神様、ごめんなさい。私は愛する人を拒絶しました。かの人は救いを求めていました。私を、心から愛してくれました。
しかし、主よ、かの人はあなたを拒絶したのです。私を守るために自らが神になってしまったのです。その妄想は私の心を引き裂きました。しかし、かの人はその罪深さすらもう感じることができなくなってしまったのです。
主よ、私はあなたを裏切れません。故に愛する人の手を拒絶しました。私は幼い頃よりこう教わってきました。『一番大事な戒めは、神を愛すること』だと。
この世界を創造されたのは父なる神です。この肉体が裂かれ焼かれようとも、魂は主のものなのです。ああ、罪深いのは私の方なのです。
心病む人のために私の未熟な心は、厳めしい地極にて大らかに開かれなければならないのに。人を愛する資格が、私にはもはや無いのです。当然、愛される資格も。
「工藤さんは?」
「高橋さんと散歩中よ。昼食前には戻ってくるんじゃないかしら」
「また? 本当に真面目ね。私達も見習いたいくらいだわ」
春の日が、ポカポカと中庭の土を温める季節が巡ってきた。『やすらぎの庭』と名付けられた花壇の前で、二人はベンチに腰を下ろした。高橋美和は、征二がゆっくりと確実に座ったのを確認して肩に添えた手を放した。
「ほら、見てください。これ、青が綺麗ですね」
美和がそういうと、征二は微笑みを浮かべて頷いた。エゾエンゴサクの花が咲いている。
「綺麗ですね」
今日は風がそよそよと吹いていた。まだ冬の匂いを残していて、少し肌寒い。紺色のダッフルコートのポケットから手を出して、征二は花壇に手を伸ばした。
「そうです、それです。あ、あまり触っちゃダメですよ。そっと」
美和が言うと、征二は空を仰ぎ見た。太陽の光が直接目に届いて、眩しさから目を細めた。
「今日は天気がいいですね。私、春って好きです。なんか、無条件にワクワクします」
中庭には他にも数人、この天気を満喫している人が歩いている。木陰に座って煙草を吹かしている人もいる。
それを見て征二はコートのポケットをまさぐった。くしゃ、という感触があってそれを取り出すと、昨日空になった煙草の箱だった。
「工藤さん、それゴミじゃないですか。捨てましょうね」
美和が空箱を受け取ろうとすると、征二はそれを拒んだ。
「どうしてですか?」
「……」
征二はしばらく空箱をもてあそんだ。美和はその様子を穏やかに見守っていたのだが、
「また、見つかった。何がって?」
唐突にしっかりとした口調で征二が喋りだしたのを見て、息を飲んだ。どうやら征二は空き箱に向かって話しかけているらしい。
「何がって――永遠さ。それは行ってしまった海さ。太陽と一緒に」
こういう事なら、もう何度か経験した。彼の持つ病気特有の、『解体した会話』である。彼は発病前、文学に造詣が深かったらしい。今の言葉もきっと、何かの引用なのだろう。
「工藤さん」
美和は彼を刺激しないように声をかけた。
「もうすぐお昼です。午後には音楽療法があります。そろそろ戻りましょう」
征二は緩慢な動きで空箱をポケットに戻すと、視線を美和へ向けた。空洞のような征二の瞳が美和の手を見つめる。美和は少し動揺して、その場の雰囲気をとり繕うように言う。
「立ち上がれますか?」
征二の虚ろな瞳は、あれからずっと潤んでいるのだ――あの日から、ずっと。差し出された小さな手を、征二は静止したままじっと見た。美和はそわそわして、手を引っ込めてよいものかどうか悩んだ。――そうこうしているうちに、
「あっ」
征二が力強く手を握ってきた。美和は振りほどこうにも、男性の力に勝てるわけがない。美和は再びぎくりとした。先ほどまでの微笑みと違って、彼はどこか感情がこじれたような、奇妙な笑みを浮かべながら自分の手をなぞるように握ってくるのだ。美和はあくまで彼を刺激しないように、そっと言った。
