間奏 LOVE SONG

ここ最近では珍しく快晴という言葉がピッタリな日、高橋美和は日勤のために6時に起床し、出勤の準備をした。朝食はいつも適当に済ませている。夕飯の残りをつまんだり、出勤がてらコンビニに寄ったり。今日は時間があるので、冷蔵庫を覗いて、ベーコンエッグを作った。我ながらいい出来だ。

朝食後に着替えるのが彼女の習慣である。といっても職業柄、マニキュアは塗れないし、もともとそんなに服飾に頓着する方ではないので、この間母に買ってもらったグレーのコートにダメージジーンズを合わせて、鏡の前で適当に全身を確認した。もう親にコートを買ってもらう年齢ではないのだけど、と美和は思う。しかも、グレーのコートなんてちょっと地味じゃないか。自分の稼ぎで買うからいいよ、と言ったものの、母親は、

「いい歳のお嬢さんなんだから、ブランド物の一つも持ってなさい。あんたが買うと適当に済ませちゃうんだから」

と言っていた。ブランド物にはあまり興味はないのだが、まぁ洗練されたデザインではあるよな、と美和は自分を納得させる。母のおせっかい、いや心遣いはありがたく受け取っておこう。

六畳一間の美和のアパートは、窓のすぐ外に別のビルが建っているので日が射さない。洗濯物は乾かないし、日照権の侵害じゃないかとすら思う。しかし、その分家賃が安いのでまぁしょうがない。そんな家に住んでいるから、玄関を出て初めて、今日が素晴らしく晴れていることに気づいた。こういう日は、仕事なんかしないで、公園でボーッとしていたい。そんな事を考えながら自転車の鍵を開けた。

 

美和の勤務する病院までは自転車で三十分とかからない。駅からもそう遠くない。そんな好条件の物件に出会えたのが、今年一番の幸運だと本人は思っている。

快晴とはいえ、冬の風は自転車に乗れば、身を切る寒さだ。病院の少し手前にある坂道で、美和は立ち漕ぎをする。坂を上りきって病院の入り口が見えれば、そこで大きく深呼吸をするのだ。

病院に着くと、すでに7時半が過ぎていたので、朝食を済ませた患者が数人、中庭を散歩していた。自転車置き場の大体決まった場所にマイチャリを置いた美和は、視線を感じて振り返った。美和の視線とぶつかったのは、青年だった。

美和は、あっ、と内心つぶやいた。美和が挨拶をする前に、青年の方が声をかけてきた。

「おはようございます」

美和はそれを聞いて、瞬時に職員の顔を作った。目の前にいるのは、自分の勤務する病棟の入院患者である。

「おはようございます、工藤さん」

工藤征二は、紺色のコートにジャージというラフな格好で穏やかな表情を見せている。

「今日はジーパンなんですか」

「ええ、まぁ。すぐ着替えちゃいますけどね」

「白衣の方が、似合ってますよ」

「あ、はい、どうも」

美和はぺこりと頭を下げて、足早にその場を去った。

 

朝の申し送りが済むと、美和は自分が使う血圧計を取りに行こうとした。その時、看護師長が、高橋さん、と名前を呼んだ。美和はすぐに返事をした。

「田島さんが、お子さんが熱を出して休みなの。高橋さん、今日、工藤さんの担当になってくれないかしら」

「はい、わかりました」

美和の頭をふっと、朝交わした何気ない彼との会話と笑顔が頭をよぎった。

 

十時のラジオ体操に、工藤征二の姿は見受けられなかった。いつものことである。病棟中に響くラジオ体操の音楽は、彼にとっては騒音だった。ラジオ体操などしなくても、征二の体は十分に鍛えられている。もっとも、入院生活で少々やつれはしたが。そのため、彼は外来の待合室に逃げて本を読んでいるのである。

ラジオ体操後に行われる患者同士のミーティングにも、彼はめったに姿を見せない。病棟生活に不満がないわけではないが、わざわざ自分の時間を割いてまで他の患者と接するのが煩わしかったからだ。

美和は申し送りでその旨を聞いていたので、血圧計と体温計を持って外来までパタパタ走っていった。

「工藤さーん、工藤さん」

美和が呼ぶとすぐに、はい、と奥の方のソファから声がした。

「血圧と体温を測らせて下さいね。今日、田島さん、お休みなんです」

「田島さん、どうかしたんですか」

「ちょっと。都合が悪くて」

征二は対して興味無さげにふーん、と頷いて、血圧を測ってもらうために腕をまくった。陸上で引き締まった腕が、少し白く弱々しく見える。美和は慣れた手つきで血圧を測り終えると、体温のチェックも滞りなく済ませ、それからは半ば事務的に訊いた。

