人は彼の見る世界を否定する。世の理に適っていない、と糾弾する。彼女もまた同じで、彼女は彼女自身の見る世界に適う「彼」を夢見ていた。それ故に、「神」という偶像を理由として彼女は自分を包む『一つの愛情』を否定した。
世の中の道理や法則に縛られない世界に、彼は住んでいる。彼のひしゃげたフィルターには、きらきらと磨き上げられた愛しい人以外はモノクロに映るのであろうか? それとも、彼にはすべてお見通しなのだろうか、自分自身を包む世界の冷たすぎる体温を。傷つく、傷つかないという次元の話ではない。例えば彼が幻想の世界に住んでいるという「現実」はそこにあって動かしようがない。
どうせ同じことなら、いっそ受け入れてその強ばった手を握り返すことが……どうしてできないのだろう。
怖いのだ。傷つくことはおろか、このままでは自分の知る世界が壊れるのではないかという恐怖が、そこにはあった。彼は常にこちらに手を伸ばしている。こちらの世界に来いとばかり、理解に窮する言葉を投げかけてくる。お仕着せの価値観。すがりつくためのドグマ。『幸せ』を描いて決めつけていた哀れな女の子は……私?
ユイの目の前で、名付けられた花はブルーの花弁を床に散らした。ユイは息を飲んだ。『非日常』の具象体が目の前にいる。そう表現しても、彼女にとっては過言ではなかった。しかし、不思議とおぞましさは感じなかった。ただ、あの時と同じように、彼女は彼を心底憐れんでいた。ユイの鼓動は高ぶった……戸惑いによって。なんで彼がここにいるのだろう。なんでまた私の名を呼ぶのだろう。なんで、私達は今こうしているのだろう。
自分よりもだいぶ身長の高い征二の腕は、しっかりとユイを抱きしめていた。ユイはそれを拒否するでもなく、かといって彼の行動を受け入れるでもなく、ただ委ねていた。彼の着ているコートのこすれる音がする。
征二は何度もユイの髪を撫で、抱きしめるという行為を繰り返した。朴訥な割に繊細な征二だから、ユイの嫌がることはしない。しかし何度も、体温が伝わるほどにぎゅっと、彼はユイを抱きしめてきた。ユイは何も言えず、彼の気の済むようにしてやろうと思い、目を閉じていた。ただ、動悸がするので呼吸はやや乱れたが。
時計の針が3時をさした。一体どれくらい征二はユイを抱きしめていただろうか。ふいに、ユイは解放された。
恐る恐る顔を上げると、そこには見慣れたよりも少しやつれた彼が、中空を見上げていた。何となく彼の瞳が潤んでいるように、ユイには思われた。征二はおもむろに顔の前に手を差し出すと、ユイの手に花弁を一枚握らせた。
彼の表情は強ばったままだ。ユイは礼を言っていいものか迷った。
妙な沈黙が二人に訪れる。が、当の征二はそんなことを気にしていないのか、ユイの指先をじっと見つめている。
今度は何をするのだろう、とユイが思った矢先に、彼は台所へ消えた。
池袋のロフトでユイがいつか選んで買った、青い掛け時計の秒針の音だけが響いている。
「……征二?」
ジャラ、という小さな音が聞こえた。ユイはあっ、と声に出していた。二人の視線が合う。ユイは気まずくなって視線をずらした。征二はグラスに水を注いで飲んでから、つまらなそうに言った。
「薬を飲んでる」
「そう」
彼の大きな手の平にのった色とりどりの錠剤を見て、ユイはなぜか自分が打ちのめされた気分になった。
「解決しなきゃいけないから」
病気を治すことを言っているのだろうか。
「俺はね、ここにはいないんだ」
「そうなの」
いまいち、彼の言っていることがわからない。だが、聞き返してはいけない気がしたので話を合わせることにした。服薬が終わるのを待って、ユイは気になっていたことを口に出した。
「どうしてここに来たの」
この発言は征二の気を悪くしないだろうか、という懸念はあったが、気になったことは確かめずにいられないのが、彼女の性分である。征二は残りの水を飲み干し、一呼吸置いて言った。
「世界は、だらしなく滲んでいる」
「え」
ユイは息を飲んだ。征二の表情はどうも読みとりかねるのだが、その中に一種の鋭さを感じたからだ。
「天使なんて」
ユイは次にごくりと唾を飲んだ。この単語は、いわば彼の『狂気』の象徴であるからだ。
「どこにもいなかった」
「……」
唐突に、征二は口笛を吹き出した。ムーンリバー。ユイの好きな曲である。ワンフレーズを吹き終えたところで、今度は、征二はその場にしゃがみこんだ。
「征二?」
「どうして……いや、どうでもいいか」
ユイは目の前に繰り広げられる『異様』な光景に、思わず眉をひそめた。次々と変わる彼の行動と状態に、理解力がついていかないのだ。ユイが声をかけていいものかどうか迷っていると、征二と視線が合った。征二は、彼女の瞳の中に戸惑い、憐れみ、恐怖の色を微かに感じ取ると、
「やっぱり」
つまらなさそうに呟いた。
「俺は」
しゃがみこんだままで、征二は中空を見上げた。天井の染みが、人間の顔に見えるのがひどく不快だった。
「どこにもいないんだよ」
ざわざわと不穏な「何か」が征二を支配しはじめる。
そう。お前は、どこにもいないんだよ。
囚われの小さな神様。
お姫様を救えない哀れな神様。お前は、永遠にこちらの世界からは逃げられない。
身も蓋もない表現をすれば、脳神経伝達物質の異常とされている。たったそれだけの事象で、征二の世界は崩れ去る。
愛しい人。ただ一人の、ユイ。守りたい。
