PHRASE 14 喫茶店

結局、何度かけても携帯電話は繋がらない。俊一は一旦家に戻って、荷物を置くことにした。何の連絡も無しに帰りが遅くなるのは母親に悪い。気持ちが急いているせいか、ややスピード違反をしながら道路を走らせた。赤信号につかまる度に、舌打ちが出た。苛ついている自分が嫌になった。そしてますますアクセルを踏む足に力が入る。

家までもう少しと言うところで携帯電話が震えた。俊一は、いけないとわかりつつハンドル片手に電話に出た。着信が自宅からだったからだ。

「……もしもし。俺だけど」

「ああ、俊一」

母の声だった。か細い母の声。父が亡くなってからずいぶんと弱ったと思う。征二が病院へ運ばれたあの冬の日以来、ますます力のなくなったように思われる母の声が受話口から聞こえた。

「どうしたの? もうすぐ俺帰るけど」

「征二から手紙が届いているのよ」

「え?」

 

 

二人は迷子のように街をさまよっていた。しっかりと手をつなぎながら。いや、ユイが掴んでいたという方が正しいだろうか。映画が終わるともうすっかり日も暮れて、映画館のある通りにはネオンが輝いていた。二人は駅前の雑踏を避けて歩いた。通りを二本ほど奥にはいると、閑散としていた。時々自転車がすれ違うくらいだ。そこにあった一軒のさびれた喫茶店に入ることにした。二人はずっと無言だった。ユイは時々征二の表情を伺うようにしていた。

当の征二はユイのそんな仕草に気づいているのかいないのか、時々深呼吸をした。ため息だろうか?

喫茶店のドアを開けると、必要最小限の照明に小さなカウンター浮かび上がっていた。

ユイは征二を促して、一番隅の席に座った。征二は壁にもたれかかるように身を傾けた。どうやら少し彼は疲れているようだった。

「喉渇いたね。何飲もっか」

ユイはメニューを広げて征二に見せた。

「私、苦いの苦手だから。ジュースにしよっかな。征二は?」

「……そうだね。何にしようかな」

店内には客は二人だけのようだった。ちょうど二人の向かいの壁に、大きなアンティークの壁掛け時計がかかっている。針は午後の七時過ぎをさしていた。

征二はそれを少しだけ気にした。病院では、七時になると病棟が施錠されるのだ。

「征二、どうする?」

「え、あ、そうだね」

箱庭。僕はそこで暮らしている。

「あ、やっぱ私、紅茶にしようかな」

午前中に病院を発ってから、アパートでユイと再会して駅前で映画を見て。そして今は喫茶店にいる。これは征二にとっては幸福この上ない事のはずであった。しかし、逃走の疲労は、病状の安定しない彼の状態を崩すのに十分であった。征二はメニューを片手に持ったまま硬直し、まばたきを繰り返した。その彼の変化に、ユイは敏感に気づいた。

「どうしたの」

様々な現象、感情、風景、情報が混じり合い、彼の脳内でやがて混沌となる。征二の中だけで展開され、完結する世界。彼にだけ認識しうる世界。人はそれを『狂気』と呼ぶ。ユイは困惑を必死に隠して声をかけた。

「疲れちゃったかな?」

しかしその問いかけには征二は答えない。周りに人がいないのが不幸中の幸いだろうか。突如征二はこんなことを言いだした。

「毎晩、病院のベッドで君を抱く夢を見るんだ」

「えっ」

征二はユイの手をとると、右指をまじまじと見つめた。薬指の小さな傷跡。これはあの時ついた傷だ。

あの時。あの雨の日。僕が選ばれた冬の日。傷ついた君。君を守るために目覚めた僕。

征二の脳裏に、あの時舐めたユイの血液の味が鮮やかに蘇った。そしてそれは、あの時と同じく彼のリビドーを刺激した。征二の中の不穏な波が、欲望と入り交じって理性を食い破ろうとする。

君を守りたい。いや、僕は君に捨てられたんだ。でもまた出会えたじゃないか。

違う。これは間違っている。もう放しちゃだめだよ。さもないと来るよ。天使が来るよ。

……俺は誰だ?

