PHRASE15 終わりの瞬間

母は寒さの抜けきらない部屋の中で、征二から届いた手紙を食い入るように読んでいた。俊一はそんな母の様子を見守っていた。手紙の内容なら、自分が先に確認している。おそらく母が取り乱すようなことはないとは思うのだが。

「……俊一」
「何?」

母の口調は、思ったよりもしっかりとしていた。

「これ、あの子が書いたの。自分で書いたのよ」
「だろうね。ったく、誰にかぶれてるんだか」
「久しぶりに声が聞きたいわ。病棟に電話しようかしら?」
「それは、ちょっと」

俊一はまずい、と心中で舌打ちした。

「どうして? まだ消灯時間前だわ。あの子だってきっと喜ぶわよ」
「いや、あいつはいつも夕飯後には読書にふけっているんだそうだ。邪魔するのは悪いだろ」
「そんなことないわ。親の声が聞きたくない子なんていないもの」
「そうじゃなくて……いや、だから」
「いいわ。早く受話器を取って頂戴」

俊一は、長いため息をついた。俺はどうすればいい? 何のために今日一日を潰したんだ。

「俊一ったら」

あいつは何を考えている? こんな手紙をよこしたり、病棟からいなくなったり。

俺はあいつに振り回されている。

「ごめん」
「え?」
「俺、ちょっと出かける」
「今から? どこによ」
「征二に会ってくる」
「面会時間は終わってるわよ。電話で……」

俊一は毒を吐き出すように、怒鳴った。

「あいつはいない!」

母はぽかん、とした顔をしている。

「今、あいつは病棟にはいないんだ」
「え」
「本来は警察が捜すんだ。でも事を大きくしたくない俺の一存で、それは勘弁してもらった。だから、俺が会いに行く」
「会いに行くって」
「あいつに居場所なんかない。行くところは一つだろ」
「……」

俊一はスーツの上着を着直すと、車のキーをポケットに突っ込んで足早に玄関を出ようとした。母は今起きている事態を必死に飲み込もうとしている。

「じゃあ、行ってくるから」
「俊一」

だから、母親として言えることだけは言っておこうと思った。

「あの子を、叱らないであげて」
「……おんなじ事を、言うんだな」
「え?」
「なんでもない」


ユイの返答を聞いて、征二は息を飲んだ。『君を抱きたい』というのは、彼にとってほとんど独り言であり、また口に出してはいけない言葉のような気がしていたからだ。

ユイは対照的にふぅ、と息をついた。何かを覚悟したように。二人の間に何度目かの沈黙がおとずれた。

「おまたせしました。マンダリンモカとアプリコットティーです」
「あ、はい」

コーヒーの香ばしい香りが二人の鼻腔をつく。それは今の緊張感を少しだけほぐしてくれる。征二はゆっくりと、しかし一気にコーヒーを飲んでしまった。

「味わえばいいのに」

ユイは苦笑する。

「の、喉が、乾いてたんだ」
「そう」

 

君を抱きたい。

いいよ。

君を抱きたい。

いいよ。

 

征二の頭の中に、たった今交わされた尊すぎる会話がリフレインする。

ユイはアップルティーを香りから楽しんで、ゆったりと気持ちに弛みを持つことに努めた。あたしが緊張しちゃだめだ。だって、征二のカップを持つ手が、さっきから震えてるんだもの。

どうしてかな? 一緒に寝た事なんて、数え切れないくらいあったのにね。

「ユ、ユイ」

征二はカラッポのコーヒーカップを持て余しながら視線を合わせずに言う。

「本当に、ねぇ」
「?」
「えっと……」
「どうしたの?」
「本当に、いいの?」
「何が?」
「何が、って……」

征二はカップをソーサーに戻すと2、3度瞬きをしてから、

「俺と寝てくれるの」

まるで『このお菓子食べていい?』と母親にねだる幼子のように問うた。

ユイはそんな征二の様子が愛おしく、また同時に哀れに思われた。ユイは彼の質問には直接答えず、紅茶を飲みきって頬杖をついた。

「これで600円かぁ。サワー2杯分かぁ~」

征二は焦って額に汗をかいた。自分が的はずれな事を言ったか、もしくは言ってはいけないことを口に出してしまったのか。彼女が返答してくれないから、焦っていた。

「ねぇ、ユイ……」
「ねぇ征二、ここはおごってよ」
「え?」
「早く帰ろう。アパートに」
「ユイ……」

征二は今ここでユイの全てを抱きしめたい衝動に駆られた。だがそれを彼女の微笑みが抑制する。

彼女は、魔法使いだろうか?

二人は、喫茶店星のでない夜空の下を、歩いて、アパートまで戻ることにした。


俊一の車は、夜で通りも少ないせいか、いつもより早く着いた。『いつも』というものの、ここへ来るのは数える程度しかない。最初の引っ越しの時や、あとは仕事帰りに余裕が出来たときに、たまに一緒に夕飯を食べる程度。

鉄製の少し錆びた階段をのぼって、二〇一号室の前で俊一は歩を止めた。

呼吸を整えて、インターホンを押した。応答は無い。もう一度ボタンを押す。しかしやはり反応はない。

あいつが来るのはここしかない。あいつに、他に居場所なんてないんだから。

俊一は苛立ちを抑えきれずに、ドアをドンドンと叩いた。

「征二! いるんだろ?」

『母さんへ。お元気ですか?