「調子はいかがですか? よく眠れましたか?」

征二はその質問には答えず、読んでいた本に視線を戻してしまった。美和は多少の戸惑いを覚えつつ、精神科勤務ではきっとこういうことは茶飯事なのだと思い直して、今度は違う質問をした。

「何の本を読んでいるんですか?」

その質問には、征二は反応を示した。持っていた文庫本のカバーを外すと、少し黄ばんだ古い本が姿を現した。

「わぁ、年季が入ってますね。誰の本ですか?」

「詩集です。アルチュール・ランボォをご存じですか」

美和はキョトンとした。

「いえ、聞いたこと無いです」

「フランスの詩人です。夭逝した天才なんです。僕が一番好きな詩人です」

「そうなんですか」

美和は征二の看護記録をもっとよく読んでおけばよかったと思った。残念ながら美和は文学に造詣が深くない。しかし、それが逆にチャンスかと思った。

「工藤さんは本をいつも読んでいますよね。好きなんですか」

征二は声を出さずにこく、と頷いた。

「私は漫画か雑誌しか読みません。はは。工藤さんは難しい本を読まれるんですね」

「……難しくは、ないです」

征二は機械的に答える。

「読むのは。感じるのが、難しいかもしれない」

美和は征二の言っている意味がよくわからなかったので、とりあえず、ああそうなんですか、と相槌を打った。血圧と体温の測定が終わったので、美和は次の仕事に戻ろうとソファから立ち上がろうとした。

突如、征二が美和の白衣の裾を掴んだ。美和はびっくりしたのだが、なるべく冷静を装って「どうしましたか?」と言うと、征二は器用にも左手で美和の裾を掴んだまま、右手でパラパラ文庫本をめくっている。

「工藤さん、放してもらえますか」

「あらゆる非道が、オルタンスの残虐な姿態を暴く」

「は?」

征二はかまわず続ける。

「彼女の孤独は愛情の機械学、その倦怠は恋愛の力学」

「工藤さん?」

「幼児期の監視下に、幾多の世紀を越えて。彼女は諸々の人種の熱烈な衛生学であった」

征二の口調は均一で、どこか冷たい印象すら受ける。難解な言葉を並べているのだろうか? 彼の病気に時々見られる症状か? いや、彼は本を音読しているのだ。しかし、なんで?

「その扉は悲惨に向かって開かれ、この世の人間共の道徳は」

ここで征二は小さく息継ぎをした。

「……彼女の情熱か行動の裡に解体を行う。血だらけになった土の上に」

美和は仕方がないので、征二の気の済むまでその音読に付き合うことにした。そんな美和の心中を征二が知るはずもない。知るつもりもない。ただ彼は、それがまるで与えられた使命であるかのように詩の朗読を続ける。

「清澄な水素による、まだ、汚れを知らぬ様々な愛の恐ろしい戦慄。オルタンスを捜せ」

ここまで読むと、征二は口を閉ざした。

「……工藤さん、もういいんですか?」

征二は美和にもう一度ソファに座るよう促した。美和がそれに応じると、ようやく征二は白衣の裾から手を放した。

「不思議な詩ですね。私の知っている詩とは全然違うって言うか」

「どんな詩を読んでいたっけ?」

突然、征二の声のトーン、雰囲気が人懐っこく変わったので、美和はまたしても戸惑った。しかし、それはきっと患者が自分に気を許してくれているのだと捉え、

「学校の教科書で習った『二十億光年の孤独』とか、『アメニモマケズ』とか……」

「現代詩も好きだったっけ。ランボォは、小林と中原の意訳を巡って喧嘩したよね」

「え?」

「俺は両方とも好きなんだけど、君は小林秀雄の方が垢抜けていて高尚だと言い張っていたね」

「……?」

「今の詩、覚えてる? 本当はそらで言えるんだ。だけど、最近は頭がスッキリしなくて、ほら」

征二は右手でこぶしを作り、振るわせるように何かを掴む仕草をした。

「あの薄暗い……窓のない空間に捕まっていた間……俺は呆けてしまったよ。それでも、俺は君のことは忘れていなかった」

征二の一人称が「僕」から「俺」に変わっていることに、美和はようやく気がついた。

「一日だって忘れていなかった。でも紙も鉛筆ももらえなかったのは苦痛だった」

「何の、話ですか?」

征二はふぅ、とため息をついた。

「鉄格子の向こうに君を見つけたとき、やはり空の上に神はいないと確信したよ」

「鉄格子……」

ここまできで、美和は征二が、彼が入院したときに激しい症状が治まるまで収容されていた『保護室』を指しているのだと理解した。美和は看護師としてどういう言葉をかけようかと思案した結果、

