ここにはもう二度と来てはいけない気がした。けれど、今日は、いや今日だからこそ、私はここへ来なければいけないのだ。私は誰からも祝福されてはならない。私は罪人だ。
しかし、罪を償う術を私は知らない。もしかしてこうしてもがくことが『償い』なのだろうか? 私は触り慣れた鉄製のドアに触れた。3月の空気を反映してまだ冷たかった。
朝の服薬が済むと、征二はコートに財布とハンカチを入れて真っ先にナースステーションへ向かった。
「おはようございます」
「あら工藤さん、おはよう。よく眠れた?」
夜勤と日勤の引継カンファレンスの途中だったらしい。看護師が二人、にこりと応じた。
「魚が煙草をふかしていました。火事になるといけないので見張っていました」
「ご苦労様。でもちゃんと寝なきゃだめよ?」
「今日は寝ている暇がないんです」
「あら、どうして?」
征二はふぅ、と長く息を吐いて、
「大切な日だからです」
「そう。寝不足は万病の元よ。あとで体温と血圧を測ります。今日の担当看護師は田島さんですから」
「外へ出たいんですが」
「コートまで着ちゃって。準備は万端ね」
看護師は二人苦笑した。
征二は看護師と二人で、中庭へ向かった。
「朝から散歩なんて、工藤さんは元気ですね」
付き添いの看護師は感心して言った。しかし征二は、そわそわと落ち着かない。
「どうかしましたか?」
「………」
「?」
「急がなきゃいけないから」
「何がですか?」
征二はコートのポケットから手を出してしばし見つめた。
「工藤さん?」
征二は突然『やすらぎの庭』と名付けられた花壇に躊躇なく手を伸ばすと、
「あっ、工藤さん」
ブチ、と音を立てて咲いていた花を摘んだ。
――あなた、見てくれていますか? あなたがいなくなってもう何年になるかしら……あなたが旅立ってからの春は、いつも寒かった。けれど、私達の宝物は大きく成長したわ。それだけが、支えだった……それだけが。
あの子をどうか、見守ってください。私はもう、泣くのに疲れました。現実を受け止めなければならないのなら、私一人では重すぎる。最近は手料理も作らなくなってしまったわ。あなたに褒めていただいた煮物も、めっきり作らなくなりました。
今年の冬は寒すぎました。あの子はどうしているかしら? あの子ったら、本当に。どうしちゃったのかしら……。
笑うしかないわよね。ねぇ、あなた。私もあなたのもとへ行きたい。
短縮授業の始まった高校の三学期は慌ただしい。俊一もまた、自分の受け持つクラスの成績表の記入に頭を悩ませていた。ちら、と時計に目をやった。午後0時半を過ぎている。俊一は仕事を持ち帰ることにした。
「すみませんがお先に失礼します」
「はいよー」
俊一は職員室を足早に出ると、カバンを片手に廊下を走った。
「お疲れさま」
「どうも」
「さよなら先生」
「あぁさよなら」
駐車場への途中、同僚や先輩の教師、生徒に何人か声をかけられたが、軽く流した。今日もよく晴れている。
そういえば最近、雨が降っていない。天気予報では今日の夕方から曇り空になる、と言っていたが。昼食をカロリーメイトで軽く済ませると、車を発車させた。
目指す場所もルートも決まっている。国道に乗って20分もすれば着くだろう。午後4時まで、まだ時間はたっぷりある。今日は何を持っていこうか?
一般道に降りてすぐ、俊一はコージーコーナーの前で車を止めた。路肩は駐車禁止だったが、ものの五分とかからない用事ならいいだろう。ショーケースに並んだケーキを見て、俊一の頭をよぎったのは、いつかのクリスマスだ。
「僕、このでっかい栗が食べたい!」
あの頃、俺もあいつもまだ小学生で父も元気だったし、母もふっくらしていた。あれから二人でモンブランの栗を取り合いしたっけな。
「いらっしゃいませ」
アルバイト風の若い店員が応対に出た。自分の生徒と同じ位の年齢だろう。原則アルバイト禁止だが、隠れてしている生徒を何人も知っている。
「モンブランを3つください」
「ドライアイスはいりますか?」
「いえ、結構」
俊一は財布から千円札を取り出した。三つ。この数には理由がある。以前、自分が食べたくて道明寺を二つもっていったことがあった。だが征二は食べるのを拒んだ。
「あれ、お前、桜餅嫌いだったか?」
そう言ったら、弟は固まった微笑みを絶やさぬままこう言った。
「俺はいいよ。二人で食べなよ」
「え?」
「俺が食べたらなくなっちゃうよ、ユイの分」
そんなことがあってから、俊一は見舞い品を持っていくときには必ずかつての弟の恋人の分を買っていくようになっていた。
弟は未だに夢を見ているのだろう。主治医の話では、薬で病気の症状そのものは緩和されているらしい。
それでも未だに彼が「ユイ」と口走るのは、彼女が自分を見捨てたという現実が彼にとって重すぎるからなのだろう。心の最後の砦を守るために、征二は妄想の世界に生きている。
ここを否定すれば、道は二つに一つなのだ。一つは現実を受け入れ、病気を受け入れ生きていく道。医学的には決して夢物語ではないという。
しかし、俊一はもう一つの可能性を危惧していた。すなわち、人格の荒廃。主治医から聞いた話では……人格の荒廃が進めば征二は、二度と元には戻れないらしい。