どこからが自分の意志か、わからなくなる。畳み掛けるような声が彼を責めて放さない。

「征二、こんなところで何言ってるの」

暗めの照明が、彼の表情を余計に不気味に浮かび上がらせた。さっきまで無気力に彷徨っていた瞳は、爛々とユイを捕らえようとしている。

「俺は、本当に、君が、好きだ」

征二は何か台本でも読むように言う。

「毎晩だよ。ユイを思って……」

握られた指先に力が入れられる。ユイは戸惑いと憐憫とが入り混じった複雑な気分になった。固まりつつある空気を壊そうとして、ユイは手を半ば強引に離した。

「ね、注文しなきゃ」

「あ……」

「私が決めてあげようか。征二ってコーヒーは確かブラックしか飲めないんだよね」

「……」

ユイは彼の言葉の続きを聞きたくなかった。だから、無理矢理声を振り絞った。

「すみませーん、注文いいですか」

奥から初老の男性が出てくる。おそらくこの店のマスターだろう。

「アプリコットティーとマンダリンモカを」

「紅茶はストレートで?」

「いえ、えっと、ミルクで」

「少々お待ちください」

征二はちらりとマスターの顔を見た。後ろ姿が、父親に似ている気がした。生きていればあの人と同じくらいの年齢になっていただろう。

「私、いつまでたっても味覚がお子様でさ。ミルクティーしか飲めないの」

父親の葬儀の日も、確か雨だったな。征二はふと、そんなことを思い出した。

「アールグレイとどっちにするか迷ったんだけどね」

父さんは、母さんを残して逝った。

「ジュースはこういう所、割高でしょ」

母さんは、泣き顔に貼り付けたような笑顔をするようになった。

「せっかくだから、やっぱり紅茶がいいかなって」

ムリをしているんだ。だから、母さんが笑っていても、俺はいつも寂しかった。

「紅茶って、なかなか自分では上手に淹れられないじゃない?」

俺には、大切な何かが欠けている。そんな気がしていた。

「だからさ、こういう所のってきっとおいしいと思うんだ! だって600円もするんだよ」

でも、このどうしようもないと思っていた空虚感という名の穴を埋めてくれたのは、

「学生さんにはちょっとキツイかな? あはは」

君なんだ。

「でも今日は誕生日だし、いいよね」

「ユイ」

「なぁに?」

「アパートに戻ろう」

「え、この後?」

ユイは、病院は? と心の中で付け加えた。

「音楽が聴きたいんだ」

「音楽?」

「家にCDを置いて来きちゃったから」

「何のCD?」

「……何でもいいよ」

征二の眉間に、突如しわが寄り始めた。ユイは息を飲んだ。

「金は俺が払うから。行こう」

「だってまだ注文きてないよ」

「怒られたらどうするんだ」

「誰に?」

「誰でもいいよ」

「……?」

滅裂思考と被害妄想の開示。それは同時に今まで彼が必死になってしがみついてきた現実から離れかけていることを意味していた。征二はカウンターに両肘をつき、手で顔を覆い、思案する格好になってぶつぶつ言いだした。

「どうしよう……過渡期だ。平均値は曖昧なんだ」

ユイは何も言わなかった。いや言えなかった。わかっている。彼はとうに狂っている。狂ったその先で、きっと必死に生きている。ユイは今まで知らなかった。狂気のその向こうにも、人間の生きる道が存在しているということを。

「毎晩だよ」

征二はその言葉を繰り返した。

「こんな所にいたら、いつ奴らに見つかるかわからないだろ?」

「奴らって、誰?」

ユイは懸命に彼の話を傾聴しようとする。

「赤い目の、天使」

「天使はどこにもいなかったんじゃないの?」

「どこにもいない。まだ見つからないだけ」

「そうなの」

ユイ自身には自覚はないが、彼女は非常に深い慈悲を秘めている。そんな彼女の想いが心に届いたのだろうか。彼女の小さな体には、大きく『人を想う心』があった。

『病ではなく、人を見よ。心病む人のために尽くせよ。すべては、父なる神のために。』

そして彼女の慈愛は時に相手を選ばない。喩えそれが、一度見捨てた恋人相手であっても。そんなユイだから、征二は言うのだ。

「君を抱きたい」

と。ややするとただの欲求だが、征二はこの言葉をまるで祈りのように呟いた。

だからユイは一度深呼吸をしてから、静かに言った。

「いいよ」

PHRASE 15 終わりの瞬間