「保護室は辛かったですか」

型にはまったような質問しかできなかった。しかし、征二は美和の想像を超える言葉を零すのである。

「俺が、俺であるが故に、俺は神なんだよ……」

反射的に美和の背筋に寒気が走った。

――ここで患者を否定してはいけない。患者の妄想をある程度受容し、患者の心を平静に保たなくてはならない。

患者自身も、妄想に苦しめられているのだ。看護者である私が、ここで頑張らなくちゃ。

美和は看護師としては一年目の新人だ。専門学校を卒業してこの病院に就職しているので、征二の一学年下ということになる。最初の半年は主に認知症の老人を専門に看護した。だから、自分と同年代の患者との接し方が、まだ彼女にはわかっていなかった。病者である前に、人間であること、一個の人格を持っていると言うこと。それを忘れてはいけないと学校では教わった。だから、彼に対しても病気の部分、ウィークポイントではなく、人格そのものを評価しようと試みるのであるが……『相手を正当に評価する』などというのは、新人の美和にとっては到底難しく、また同時にどこか看護者側の烏滸がましさが拭えない感も彼女は抱いていた。だって、同じ時代に育ってきた人が、病者と看護者という立場になってしまったなんて。今の時期って、工藤さんは大学生なんだからサークルとか、バイトとか、恋愛とか、色々できる時期なのに。……なのに、こんな場所で制限された生活を送っているなんて、なんか……かわいそう。

きっとこんな感情を抱くのは専門職として失格だ。でも、これが彼女が抱く、正直な思いだ。

美和がそんなことを考えている間にも、征二はブツブツ何かを呟いている。美和は彼の言葉を聞き逃してはならない気がして、その後の業務に支障が出ることをわかっていながら傾聴に努めようと思った。

「今は息を潜める時期なんだよね……君がこうして近くにいてくれる限り、俺達の邪魔はあいつらにはさせない」

「あいつらって、誰ですか?」

「天使。真っ赤に凝固した複眼を持った卑しい群れさ。君を狩りに来る」

それは看護記録で読んだことがある。工藤征二は、天使を怖れているといった幻想的な妄想を呈することがある、と。

「それは怖いですね」

「奴らは俺を鉄格子の中に閉じこめた。それを君が助けてくれたんだ」

確かに、保護室から一般病室に移室になった日、征二の担当をしたのは美和であった。担当患者は決まっているが、勤務がシフト制のため、その日の担当患者は日々変わるのである。

 

数週間前のことだ。幻聴や妄想などの激しい陽性症状が治まったと、主治医の診断が出たことで、征二は一般病室に入ることになった。保護室の中の征二は、始めこそ落ち着き無くうろついたり、壁を叩いたりしていたのだが、段々とベッドの上で寝るだけの日が続いた。暴れる心配は無いと判断され、さらにその環境が征二にとって苦痛であるとの判断が下され、移動となったのである。ベッドの中で丸まっていた征二に、あの日最初に声をかけたのが美和だった。

「工藤さん。今日から一般室に移動です。起きられますか?」

征二はこの時、美和の声を初めて聞いた。美和にとっては、征二は患者の一人であったが、征二にとっては、まるで薄暗い保護室に光が射した気さえした。……『彼女』より少し小柄だ。髪も短い。しかし、少しつりあがった二重の目と柔らかい声は、そっくりだった。似ているという事実はやがて、彼の妄想の中で混沌と掻き回され、彼は新しい夢を見始めてしまうのである。

投薬が効を奏し、精神運動の異常興奮は治まった。主治医に言わせれば、被害妄想等からも脱却できるだろう、との見解がなされている。しかし、寛解(症状が鎮まること)に確実に向かっているはずの征二には、それを阻む大きな心の傷があった。