僕の今の状態は、本当に僕が一番よくわかっています。僕は元気です。

僕は幸せです。毎日母さんや、兄さんや、あと父さんや、そして一番愛しい人のことを思いながらゆっくり時間が流れてこうして文章を書くことができるからです。

薬は減りませんが、慣れました。起床は6時です。作業療法も楽しいです。今は陶芸と革細工を作っています。ストラップを二つ作っているので、出来たら母さんに一つあげるね。

ご飯が口に合わないので、三キロ痩せました。気に入っていたジーンズが緩いのが、困っています。

[一番高い塔の唄]を知っていますか? 僕の一番好きな詩人の、一番好きな詩です。暗記しています。書いておきます。

 

何かにつけて服従する一方の

のらくらな青春よ

細やかな心遺いのために

僕の一生を棒にふった

ああ時よ来い

みんなの心と心が 寄り添うかの時よ

僕は呟いた

もういいじゃないか 姿を晦ましてしまえ

もっと高尚な喜びを

味わおうなんて期待しないで

何があっても引き返すんじゃない

厳かな退却だ

ぼくは本当に我慢した

永久に忘れ去ってしまうほどに

恐れも苦しみも

空に向かってとんでった

身を蝕む渇きのため

僕の血管は黒ずんでくる

まるで草原のようだ

忘却にゆだねられて広がりゆき

迷迭香と毒麦の花が咲いている

沢山の汚らしい蝿が

ぶんぶん唸り狂っているなかで

ああ こんな哀れな魂の

やもめ暮らしにゃ際限がない

その魂が抱きしめるのは

母の面影だけなんだ

祈りを捧げようってのか 聖母マリヤに

何かにつけて服従する一方の

のらくらの青春よ

細やかな心遺いのために

僕は一生を棒にふった

ああ時よ来い

みんなの心と心が

寄り添うかの時よ

 

なぜ僕がこの詩を書いたかというと、今の僕とすごく被さる部分があると勝手に解釈しているからです。僕の咀嚼が甘かったら、添削してください。母さん、国語の先生だったから。また手紙を書きます。次は写真も添えます。花の写真がいいと思います。征二』

二人は無言で、帰路についていた。しかし、この沈黙は決して重くはなかった。

今宵結ばれることが約束された恋人達が醸し出す独特の温かみに、二人は包まれていた。アパートが見えて来た頃になって、ようやくユイが口を開いた。

「コンビニに寄ってから帰ろうよ。色々とさ、準備しなきゃ」
「え、あ、うん」

スナック菓子と、ジュースと、安全に結ばれるための道具。それらを買うと二人の足取りも速くなる。アパートの階段をのぼる時などは、目があって微笑み会ったくらいだ。征二は生気を取り戻し、率先して前を歩く。ブーツのユイは少し遅れて歩いた。

俺は、幸せだ。

征二がその思いを心に染みこませようとした時、ちょうど階段が終わった。

気づいたのは、どちらが早かっただろうか? 終わったのは、階段だけではなかった。征二の視界に、見慣れた人物が現れた。いや、二人の幸せの前に、立ちはだかっていた。征二は立ち止まざるをえなかった。そうする以外、どうすれないいのかわからなかった。

「征二、なんで立ち止まるの?」

後からついてくるユイが彼を促す。しかし、征二は動けなかった。ユイも次の瞬間には、はっと息を飲んだ。征二によく似た、低い声がする。

「……征二」

俊一は、なるべく自分の感情を押し殺して声をかけた。

「わかってるな。病院へ戻るんだ」

そう言って車のキーを何かの宣告の様に征二の前に突きつけた。

「一緒に来い」

ユイが俊一の威圧感に、とっさに征二の服の袖を掴んで言う。

「逃げよう、征二」

しかし征二はうつむいたまま。

「あの、その」

征二の口調、雰囲気、すべてが硬直していくのがわかる。彼は今、一気に現実に引き戻されつつあるのだ。俊一は弟のそんな戸惑いを踏みにじりはしないが、かといって寛容にもなれなかった。

『あの子を、叱らないであげて』

母とあの看護師の言葉が、俊一の気持ちにブレーキをかけた。

「部屋の鍵を開けろ」

征二はぎこちない手つきで、震えながら鍵を開けた。カチリ、と無機質な音がした。

「帰れと言っても、お前はきっと嫌だと言うだろう。俺もお前を拉致してまで戻そうとは思わない。だから」

俊一はやや乱暴にドアを開けて、二人に入るように促した。

「じっくり話し合おうじゃないか」
「……わ、わかった」
「征二」

ユイは泣きたくなるのを堪えて、征二の後について部屋に入った。

星を隠していた雲が、雨を降らし始めた頃だった。

PHRASE16 罪滅ぼしへつづく