「工藤さん、放してください」
「……」
「工藤さん」
「……」
美和は思い直した。ここで妥協してはきっと、プロ失格なんだ。
「人の嫌がることは、してはいけませんよ。現に今、私はあなたに手を強く掴まれて痛いんです」
美和は征二の様子を見ながら、慎重に言葉を選んだつもりだった。しかし、
「……なんで?」
不自然な笑顔が一転して曇る。そして美和がしまった、と思う内にあれよあれよという間に、
「……なんで、いっつも、俺を……嫌がるの?」
潤んだ瞳からポロポロと涙が零れ落ちてきてしまった。
「何で、ねぇ」
言葉と表情のあどけなさと裏腹に、手を握る力は強くなる一方だ。美和は左手で、それをほどこうと試みた。が、うまくいかない。わかっているのだ、彼はまた勘違いをしている。病気のせいだから、仕方がない。
初めて私に会った時も、彼は私に言った。「来てくれたんだね」と。
「工藤さん、ほら、早く戻りましょう。看護師達が待ってますよ」
「……一緒に、歩いて、帰ろうよ……」
「そうですね、戻りましょう。だから手を放してください。お願いです」
「イヤだ……」
「工藤さん」
「どうして?」
「痛いからですよ」
美和は次に征二が言うであろう言葉を予測して、心の準備をした。
「ごめんね、ユイ」
やっぱり。美和は涙に濡れた征二を見て、彼を心底憐れんだ。こういう感情を抱くのは、やはりプロとして失格なんだろうか? 患者の妄想を否定してはいけない。たとえ妄想でも、彼等にとっては生きている世界そのものだから。美和は優しい嘘をついた。
「そうですね。手を繋いで帰りましょう」
その言葉を待ちわびていたかのように、征二の表情に生気が戻る。嬉しそうに微笑んで、
「うん……」
ようやく過剰な力を抜いた。美和は立ち上がると、征二が一歩一歩踏みしめるのに合わせてゆっくり歩いた。
「高橋さん、お疲れ様。お茶、置いておくわよ」
「はい、ありがとうございます」
「熱心ねぇ」
「いえ、そんな」
美和は夕食後の患者への投薬作業が終わると、ナースステーションの奥で日誌をつけていた。フロアの共同用のほうじ茶を一口飲んで、師長の背中に声をかけた。
「あの」
「何?」
美和は今日の午前中の出来事――征二に強く手を握られたことを、包み隠さず話した。
「その……何て言うか、怖かったというか、どうしたらいいのかわからなくて」
「うーん」
師長は征二のカルテをぱらぱらとめくりながら、首をひねった。
「そうね。自分の抱いた素直な感情を、箇条書きにするのもいいと思うわ。自己覚知なんて、実際現場に出てみないとそうそうできないし」
「素直な感情、ですか」
美和はくりくりの瞳に疑問符を浮かべた。
「怖かったならなんで怖かったのだろう? と自分の感情を掘り下げるの。そして患者さんが私達に求めているのは何だろう? とかね、色々」
「求めているものって、何ですか?」
師長は、新米とはいえ、美和のこういうまっすぐでわかりやすい(これは師長にとっては褒め言葉だ)ところを気に入っていた。自分の新人時代と姿がかぶるのだ。
「それは自分で考えなさい。ううん、正直言うとね、私も未だにわからないの。それを模索し続けるのが、プロってやつなんじゃないかしら」
「はぁ」
「まぁ、あまり気張りすぎないことね。高橋さん、あなたちょっと真面目すぎるから」
「そう、ですかね」
「長谷川先生には私から話しておくから……嫌だったら、離れてもいいのよ?」
「え?」
「今後の工藤さんの担当」
美和は別段そこまで思い詰めていたわけではないので、内心慌てた。なので、
「いえ、大丈夫です」
