PHRASE3 雨

雨が降り出した。空はどんよりと、朝だというのに薄暗い。ユイは地面に散らばったビーズをかき集め、エプロンのポケットにつめた。カンカン、と無機質な音を立てて階段を登って部屋に入ると、アパートの狭いリビングに座った。コーヒーはすっかり冷めていた。朝食を台所に持っていき、生ゴミ入れに捨てた。

テーブルに伏せて、ふと先ほど指に負った傷跡を見た。征二の唾液で止血されている。ユイは初めて声を出した。

「……征二、どこ行っちゃうの?」


征二はナイフを懐に隠し、はぁはぁと息をつきながら街を彷徨っていた。電柱。看板。街灯。すべてが敵だ。「奴ら」がやってくる――ユイを壊しにやってくる。そうなる前に、俺が奴らを殺さねばならない――征二は雨に濡れた顔を天に向け、叫んだ。

「出てこい!」

再び走り出した。

「ははは、あはははっ!」

十字路の角を曲がった時である。急ブレーキの音がした。征二は笑うのをやめなかった。

――こいつも敵だ!

ボンネットに向かってナイフを突き上げた。車は無情にも征二をはね、彼の体躯をブロック塀にたたきつけた。

「ぐっ」

車は慌てて走り去った。

「はっ、はっ」

征二は痛みを超えた怒りに駆られていた。口元から垂れる血をぬぐい、彼はナイフを持ってよろよろと走り出した。

「待て」

叫ぶ余力は無かったが、その目は異常なほどに怒りと、残忍さに満ちていた。

「待て……」

征二はふと立ち止まった。向かい側の道で黄色い傘をさしている小学1年生くらいの女の子と目が合ったのだ。女の子は怯えていた。

「……」

征二はナイフを持ったままゆっくりと歩み寄った。女の子はびくっ、と身をかがめた。

「君は、誰」
「えっ」
「ユイの敵?」
「え?」
「君は『奴ら』じゃない……」

征二は女の子に背を向けた。そして歩き出した。しばらくして、

「ママ!」

彼の背後で声がした。

「夏江、遅くなってごめん。お土産あるから帰ってパパと食べよう」
「ママ、今ね、あのお兄ちゃんが……」

征二は歩いていた。そのつもりだった。突然視界が霞んで、吐き気をもよおした。

「ぐっ」

それを自分で制する頃ができず、「ユ、イ」と漏らしその場に倒れ、「ぐっ、おえっ」と声を上げながら吐血した。

「あ!」

夏江、と呼ばれた女の子が傘を放って駆け寄った。

「夏江、その人どうしたの!?」

ママも駆け寄った。

「何、どうしたの!」
「このお兄ちゃんが、なつえはてきじゃない、って」

夏江は首をぶんぶん振った。

「このお兄ちゃん、傘持ってないの。きっと風邪ひいちゃったんだね」
「……!」

夏江のママは、征二の口元にべっとりついた血に気づいて悲鳴をあげた。

「救急車を呼ぶわ。夏江、この人知ってるの?」
「ううん」

夏江は、征二の顔を見てはっとした。雨? それともお兄ちゃん、……泣いてるの?

「もしもし、救急車を一台おねがいします。意識は――ありません。血を、吐いてます。ええ、場所は、杉並区高円寺――」

PHRASE4 迷走へつづく