あの冬の日。彼は運ばれた病室で、狂気に染まった確信を持って、彼女にこう言った。

「俺達の幸せは、もうすぐだよ」と。彼にとっては真剣な「幸せ」の確信であった。

車にはねられ、その傷ついた体の痛みすら忘れて伝えたい言葉だった。しかし、「彼女」はそれを否定した。いや、彼の全てを否定した。

『いやあぁっ!』

自分を拒絶した「彼女」のあの表情、仕草、声色全てが、彼の中にどうしようもない穴として穿たれているのである。その空虚な空間が、美和の声を聞いた瞬間に満たされていくのを、征二は感じた。

「準備が出来たら知らせてください。後で新しいお部屋に案内しますね」

一瞬のうちに征二の脳内で物語が展開する。

 

ああ、俺はようやくここから解放されるんだ。彼女は戻ってきてくれた。奴らに殺されることなく。笑顔を絶やすことなく……俺を、拒むことなく。

美和の名字は「高橋」であるので、当然周囲からはそう呼ばれる。征二にも認識はできているのだ、彼女は「高橋美和」であることは。しかし、彼女が『彼女ではない』ということが、時々わからなくなる。それは彼の症状の波に因る部分も多少あるが、やはり彼の抱える傷が為せる、悲しい最後の防御壁だった。自分が完全に壊れてしまわないための。

俺は、彼女に否定されてなどいない。

そうでしょ、ねぇ。

そして彼の現実は妄想とも幻想ともとれる浮遊感と入り交じって、今も彼自身を苦しめるのである。

 

美和はなるべく、話題を、彼が妄想に溺れてしまわないように変えたかった。

「保護室より一般室の方が楽しいでしょう、他の患者さんもいらっしゃいますし」

「うん。あそこにはもう入りたくない。入ってはいけない」

「そうですね。症状がこのまま安定すれば、心配は要りませんよ」

「紙も鉛筆も、本すらなかったんだ。辛かったよ」

「そうですよね」

「もう会えないかと思って、本当に怖かった」

「でも、今の工藤さんなら、もうあそこに入る必要なんてありません」

征二は文庫本を閉じて膝に置いた。そして自分の右手をじっと見ながら、

「頭に留めておくことしかできなかったけど」

「何を、ですか?」

征二は何かを看破したつもりになったらしく、ふふっ、と笑った。

「田島さんが休みというのは、嘘なんでしょ?」

「え?」

「やっと素直になってくれたんだね」

「え」

「俺の担当になってくれたじゃない」

「それは、田島さんが今日休みで……」

「君がいつも他の人間を相手にしているのは、俺の気を引くためなんだよね」

「え、え?」

話が流転してよくわからない。征二の意図が読みとれない美和は、今度は戸惑いを全面に出した。感情を、隠せなくなっていたのだ。

「わかっているよ。君は強がりというか、意地っ張りだから」

何を言っているのだろう。これも妄想か? 患者が治療者によく抱く一種の病状に確かに恋愛妄想というのは存在する。しかし、彼の場合は何だか違う。ただ求めるだけの都合のいい恋愛妄想ではないような気がする。

「全部、俺は許すつもりでいるんだ。あの日のことも、これからのことも」

彼の口調には、何かを美和に『与える』ような印象を受けるのだ。美和に、というよりは、『彼女』に対して。美和は必死に看護記録を思い出した。家族によれば、工藤征二には入院直前まで付き合っていた恋人がいたらしい。

なんと声をかけたらいいのだろう……。

美和が模索していると、この不可思議な空気をうち破るように、

「忙しいだろうから、また後でね。俺は今からOT(作業療法)だから」

征二はさらりと言った。

「はぁ……」

美和より先に、征二が立ち上がってしっかりとした足取りで病棟へ戻っていった。美和は血圧計と体温計を抱いたまま、少しの間外来のソファでしばし呆然としていた。しかし、外来の受付が始まり、人が入ってきて、ざわつき出したのがきっかけで気を取り直し、ふと腕時計を見やった。すっかりカンファレンス開始の時間である。

「やば……」

小柄な美和は、その小さな足を懸命に動かし、慌てて病棟に走っていった。もちろん師長に小言を喰らってしまった。

それからはいつも通り時間が過ぎていった。他の担当患者のバイタルも取らなければならなかったので、いつもより忙しく感じた。昼食前にOTから征二は戻ってきたが、それ以降特に美和に干渉することなく、またデイルームで本を読んだり、病室で何か書き物をしたりして過ごしていたようである。

