもたれかかった。二人の体重を受けたステンレス製の郵便受けが軋む音をあげる。

「………」

二人はしばし見つめ合った。いや、ユイは睨みあっているつもりだった。しかし、その目にも力が入らなくなった。

――征二、こっちを見てない。まるで空洞。興奮に潤んだ瞳が深い闇を孕んでいる。

「……征二」

懇願するようにユイは、再度名前を呼んだ。しかし再び彼女の「期待」――愛する人がまだ自分の知る世界にいるという――は裏切られることになる。彼の口元が、残酷につりあがったのである。ユイはそれを見た途端、全身の力が抜けて、彼の肩にかかっていた手を落とした。

「君が血を流すから」

征二は何かを感じ取ったらしく、声を低めて続ける。

「やつらが、その、香りを、嗅ぎつけて、やって来るんだ、そうなる前に――」

征二は足元に転がったナイフを拾い上げ、深呼吸した。

「ああっ」

征二は頭を激しく横に振る。

「ああああああ」

空洞に、狂気が宿った瞬間。

「ああああああ!」

征二は走り出し、あっという間にユイの視界から消えた。ユイはその場に座り込んでしまった。

涙など出てこなかった。怖かった。訳がわからなかった。

……征二、どこにいっちゃうの?

悲鳴にもならない声をあげて、ユイはエプロンで顔を覆った。

PHRASE3 雨へつづく