PHRASE 7 忘れてください

ナイフを、持っていた?

「まさか」

征二の兄、俊一は直感した。

「あれ、よく見るとお兄ちゃんじゃないね。でも、そっくり」

夏江は俊一に歩み寄ると、

「ねぇ、お兄ちゃんのお友達?」

「夏江、失礼でしょ、いきなり……すみません、この子が勝手なことを」

夏江のママが二人に割っていった。

「いえ。もしかしてあなた方が、弟を介抱してくださった……」

「お兄様ですか?」

「挨拶が遅れました。僕は征二……あれの兄で、工藤俊一といいます」

まだ慣れない手つきで俊一は懐から名刺を取り出した。

「まぁ、学校の先生……」

「とんだ未熟者ですがね。そちらのお嬢ちゃん、お名前は?」

「みやもとなつえ!」

夏江は廊下中に響き渡るような元気のいい声で返事した。

「宮本といいます……あの、専業主婦なので名刺などは持ち合わせてないのですが」

「結構ですよ」

俊一はピッ、と襟を正して、頭を垂れた。

「この度はうちの弟が大変迷惑をかけました。本当にすみません」

「やだ、そんな、頭をあげてください」

「勝手なことを申し上げていることはわかっているつもりです」

「え、何がですか?」

「今回のこと、本当に感謝しています。ですが、これ以上第三者のあなた達を巻き込むわけにはいかない」

「それはどういう……」

「忘れてください。警察の方に何か言われたのかもしれませんが、忘れてください」

ママは困った。警察は言っていた、器物破損容疑の立件には夏江の証言が重要になると。だから自分の判断で、はいそうですかと退くわけにもいかない。

「この件については、うちの子が何かを見たことが……重要な目撃証言になるから、関わらないわけにはいかないのでは」

俊一は尚も頭を下げ続ける。

「知らない方が、いいんです。夏江ちゃんはまだ幼い。そんな女の子に残忍な現場を見せてしまったことは深くお詫びします。でも、だからこそ忘れてください。これ以上僕たちの事情に首を突っ込まない方が賢明です」

ママは憮然とした。パパとの約束を破棄してまで、救急隊員に怒られてまで介抱した相手に、もう会うな、と? しかも自分の大切な娘は、彼が言うところの『残忍な現場』を見せつけられた。こういうのって、何て言うか、納得できないじゃない。加えて、夏江は重要な目撃者にまつり上げられた。それらを全部辛飲してまで、なぜこの男性の、この家族の事情をくまなければならないのか。こっちにだって言い分がある。ママは言った。

「お気持ちは察しますが、こちらにも相応の責任が、あると思うんです。果たすべき責任が。事情を知る権利くらいありますよね?」

俊一は、ハッと顔をあげて、舌打ちした。夏江は二人の会話をじっと見守っている。

「……弟には、精神疾患の疑いがあるそうです」

「セイシンシッカン?」

「救急車内で暴れたため、鎮静剤を打たれました。今はおとなしく寝ている……というか意識が混濁している状態です」

俊一は、今度はママの目を見て言った。

「弟は、罪に問えない可能性があるんだそうです」

知らず知らずに拳に力が入る。ワイシャツの中は冷や汗をかいている。ママの反応がどういう反応をするかわからず怖かったからだ。それでも続ける。

「もうお分かりですね。弟は、気がふれて暴れた。その勢いで大切なお嬢さんに残忍な現場を偶然とはいえ見せてしまった。それは本当に申し訳なく思います。弁償もします。だから、」

「……」

「忘れてください」

「そんな」

「忘れてください」

俊一の眼光は鋭かった。ママは完全に口を塞いでしまった。

「重ねて、ありがとうございました。ご迷惑をおかけしたことは、深くお詫びします」

「ねぇ」

そこで初めて、夏江が会話に割り込んできた。

「パパが待ってるんだよね」

「ええ」

「お兄ちゃん、お大事にね!」

「……夏江、帰るわよ」

「はーい」

ママは深くため息をついた。このまま引き下がるのは不服だが、どうやら首を突っ込むと厄介なことになりそうだと判断したからだ。夏江はそんなママの胸中も知らず、

「あのね。あの兄ちゃん泣いてたよ」

そう俊一に言った。

「何だって?」

「私、見たもん。泣いてたよ」

「……」

夏江はママに手を引かれ、ばいばーい、と何度も手を振りながら病院を後にした。

 

 

征二の母は着替えを取ってくる、と言って出かけた。俊一が戻ると、そこにはユイが一人で縮こまってソファに座っていた。

「警察は?」

「捜査処理の手配がどうとかで、帰りました」

「そう」

沈黙が舞い降りる。俊一の腕時計の音だけが廊下に響いた。

小一時間ほど経った頃だろうか。征二の部屋のナースコールが押されたのは。

「!」

二人は慌てて部屋に入った。そこには点滴の針と手術痕が痛々しい征二の姿があった。

「征二!」

ユイは駆け寄って恋人の顔を見た。征二の目は開いているか否かわからないほどで、鎮静剤の副作用だろうか、手に力が入らないらしく両手でナースコールを握りしめていた。

「征二、私よ、わかる? 征二!」

ユイはその姿が痛々しくて、それだけで涙がでそうになったが必死にこらえた。

「……を……とって」

征二が何か言った。それを聞き逃すまいとユイと俊一は耳をそばだてる。

「ナイフが……ダメなら……銃をとって……」

「征二!」

「……お、俺は……捕まったのか?」

「征二、ここ病院よ。あなた車にはねられたのよ!」

「……ここは奴らがたくさんいるじゃないか……」

「え?」

「逃げろ、ユイ……逃げろ」

「何を言ってるの、征二、私は――」

「……ユイ?」

「そうよ」

「逃げろおぉ!」

突然、征二はベッドから飛び上がらんばかりの力で暴れ出した。ユイは驚きのあまりその場にしりもちをついた。

ようやくコールを受けたナースが二人やってくる。白衣の天使。その姿を見た途端、征二の脳は『やつら』の笑い声に支配された。

「うわあぁ!」

「征二、征二っ」

ナースと俊一、三人がかりで征二を押さえつける。俊一は冷静に、この姿を母に見られなくてよかった、と思った。

「インプロメン投与!」

看護師達の声などユイの耳には入っていなかった。

征二、征二、征二、征二!

「佐々木さん」

混乱の中、俊一が声をかけた。

「見ての通りだ。これ以上君に迷惑はかけられない。どうか、忘れてくれないか?」

「え?」

「征二と、別れてくれ」