ユイは警察官二人に抱きかかえられるようにして、病院に現れた。『工藤征二 殿』と書かれた札の部屋の前で、立ち止まった。廊下に、見覚えのない人影がまばらにある。その中の一つがこちらに近づいてきて言った。
「佐々木さん、ですね」
ユイはすぐにわかった。目鼻立ちがそっくりだ。声は、征二の方が少し高い。ユイは大丈夫です、と言って警察官達の肩から手を離した。
「はじめまして」
まばらな人影は征二の家族であった。そして今ユイに声をかけたのは、スーツ姿からしておそらく彼の兄だろう。
「いつもお世話になってます……」
ユイは弱々しく頭を垂れた。征二の兄は首を横に振って、
「いえ、こちらこそ……急にこんなことになって、心配かけて申し訳ない」
「征二に、征二さんに何があったんですか」
「車にはねられたそうなんです」
「え!」
「でもとりあえず命に別状はないと、医者は言ってました。ただ……」
「ただ?」
「少し事情は聞いてますね、警察から」
ユイは無言でうなずいた。事情。征二は車にはねられるまえに、恐らく何かしでかしたのだ。
黒のダウンジャケットのきつくこすれる音から、征二の荒い息づかいが聞こえるようだ。
彼はナイフを持っていた。私を傷つけひどく動揺した。
そして、笑った――笑ったのだ。
征二、おかしいもの。おかしいもの。おかしいもの!
「佐々木さん?」
ユイははっとして彼の兄を見た。
「銃刀法違反、だそうです」
「それは伺いました……でも、それと車にはねられたのと、どういう関係が」
「それは、あなたが知っているのではなくて?」
違う声が聞こえた。年の頃なら六十前後の女性。征二の母である。
「あ、あの、初めまして。私、征二さんとおつきあいをさせていただいている……」
「ユイさんでしょう」
「え……」
「征二が、うわ言でね、あなたの名前を」
「……」
「お願い、教えて。あの子に何があったの? はねられた時、あなたは一緒に居たの? 居なかったの? なんで征二は、征二は」
「母さん、そんなに捲したてなくても」
征二の兄が制した。母は頭を揺さぶって、ため息をついた。
「私、動揺してるのは自分でもわかってるわ」
征二の母はふっと息をついて続けた。
「征二、大学に入ってから一度も家に連絡よこしたこと無かったのよ。便りがないのは良い便り、って昔から言うで しょ。だから突然こんなことになって」
「……不安は、お察しします」
「あなたを責めてるわけじゃないのよ、ごめんなさいね」
「いえ……」
「征二に、何があったか本当に知らない?」
「ごめんなさい……わかりません」
「そう」
征二の母の口調がユイの覚悟していたものよりも柔和だったので、ユイは内心ほっとした――と同時に、罪悪感も覚えた。何も知らないわけではない。車にはねられたことは知らなかったが、ユイは知っているのだ。というより思い知らされている。彼が、明らかに異常であったことを。
警察官達はユイと家族の様子を見守ると、何か耳打ちして、1人は携帯電話をかけに屋外へ、もう1人はこちらに来て言った。
「……医者の話を聞いたほうがいいでしょう。あと、関係者の話も」
「関係者?」
「工藤さんを介抱した人がいるんですよ」
「まぁ」
「事情を、少しは聞けるでしょう」
ユイは身じろぎした。聞きたい。でも聞きたくない。
彼女は信じられなくなっていた……征二が「なにもしていない」ことを。でも信じたかった。故に耳を塞ぎたかった……。
ユイの思いとは裏腹に、征二を診た医者がやってきた。
「まず状態から言いますと、決して楽観はできません」
その場に張りつめた空気が流れた。
「しかし必要な処置は施しました。身体の損傷は全治二週間、といったところでしょうか」
ユイは、『身体の』という部分を強調した医者の口調がいやに気になった。
「意識は朦朧としてはいますが、あります。まぁ、これは仕方ないことなのですが」
「どういう意味ですか」
兄が怪訝そうに尋ねる。
「鎮静剤を打ちました」
ユイは自分の名前を呼ばれたような気がしてビクッとした。
「鎮静剤?」
兄はなおも食い下がる。
「あー、正確には精神安定剤です……いえ、そんなに強いものではありませんが」
母が口をポカンと空けて立ちつくしている。ユイは今度は、自分の頬を殴られたような感覚に襲われた。
「それはどういう――」
兄が医者に向かい身を乗り出そうとした時。
「何か」
ユイは思い切って言葉を発した。
「おかしかったからですよね」
「ええ、まぁ、隊員からはそう聞いていますが」
征二の兄はユイの表情を見やった。彼女は焦燥しきっている。
「佐々木さん、やはり何かご存じなんですね」
「ご、ごめんなさい、でも、わ、私、自分でもどう説明していいのかわからなくて」
「征二が、何かしたんですか」
「なにも、してません……少なくとも、私の知る限りは。でも」
「でも?」
「征二さん、あの、ちょっと……」
「何があったんです」
「あのっ……」
ユイはそこまで声を絞り出すとその場にうずくまってしまった。
『君を傷つけるものはみんな、殺してやる』。
征二の言葉がリフレインして、涙が止まらなくなった。征二の兄はユイを責めてしまったような気分になり、慌てて
「すまない、僕たちはただ何があったか知りたいだけで――」
沈黙が舞い降りた。母は自分の周囲に起こっていることを理解しようと必死に考えを巡らせてはみるものの、うまく頭が働かない、そんな感じだ。ユイのすすり泣く声だけが廊下に響いた。
どのくらい経っただろう。医者は仕事があるので後ほど、と去り、警察官はまるでユイ達を見張っているように立ちはだかっている。ユイは征二の母と共にソファに座り込んでいた。
征二の兄は人数分の飲み物を買いに売店にいた。ちょうど会計を済まそうとしたその時である。
「お兄ちゃん!」
幼い声が薄暗い廊下に響き渡った。征二の兄は声の主―――夏江を見て首をひねった。見覚えがない。
「お兄ちゃん大丈夫? なんでさっき泣いてたの? もう痛くない?」
「こら、夏江! すみません、この子ったら……」
ママはそこまで言って絶句した。なんであの人が……いや、違う。雰囲気は似てはいるが、本人ではない。
「あの、何か」
征二の兄は、直感した。そして夏江とママに向かって問いかけた。
「もしかして、あなたたちが?」
「ええ、まぁ……」
「お兄ちゃん。どうしてナイフを持っていたの?」
「え?」