ユイはいてもたってもいられなくなり、傘を2本持って外へ出た。征二を迎えに行こう。どこに行ったかはわからない。が、じっとしていると先ほどの恐怖――そう、恐怖だ。恋人に植え付けられた恐怖心が暴れ出して、征二への気持ちにヒビが入ってしまいそうだった。それがさらに怖かったからだ。
征二の行きそうな場所を当たってみることにした。バイト先。ゲーセン。二人で散歩した公園。気づいたら、小走りになっていた。気持ちが、知らず知らずに急いていた。
さっきの征二の様子、普通じゃなかった。なんとかしなくちゃ――何かが起きてしまう前に。
しかし、ユイのその願いはすでに裏切られていた。
救急車は15分ほどで到着した。夏江のママは到着まで、征二の口元の血をハンカチで拭ったり、意識を確認したりした。こんな場面は生まれて初めてだったので、半ば動転していた。だが、必死に冷静さを保とうとがんばった。野次馬が数人いたが、構う余裕は無かった。夏江はママとお兄ちゃんが濡れないよう、小さな体で傘を懸命に持っていた。
やってきた救急隊員は慣れた様子で尋ねた。
「こちらの男性ですね?」
当たり前でしょ、とママは心中で毒づいた。
「ええ」
「名前と年齢は?」
「えっ」
見ず知らずの男性だ。知る由もない。
「あの、私達、偶然この人が倒れるのを見かけて、だから、その」
「免許証など持ち物を確認すればわかるでしょう」
なぜ自分が叱責されるのかがママには甚だ不服だったが、救急隊員の言うことも一理ある。救急隊員は三人だった。もう二人が手早く征二の様子を観察し、担架を準備する。
「心拍が荒いです、やや血圧が低い。外傷は腹部に打撲の跡あり」
征二の持っていたナイフが目に付いた救急隊員が眉をしかめた。
「これは……」
「何だ?」
隊長は首を傾げた。そして問いかけた。
「……何か、ありましたか」
自分達に、という意味だろう。ママは深呼吸してから、
「いえ、その、特には」
次に隊長は近くのナイフに目をつけた。
「これは何ですか」
「えっ」
「彼が所持していたんでしょうか」
「そうだよ」
夏江が口を挟んだ。
「お兄ちゃんがそれを持っていたよ」
「夏江、見てたの?」
「お母さんとお嬢さん、申し訳ないが一緒に救急車にご同乗いただけますか。他に人が居ないのなら、お嬢さんの話が重要になる」
「重要?」
「彼は明らかに不審者です。ですから」
「まさか警察、ですか?」
隊長は黙って首を縦に振った。ママは出会ったばかりのこの男性に同情した。と同時になぜ自分たちがそこまでしなければならないのか、という思いにもかられた。
「お急ぎの用事はおありですか」
「いえ、特には……ただ、家で主人が待っているものですから」
「なら、構いませんね」
連絡を取って救急車に同乗しろ、という無言の圧力だった。なぜ救急隊員はこんなに態度が高圧的なのだ? 人命を救う、ということにかけてはプロである故、必死なのはわかるが。
「わかりました。夏江、このお兄ちゃんと一緒に病院に行こう」
「なんで?」
「お土産、あとで食べようね」
「うん」
雨に冷やされた征二の体が運び込まれると、ママと夏江も同乗し、救急車は走り出した。
ユイは歩き疲れて電柱に座り込んだ。足元が冷えて痛い。思い当たる場所はすべて当たった。歩いて、公園を数箇所もまわった。だが征二の姿を見つけることはできなかった。
「征二……」
泥だらけのスニーカーを引きずるようにしながら、ユイは諦めて帰路へついた。
征二のアパートに戻ると、時刻はもう昼をまわっていた。玄関前にコート姿の男性が二人立っていて、一人が近寄り声をかけてきた。
「工藤征二さんをご存じですか」
「えっ」
二人は懐から警察手帳を出した。搬送先の病院で、財布に入っていた免許証から征二の身元がわかったらしい。
「警察?」
ユイの背筋に寒気が走った。
きっと、いや絶対、征二に何かあったのだ。
もしかしたら彼がなにか「した」のかもしれない。
どうしよう、どうしよう!
ユイの焦燥は表情に出ていたらしい。警察官と名乗る一人が彼女に優しく声をかけた。
「大丈夫、工藤さんの命に別状は無いです」
しかしそれは裏を返せば、何かあったのだとユイに宣告しているようなものだ。
「征二は、征二は今どこにいるんですか」
「病院です」
「病院?」
「この近くの総合病院に搬送されています」
「何があったんですか」
「詳しい容態は存じませんが、吐血して意識を失ったと」
「吐血!」
ユイはめまいを覚えた。征二のあの表情……異常な興奮に満ちた表情と、自分の血の色を思い出して。
「落ち着いて下さい。一緒に、まずは病院へ来てくれますか」
「い、行きます。行きますけど」
ユイは呼吸を整えようと、傘を握りしめた。
「なんで警察の方が来るんですか」
征二が、何かしたに違いない。ナイフを持っていた。そのまま走り去った。
「いえ、ちょっとしたことです」
「ちょっとしたこと?」
「罪に問えるかはわかりませんがね」
この時、ユイにはまだこの警察官の言っている意味がよくわからなかった。ユイは動悸を抑えることが、どうしてもできなかった。
「工藤さんのご家族にはもう連絡してありますので、来ていただけますか」
「……わかりました」
雨はまずます激しく降り出した。
PHRASE5 予兆へつづく