薬によってそれを防ぐことはできるが、今の彼にこの現実を受け入れろと言うのは酷な話だ。何もすすんで危険な道を選ぶことはあるまい。
そう、それ以外にどんな選択肢が残されているというのだ。
「お客様」
「えっ」
「お待たせしました。商品と、240円のお返しになります」
「あ、あぁ」
俊一はすっかり考え込んでいた。店員が少し戸惑った声で言ったので、俊一はとり繕うように咳払いをした。
この癖、父もよくしていたな。車に乗り込んで発車させようとしたとき、カバンに入っている携帯電話が鳴った。着信は、第一総合病院。今向かっている場所からだ。何かあった時のために、緊急の連絡先として、俊一は自分の携帯番号を病院へ伝えていた。『何かあった時』のために。
「もしもし」
「もしもし、第一総合病院精神科A病棟です。工藤さんでお間違いないでしょうか」
「ええ、いつも弟がお世話になっています」
「工藤さん、今はご在宅ですか?」
「いえ、ちょうど今そちらへ向かっているところなのですが」
「そうですか。ご自宅にはどなたかいらっしゃいますか?」
「それは……」
母がいるが、電話に応対するなら自分がいいだろう。
「ご用件は」
すると電話をかけてきた人物――おそらく病棟の看護師――は一瞬声を詰まらせてから、
「実は、征二さんが病棟からいなくなりました」
「なんですって?」
「昼食の時間になっても食堂へ来ないので、部屋へ行ったらコートと財布がなくなっていたんです。病院中を探したんですが……」
「そんな」
「散歩の付き添いをしていた看護師には、『箱庭』? を贈るために出かける……とか言っていたらしいのですが、いつもの症状だと思って見逃してしまったらしいんです」
「逃げ出したんですか」
「申しわけありません。警察に届けようかと」
「待って下さい。一旦そちらへ向かいます」
通話ボタンを切ると、俊一は今買ったケーキを一瞥してから、ため息をついた。
駅までは歩きやすいシューズのおかげで30分とかからなかった。薬の副作用で多少手足は震えていたが、問題なかった。彼がこんなに歩いたのは久しぶりだったのだが、その事に対して格別の感動を彼は覚えなかった。
征二を残して、刻々と変わっていく街の風景。喧噪通り過ぎる人々の伸ばす影。彼は使命感に燃えていた。いや、『囚われていた』と言った方が正確だろうか。電車の切符を買うのにも苦労はしなかった。
ホームに上がれば間もなくやってくる橙色の電車。東京行きに乗る。電車の中は空いていた。征二はふらつく体を座席に沈めた。そして自分の手の中にあるエゾエンゴサクの花弁をそっと撫でた。彼女の頬のように柔らかい。
征二には自覚がないが、彼の瞳には生気が満ち満ちていた。本来ならばそれは歓迎されることなのであろうが、
「……」
それは同時に彼の中に長く抑圧されている願望を刺激するものでもあった。電車は高円寺で止まった。征二は再びポケットに手を突っ込み、静かに電車を降りた。使命? 欲望? とにかく彼はガソリンを充填した車のように止まることを知らない。駅を出れば見慣れた景色が広がった。
よくここを二人で歩いたよね。今日はどうする? いつものファミレスじゃイヤだよね。
大丈夫、とっておきの花を用意したんだ……。
ユイはスカートのポケットから鍵を取り出して、部屋の中へ入った。まだこの鍵は捨てられずにいた。
部屋の中に入ると、そこがあまりにも整然としているので寂しくなった。征二の母が定期的に来ては掃除をしているらしい。棚もタンスも、きちんと閉まっている。テーブルの上には家主の書きかけのレポート用紙が端を揃えられて置いてあった。
ユイは、家主がいないにしては綺麗すぎるこの部屋の隅に身を縮めて座り込んだ。
自分は、何がしたいんだろう。今日が何の日かだなんて、もうあの人には関係ないのに。私自身、もうどうだっていい。だったら、何で今日を選んだんだろう。私は、結局自分が許されたいだけなんじゃないだろうか。
ユイは手を固く組んだ。神様、教えてください。私はどう贖えばいいですか? 呼吸の仕方から教えて下さい。
開けっ放しの部屋のカーテン。窓から春の日差しが入ってくる。そういえば最近ずっと晴れているな。あの日は……そうあの日は、嫌と言うほど雨に濡れたというのに。寒かった、あの日。
「……征二」
外の階段を足早に駆け上がってくる乾いた音が響いた。
ううん、私には関係ない。神様。私は今日、この場所で懺悔を始めようと思います。まずはそれをお許しください。
興奮に血走った目は、彼の歩を一層早めていた。年に一度の記念日。早くしなきゃ。僕はまた箱庭へ堕ちてしまう。君を守れなくなってしまう。
二〇一号室のドアまで辿り着くと、征二は深呼吸をしてから冷えたドアノブを回した。
ユイは物音に気づいてビクっと身を震わせた。
無人のはずの部屋から、懐かしい香りがした。
ガチャ、とノブが回る音と同時に静かな息づかいがユイの耳に届いた。
彼女のよくつけている香水の香りに、征二はまばたきした。彼の姿を確認すると、ユイは息を飲んだ。
「……征二!?」
手には、小さな花。エゾエンゴサクという名前も、彼にとっては意味がなかった。
「ああ、ユイ。これを君にあげる。どうぞ、受け取って」
ポケットにしまっていたエゾエンゴサクは、擦れてバラバラになっていた。
PHRASE13 映画館へつづく