日勤がようやく終わる午後五時、美和は一日の看護記録を付けていたのだが、他の患者の分は書き終えても、工藤征二の分で筆が止まった。多少の妄想あり、って書くんだろうな、普通は。異常行動あり……白衣を掴んだのは、『異常行動』か? そういえば彼が言っていた『頭に留めておくこと』って何だろう? ああもう、まとまらない。

結局、定時を過ぎても記録紙は真っ白だった。居残っていればそれなりに仕事が出来てしまう。患者に呼ばれて応対をしている間にも、時間がどんどん過ぎていってしまう。まぁ、家に帰ってもテレビを観るか、友人のケータイにメールを打つくらいで、すぐシャワーを浴びて寝てしまうのだが。まぁ残業手当だってつく。だからいいじゃない、と気持ちを慰めつつも、フルタイム後は体力が保たない。早く家に帰って、ベッドに転がりたいな……。

 

不安発作を訴えた患者に頓服薬を与えながら、美和は必死に征二の記録を考えていた。その場に残っていれば様々な患者から様々なことを頼まれる。日勤帯の看護師達がいなくなった夜勤帯では尚更である。夕食後の投薬を介助したり、老人のトランスをしたり。

午後九時、消灯時間すら過ぎた頃、夜勤帯の先輩の看護師が、

「まだ帰らないの?」

とようやく話しかけてくれた。美和は、記録が付けられない、と正直に伝えるのが、なんだかまるで自分の力不足を露呈するようで嫌だったので(新人なのだから力不足は当然だが、それを素直に認めたくない美和である)、

「先輩、工藤さん担当したことありますか?」

相談という手で打開を図ろうとした。先輩は「あるよ」と何の気なしに答えた。

「若いわよね、この病棟の中じゃ一番。現役の学生さんなのよね」

「今日、田島さん休んだじゃないですか。それで私、工藤さんの担当になったんです」

「それで?」

「え、あ、いや、それで、工藤さんって、ちょっと難しい人だなって思って」

「難しい?」

「はい」

「症状がまだ安定していないってこと? 彼は妄想ひどいからね」

「そう、でもあるんですがそうでもなくて、難しいことを考えている人だなって」

「そんな事を考えて今まで居残ってたの?」

「いや、まぁ、正式に工藤さんの担当になったのが初めてだったので」

「それで記録が付けられないわけだ」

「あ、え、まぁ」

あっさり白状してしまう。美和は自分のこういう部分がキライだったが、他人はこの部分にこそ美和の長所を見いだすのだ。目の前の先輩もそうであったから、自分の仕事を中断して、征二の看護記録ファイルを取り出して、

「趣味、読書、とあるわね」

と読み上げ始めてくれた。

「宗教は特に決まっていないのね、日本人に典型的なタイプみたいだけど。妄想や幻覚って不思議ね、それなのに天使が見えちゃうのね」

「読書、してますね、いつも。今日も。詩を読んでいたんです」

「へぇ。文学青年なんだ」

同時に陸上もやっていたので、征二はいわゆる文武両道の人間であった。美和は自分でも気づかない内に、工藤征二という一つの人格に興味を持ち始めていた。だから、色々考えた。考え込んで、記録が付けられないのである。客観的事実に主観を加味して書くことのできる他人の記録と一線を画していたのは、そのためであった。

「保護室にいた頃は、そうね、よく壁に文字を書く真似をしていたわね。何か呟いてもいたけど、聴き取れた人はいなかったみたい」

文字。何かを呟いていた。そういえば、今日も。

「星野さん」

ナースステーションの入り口で、先輩の看護師を呼ぶ声がした。二人が振り向くと、そこには当の工藤征二がいた。手にメモ帳とペンを携えている。

「あら、工藤さん。眠前薬はさっき飲んだじゃない。横にならないと眠れないわよ」

「面会室を借りていいですか」

「もう消灯時間を過ぎているわよ。どうしたの?」

「途中だったんです。今日中に仕上げて、ちゃんと渡したくて」

「何を?」

「恥ずかしいから言いません」

先輩は苦笑した。

「それは困ったわね」

美和はなぜか身を引っ込めていた。といっても隠れたわけではなく、何となく今、彼に見つかるのが気まずいような気がして、息を潜めた。しかし、当然征二の視界に美和の姿は入る。征二も何か思い当たるフシがあったらしく、美和を確認した瞬間、あ、と声を出した。