聞こえてはいけない声が、征二の脳を激しく揺さぶりはじめる。
見てみろ、彼女はお前など愛してはいない。彼女はお前を拒否した。
「嘘だ」
「征二……?」
ユイはぎょっとした。涙腺が痛くなるほど急激に、征二の目から熱い涙があふれ出したのだ。
「う、嘘だ……っ」
狭い台所で、二人はただ呆然とそこにいた。お手軽な慰めもとり繕うための言葉も意味がないし、そんなものをユイは持ちあわせていなかった。
俊一は胸焼けにも似た不快さを感じていた。このことを、母にどう説明しよう? 病院の体勢は一体どうなっているんだ。
「工藤さん」
看護師長がやってきて頭を下げた。
「申しわけありません。警察にはまだ届けてはいなくて」
「それで結構です」
俊一は自分でも口調がきつくなっていることに気づいたが、特に謝りはしなかった。それだけのことをされているのだ、当然である。
「僕も一応探そうとは思いますが」
「すみません」
「ただ、家には連絡しないでいただきたい」
俊一は、征二がいなくなったことよりも、それを母に報せようとした病院側の態度に腹を立てていた。この事を母が知ったらどうなるか。想像したくない。
「工藤さんは、携帯電話を持っていますよね」
「えぇ、弟には持たせてあります。時々メールもしますから」
「先ほどからかけているのですが、繋がらないんです。留守電にメッセージを入れましたが」
「そうですか。私からもかけてみます。メールの方がいいかな?」
「あの」
看護師長は口ごもった。
「おわかりとは思いますが」
「何ですか」
「万が一のこともありますから」
俊一は苛立った。ただでさえ不手際に不快な思いをしているところへ、わかりきったことを。
万が一、だと?
「病院の外は、工藤さんにとって刺激が多すぎる場所です。だから、調子を崩してしまう可能性が多分にあるんです」
「征二を決して否定しない。そうでしょう?」
「え?」
「弟のことは、僕がよくわかってますよ。あいつの言動につきあうのも、別にボランティアじゃない。家族だからです」
「……すみません」
「何かわかったら僕の携帯に連絡下さい。僕は一旦家に戻ります」
「わかりました」
俊一がそう言って病棟を去ろうとしたとき、ぱたぱたと足音を立てて小柄な看護師が走ってきた。
「工藤さん!」
美和だ。美和は、今日夕方からの勤務で先ほど事情を知らされたばかりだった。
「何か」
「ごめんなさい、あの」
「急いでいるんですが」
「どうか弟さんを怒らないであげてください」
「は?」
「工藤さんは、優しい方です」
俊一は眉をしかめた。急いでいるというのが聞こえなかったのか?
「工藤さんはいつも、ある人のことを想っていらしたんです」
何を突然言っているのだ、この看護師は。俊一は適当に「そう」と返事を返して帰ろうとしたが、
「……ある人?」
ひっかかって、聞き返してしまった。美和は呼吸を整えてから言った。
「ユイさんという方と私とを、間違えるんです」
またその名か。征二の心をいつまでも縛りつけるあの子か。
俊一は美和に気づかれないようにため息をついた。
「わかりました、叱りはしませんよ。ただね、僕も心配だから」
「すみません」
「失礼」
俊一は軽く頭を下げて、病棟を後にした。コート胸のポケットから携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで弟のメモリダイヤルを呼び出す。繋がるとは、思えないが。玄関を出ると、妙に暖かい春の風が俊一を包んだ。
平日の夕方でそんなに混んでいなかったのが幸いした。今の征二に人ごみはあまりいいとはいえない。いや二人には、だ。
二人は映画館の隅に寄り添うように座った。スクリーンに映し出されているのは『ロング・エンゲージメント』。第一次世界大戦中、戦場に行ったまま行方不明になった恋人マネクを探索する女性マチルドの物語。征二はじっとスクリーンを見つめている。ユイは征二の様子を見守っていた。
あれから、アパートで征二はしばらく泣いていた。ユイは彼の涙をどうすることもできず、ただ声をかけてやることしかできなかった。「どこかに行こう」と。
静かな場所がいいだろう。できるなら、座れる場所がいいだろう。そう思って、二人は映画館へ来た。正確にはユイが征二を連れてきた、と言った方がいい。
フランスののどかな田舎、ブルターニュ地方の風景に征二は見入っていた。ユイはそんな彼の表情を見守っていた。
そういえば、私達の初めてのデートも、映画館だったよね。レイトショーで、観たのは『ヴェロニカ・ゲリン』。悲しい話だったな、私思わず泣いちゃったっけ。そしたら征二、あとで私をからかったね。そんなこともあったよね……。
ユイは堪らなくなって、隣に座る征二の手を握った。征二は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに視線をスクリーンに戻した。
私の想いはちゃんと伝わっているのか。繋いだこの手は、離れても私を覚えていてくれるのか。彼は私を見ているのか。彼の中に『一つの世界』はあるのか……彼は、どこにいるのか。
わからない。でも、それでもいい。今は、まだ、一緒にいたいから。
ユイは繋いだ手を縋るように見た。征二は繋がれた手を振りほどくこともなく、かといって握り返すでもなく、スクリーンを見つめていた。
PHRASE14 喫茶店へつづく