雨が降り出した。空はどんよりと、朝だというのに薄暗い。ユイは地面に散らばったビーズをかき集め、エプロンのポケットにつめた。カンカン、と無機質な音を立てて階段を登って部屋に入ると、アパートの狭いリビングに座った。コーヒーはすっかり冷めていた。朝食を台所に持っていき、生ゴミ入れに捨てた。
テーブルに伏せて、ふと先ほど指に負った傷跡を見た。征二の唾液で止血されている。ユイは初めて声を出した。
「……征二、どこ行っちゃうの?」
征二はナイフを懐に隠し、はぁはぁと息をつきながら街を彷徨っていた。電柱。看板。街灯。すべてが敵だ。「奴ら」がやってくる――ユイを壊しにやってくる。そうなる前に、俺が奴らを殺さねばならない――征二は雨に濡れた顔を天に向け、叫んだ。
「出てこい!」
再び走り出した。
「ははは、あはははっ!」
十字路の角を曲がった時である。急ブレーキの音がした。征二は笑うのをやめなかった。
――こいつも敵だ!
ボンネットに向かってナイフを突き上げた。車は無情にも征二をはね、彼の体躯をブロック塀にたたきつけた。
「ぐっ」
車は慌てて走り去った。
「はっ、はっ」
征二は痛みを超えた怒りに駆られていた。口元から垂れる血をぬぐい、彼はナイフを持ってよろよろと走り出した。
「待て」
叫ぶ余力は無かったが、その目は異常なほどに怒りと、残忍さに満ちていた。
「待て……」
征二はふと立ち止まった。向かい側の道で黄色い傘をさしている小学1年生くらいの女の子と目が合ったのだ。女の子は怯えていた。
「……」
征二はナイフを持ったままゆっくりと歩み寄った。女の子はびくっ、と身をかがめた。
「君は、誰」
「えっ」
「ユイの敵?」
「え?」
「君は『奴ら』じゃない……」
征二は女の子に背を向けた。そして歩き出した。しばらくして、
「ママ!」
彼の背後で声がした。
「夏江、遅くなってごめん。お土産あるから帰ってパパと食べよう」
「ママ、今ね、あのお兄ちゃんが……」
征二は歩いていた。そのつもりだった。突然視界が霞んで、吐き気をもよおした。
「ぐっ」
それを自分で制する頃ができず、「ユ、イ」と漏らしその場に倒れ、「ぐっ、おえっ」と声を上げながら吐血した。
「あ!」
夏江、と呼ばれた女の子が傘を放って駆け寄った。
「夏江、その人どうしたの!?」
ママも駆け寄った。
「何、どうしたの!」
「このお兄ちゃんが、なつえはてきじゃない、って」
夏江は首をぶんぶん振った。
「このお兄ちゃん、傘持ってないの。きっと風邪ひいちゃったんだね」
「……!」
夏江のママは、征二の口元にべっとりついた血に気づいて悲鳴をあげた。
「救急車を呼ぶわ。夏江、この人知ってるの?」
「ううん」
夏江は、征二の顔を見てはっとした。雨? それともお兄ちゃん、……泣いてるの?
「もしもし、救急車を一台おねがいします。意識は――ありません。血を、吐いてます。ええ、場所は、杉並区高円寺――」
PHRASE4 迷走へつづく