「工藤さん。その用事は、明日じゃなくちゃだめなのかしら」

先輩はこの雰囲気を察し、助け船を出してくれた。美和の存在を知った途端に、征二の声量は小さくなる。

「いいえ。あ、やっぱりダメです……だって、保障がないから」

「保障?」

「明日の、僕の担当はどなたですか」

「えーっと、ちょっと待ってね」

先輩は勤務担当表を棚から取り出して、指で辿って征二の名前を探した。

「ああ、山口さんよ」

「……そうですか」

「それがどうかしたの?」

「それじゃあやっぱり、やっぱり今日じゃなきゃダメです。その」

ちら、と美和を見て、征二は思い切ったように言った。

「寝て起きたら、忘れちゃう。明日は違う人に行っちゃうし……」

「……担当のことかしら? 別に皆とは普通に病棟で会えるじゃない」

「でも、僕は馬鹿だから、寝たら忘れてしまうんです。十五分でいいです。あと十五分あれば出来上がるんです」

「何が?」

「恥ずかしいから言いません」

「ますます困ったわね」

そう笑いながら、先輩は面会室の鍵のついたキーホルダーを壁から取った。

「キッカリ十五分だけよ? 他の患者さんには内緒にしてね」

「あ、ありがとうございます」

「今回だけだからね」

頭を下げた征二は、鍵を受け取るとすぐに面会室に入っていった。一部始終を見ていた美和は思わず、

「先輩、いいんですか?」

驚いたように言った。先輩は人差し指を口にあて、

「あなたも、先生達には内緒にしておいてね」

「はぁ……」

征二が面会室に行っている間は、先輩には夜勤業務をこなしていたためにあっと言う間に感じられた。対照的に、美和は面会室で果たして征二が何をしているのかが気になって、そわそわと落ち着かない時間だった。ピッタリ十五分が経過した頃、征二が恭しくキーホルダーを持ってきた。

「あの、ありがとうございました」

「用事は無事済んだ?」

「はい、御陰様で」

「じゃあもうベッドに入って。薬が効いているんだから眠いはずでしょ?」

「あの、」

「何?」

「もう寝ます。おやすみなさい。あの、これを、渡しておいてください」

『誰に』とは言わなくても答えは明白だった。先輩は頷いて征二からメモを受け取ると、

「おやすみなさい」

そう言って征二を帰るよう促した。征二はもう一度頭を下げると、ゆっくりと部屋へ戻っていった。

「ですってよ、高橋さん」

「えっ、私?」

そう言いながらも、美和はメモを渡されることが予感できていた、というか征二が来た時点で何かが起きるような気はしていたので、覚悟にも似た気持ちでメモを開いた。そこには丁寧な文字が並んでいる。何度も書き直した痕跡もある。ああ、妙な内容の手紙だったらどうしよう。

しかし、征二からのメッセージは美和のその予想をいい意味で裏切るものであった。

メモを読み終えた美和は、頬杖をついてまばたきを繰り返した。言の葉がくるくると頭に回る。なんだろう、この感覚は。そういえば彼は今朝、言っていた。

『保護室には紙も鉛筆も、本すらなかったんだ。辛かったよ』

彼は、誰かに、何かを、伝えたかった?

「……あ、そうか」

やがて美和は独り言のように呟いた。そして、それからはすらすらと記録を付け始めた。先輩は、その美和の様子を見守ると、ふぅ、と息をついて自分の勤務に戻った。

 

この日を境に、美和は工藤征二に更に興味を持つようになった。年齢が近いのに対照的な境遇にある故の同情心だけではない。もちろん職業に差し障りのある剥き出しの感情でもない。この感覚は、美和は今までの人生で一度も体験したことのない不思議な感情だった。だから、なんと表現していいのかわからなかった。ただ、はっきり言えるのは、それが嫌なものではないこと、むしろちょっとした心地よさすら感じさせる思いであるということである。

 

『愛しいという気持ちは非常に口当たりのいい言葉です。耳障りもかなりいいです。聞いただけで安らぐ人が居る程です。人が人を愛しいと思う、というのは、まるで既にプログラミングされているかのように当たり前の現象です。

さらに人は動物を想う、植物を想う、無機質な物質を想う。愛しいとは、つまりは今ここに生きているという事実を、自らに明確に示すための感情です。いわば、立ち位置、酸素、諸々の学問に自分の存在を投影する力です。

つまり、地球に絆創膏を貼る行為なんです。東西南北に愛情は満ちています。それと同時に縦横無尽に飢えと憎しみが蔓延しています。僕はそれを愛情に換えるのが夢なのです。そんな夢を持った自分を今、愛しいと感じています。』

PHRASE 11 春