PHRASE 4 迷走

ユイはいてもたってもいられなくなり、傘を2本持って外へ出た。征二を迎えに行こう。どこに行ったかはわからない。が、じっとしていると先ほどの恐怖――そう、恐怖だ。恋人に植え付けられた恐怖心が暴れ出して、征二への気持ちにヒビが入ってしまいそうだった。それがさらに怖かったからだ。

征二の行きそうな場所を当たってみることにした。バイト先。ゲーセン。二人で散歩した公園。気づいたら、小走りになっていた。気持ちが、知らず知らずに急いていた。

さっきの征二の様子、普通じゃなかった。なんとかしなくちゃ――何かが起きてしまう前に。

しかし、ユイのその願いはすでに裏切られていた。

 

 

救急車は十五分ほどで到着した。夏江のママは到着まで、征二の口元の血をハンカチで拭ったり、意識を確認したりした。こんな場面は生まれて初めてだったので、半ば動転していた。だが、必死に冷静さを保とうとがんばった。野次馬が数人いたが、構う余裕は無かった。夏江はママとお兄ちゃんが濡れないよう、小さな体で傘を懸命に持っていた。

やってきた救急隊員は慣れた様子で尋ねた。

「こちらの男性ですね?」

当たり前でしょ、とママは心中で毒づいた。

「ええ」

「名前と年齢は?」

「えっ」

見ず知らずの男性だ。知る由もない。

「あの、私達、偶然この人が倒れるのを見かけて、だから、その」

「免許証など持ち物を確認すればわかるでしょう」

なぜ自分が叱責されるのかがママには甚だ不服だったが、救急隊員の言うことも一理ある。救急隊員は三人だった。もう二人が手早く征二の様子を観察し、担架を準備する。

「心拍が荒いです、やや血圧が低い。外傷は腹部に打撲の跡あり」

征二の持っていたナイフが目に付いた救急隊員が眉をしかめた。

「これは……」

「何だ?」

隊長は首を傾げた。そして問いかけた。

「……何か、ありましたか」

自分達に、という意味だろう。ママは深呼吸してから、

「いえ、その、特には」

次に隊長は近くのナイフに目をつけた。

「これは何ですか」

「えっ」

「彼が持っていましたか」

「そうだよ」

夏江が口を挟んだ。

「お兄ちゃんがそれを持っていたよ」

「夏江、見てたの?」

「お母さんとお嬢さん、申し訳ないが一緒に救急車にご同乗いただけますか。他に人が居ないのなら、お嬢さんの話が重要になる」

「重要?」

「彼は明らかに不審者です。ですから」

「まさか警察、ですか?」

隊長は黙って首を縦に振った。ママは出会ったばかりのこの男性に同情した。と同時になぜ自分たちがそこまでしなければならないのか、という思いにもかられた。

「お急ぎの用事はおありですか」

「いえ、特には……ただ、家で主人が待っているものですから」

「なら、構いませんね」

連絡を取って救急車に同乗しろ、という無言の圧力だった。なぜ救急隊員はこんなに態度が高圧的なのだ? 人命を救う、ということにかけてはプロである故、必死なのはわかるが。

「わかりました。夏江、このお兄ちゃんと一緒に病院に行こう」

「なんで?」

「お土産、あとで食べようね」

「うん」

雨に冷やされた征二の体が運び込まれると、ママと夏江も同乗し、救急車は走り出した。

 

 

ユイは歩き疲れて電柱に座り込んだ。足元が冷えて痛い。思い当たる場所はすべて当たった。歩いて、公園を数箇所もまわった。だが征二の姿を見つけることはできなかった。

「征二……」

泥だらけのスニーカーを引きずるようにしながら、ユイは諦めて帰路へついた。

征二のアパートに戻ると、時刻はもう昼をまわっていた。玄関前にコート姿の男性が二人立っていて、一人が近寄り声をかけてきた。

「工藤征二さんをご存じですか」

「えっ」

「不審な者ではありません」

二人は懐から警察手帳を出した。搬送先の病院で、財布に入っていた免許証から征二の身元がわかったらしい。

「警察?」

ユイの背筋に寒気が走った。

きっと、いや絶対、征二に何かあったのだ。

もしかしたら彼がなにか「した」のかもしれない。

どうしよう、どうしよう!

ユイの焦燥は表情に出ていたらしい。警察官と名乗る一人が彼女に優しく声をかけた。

「大丈夫、工藤さんの命に別状は無いです」

しかしそれは裏を返せば、何かあったのだとユイに宣告しているようなものだ。

「征二は、征二は今どこにいるんですか」

「病院です」

「病院?」

「この近くの総合病院に搬送されています」

「何があったんですか」

「詳しい容態は存じませんが、吐血して意識を失ったと」

「吐血!」

ユイはめまいを覚えた。征二のあの表情……異常な興奮に満ちた表情と、自分の血の色を思い出して。

「落ち着いて下さい。一緒に、まずは病院へ来てくれますか」

「い、行きます。行きますけど」

ユイは呼吸を整えようと、傘を握りしめた。

「なんで警察の方が来るんですか」

征二が、何かしたに違いない。ナイフを持っていた。そのまま走り去った。

「何、ちょっとした容疑です」

「容疑?」

「罪に問えるかはわかりませんがね」

この時、ユイにはまだこの警察官の言っている意味がよくわからなかった。ユイは動悸を抑えることが、どうしてもできなかった。

「工藤さんのご家族にはもう連絡してありますので、来ていただけますか」

「……わかりました」

雨はまずます激しく降り出した。