師長の提案を断った。もっと言えば、美和は興味を持っているのだ。工藤征二という人間に。
「今日はそれを書き終わったら早く帰りなさい。最近残業続きでしょう」
「はい」
俊一は家に着くと、コートを脱ぎ捨ててリビングに向かった。廊下まで、テレビの音声が届いている。
「ただいま」
母がこたつに潜ったまま寝ていた。いつものことだが、夕飯もまだ食べていない。俊一は買い物袋から出来合の惣菜を出してレンジで温めた。レンジで温め終わる電子音で母は目を覚ました。
「……おかえり、俊一」
「風邪ひくよ、そんなところで寝てたら」
「あぁ……そうね」
母はニュースを観ながら寝てしまったらしく、ゴールデンタイムのお笑い番組がそのまま流れていた。二人はそれを観るでもなく、かといって消すでもなく。会話のない乾いた食卓に芸人の笑い声だけが響いた。夕飯を終えると、母がようやくコタツから出てきて、
「片づけくらい、私がやるわ」
と食器を片づけ始めた。俊一はおう、と返事するとカバンから手帳を取り出して眺めた。来週はもう修了式か……早いな。明日の職員会議は申し訳ないが抜けさせてもらおう。
「母さん」
「何?」
俊一は母の背中に声をかけた。
「明日、俺、仕事が終わったら征二の見舞いに行くけど」
木曜日は授業が短い。その後の会議を休めれば、十分な面会時間がとれる。母は洗い物の手を止めず、そう、とだけ言った。これも、いつものことだ。あれ以来、母が征二の見舞いに行ったことはない。俊一は半ば諦めたようなため息をついてから、手帳に印をつけた。
夜の病棟は当然静かだが、不眠を訴える患者も絶えない。征二もその一人で、ベッドから起きあがると、個人にあてがわれた棚から煙草を取り出して、パジャマのポケットにつっこんだ。それから無意識に、入院時に兄からもらった手帳とボールペンも持って廊下を歩きだした。
……僕の世界は……ぐるぐると……何にも噛み合わない歯車の如くカラカラと……しかし確実に回り続けているんだよ。
喫煙室には、すでに先客がいた。50歳すぎの男性だった。気怠そうに煙を噴かしている。男性は、征二の姿を確認するとよう、と手をあげた。
「おう、兄ちゃん、今日も眠れないのか? 俺もだよ、ハハ」
「……眠れないんじゃありません。僕は眠ってはいけないんです」
男性はニカッ、と噴き出して、吸っていた煙草の火を途中で消した。
「……」
征二は自分が迷い込んだ、自ら身を投じた妄想の世界に住んでいる。メンソールタイプの煙草に火をつけ、その香りを楽しみながら、鼻歌などを歌う。
我が放浪……
僕は出かけたものだ
破れポケットに拳つっこみ
外套ときたら目もあてられぬさまで
大空のした
ミューズよ
僕はお前の忠僕だった
やれやれ
なんと華麗な夢をみたことか
一張羅のズボンには
大きな穴がひとつあき
夢みる親指小僧よろしく
ゆく道すがら韻を撒いた
僕の旅籠は大熊座
空ではぼくの星が
甘い衣づれの音をさせていた
路傍に坐って
ぼくはそれを聞いていた
あのすばらしい九月の宵
元気づけの酒みたいに
夜霧が額にしたたるのを感じながら
あるいはまた
幻想的な物影に囲まれ
韻を踏みながら
ぼくはこの胸に片足ひき寄せて
オンボロ靴のゴム紐を
まるで堅琴みたいに
ピンと引っ張ったのさ
征二は持ってきた手帳を片手で開いて、明日の日付に目をやった。3月12日。ユイの誕生日だ。
今年は何をあげよう。明日また会えるかな。征二は薬剤の副作用による頭痛を覚えたが、それもなにか心地よく感じられた。そうだ。この箱庭をプレゼントしよう。きっと喜ぶだろうな。そう……僕が神様で、君は僕に選ばれた唯一の天使なんだから。
煙草の白煙が、次々と排気口へと吸い込まれていく。夜が更けて、無音のままに果てていく。
PHRASE12 記念日へつづく